ささやかな日々

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2021年04月13日(火) 
空が堕ちて来そうなくらいの曇天。みっしりと垂れ込める雲を窓のこちら側からじっと見やる。夜のうちに既に降った雨でベランダの手すりは濡れている。そのひとつの雨雫に、今空を渡る鴉の姿が小さく映り込む。そんな朝。

中山七里著「護られなかった者たちへ」を読んだ。久しぶりに一気に一冊を読み切ってしまった。登場人物の誰か一人についつい入れ込んで自分を重ね合わせて読むのが大概だが、今回は何故だろう、誰か一人にというわけではなく、主要人物それぞれに思いを寄せていた。細い小川がやがて大河となって海に流れ出るような、そんなイメージが浮かぶような、読み手の想像力を引き出す骨太な作品だった。読んでいてずっと喉の辺りがひりひりした。共感せずにいられなくて、だからこそ握った拳の内側突き刺さる爪の痛みに唇を噛んだ。
社会って、法って、人間って何。
どう読んでも、そう問いかけずにはいられなくなる。私自身数年間、医者からドクターストップがかかって働けなくなり、やむにやまれず生活保護を受けた時期があった。だからこそ思う、感じるものが多々あったのかもしれない。そうであったとしても、十二分に読ませる作品であることに違いはない。
読み終えて本を閉じた瞬間のこの感じ、懐かしい感じがした。何だろうこの懐かしさ、と振り返って思い出す。ああ、高村薫作品を読んだ後の感じにとても似ているのだ、と。そんなことを思った。

PTSDや解離の症状が酷いと、とてもじゃないが本は読めない。読んでいるそばから意識が遠のく、活字が遠のく。いや、活字が文字として認識できなくなるからだ。記号かなにかにしか見えなくなってくる。とてもそこに意味を見出すことができなくなる。知人が「文字が跳ねる」「逃げる」と言っていたけれども、まさにそうで、文字が書いてあるはずと思って開いているのに、本の見開きの文字という文字が記号になり、意味を持たない何かとなり、跳ねたり踊ったり逃げたりし始める。とてもじゃないが意味なんて結ばなくなる。
だから、私は本を読める時期と読めない時期とがくっきり分かれている。読みたいのに読めないのは正直苦しいし、もともと読書が好きなたちだから、読むことに飢えてしまう。そして何度も、本を開いては頭を抱え、頭を抱えては本をもう一度開いて、ため息をつく。

久しぶりに読書ができ、しかも読み応えのある作品に出会えて、本を閉じた後ももっと読みたいもっと読みたいと心が言っているのが分かる。
机の端、山積みになっている本たちの、どこにまず手を伸ばそう。そんなことを考えるのも今はどきどきして楽しい。

文字が読めるって、幸せだ。心底そう思う。それができなくなる時間があるからなおさらに、そう、思う。

「人から受けた恩は別の人間に返しな。でないと世間が狭くなるよ」
「どういう理屈だよ」
「厚意とか思いやりなんてのは、一対一でやり取りするようなもんじゃないんだよ。それじゃあお中元やお歳暮と一緒じゃないか。あたしやカンちゃんにしてもらったことが嬉しかったのなら、あんたも同じように見知らぬ他人に善行を施すのさ。そういうのがたくさん重なって、世の中ってのはだんだんよくなっていくんだ。でもね、それは別に気張ってするようなことでも押し付けることでもないから。機会があるまで憶えておきゃあ、それでいい」

(「護られなかった者たちへ」中山七里著 より)


浅岡忍 HOMEMAIL

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