| 2021年04月09日(金) |
映画「すばらしき世界」を観に映画館へ。久方ぶりの映画館。わくわくしながら出掛ける。開始一時間前に券を購入しようと受付に行くと、もうすでに半分以上の座席が埋まっており。慌てて一番後ろの一番端っこの座席を指さして購入する。 仲野太賀演じる津乃田の目線で役所広司演じる三上が描かれてゆく。津乃田の心の中に渦巻く三上への思いのあれこれが洪水のように溢れ出てくる。それがそのまま私の心の中にも押し寄せる。 私はいつの間にか、三上を通して、自分が文通している受刑者さんたちの出所後という未来へ思いを馳せていた。彼らが出所した頃、世の中はどうなっているのだろう。まだ二十年近くの刑期が残っている二人それぞれに、出所した時、どれほどの生きづらさを抱えなければならなくなるんだろう。そう思うと、胸が抉られた。 三上がようやく就職し、働き始めたその職場での一シーン。たまらない思いがした。三上がぐっと堪え、いつもなら間違いなく飛び出して爆発していたに違いないのに、必死に自分を押し殺して堪えるところは、私がむしろ叫び出したくなった。 あの時、三上は自分を殺してしまったのではなかろうか。内なる死。 床に倒れ激しい雨に打たれながらコスモスに手を伸ばす三上が一瞬映される。それは持病の発作で倒れたに違いないのに。それは分かるのに。 私には、三上は自殺したんじゃないかと思えた。 いつもだったら薬を飲んで凌ぐ三上なのに。あの時あの夜に限って何故、薬に手を伸ばさなかったんだろう。それは、その日職場で彼が遭遇したあれやこれやの場面ゆえなのではないだろうか。あの時彼は、自分が堪えることによってやり過ごしたことによって失ってしまった何かを痛感せずにはいられなかったに違いない。そしてそれは、三上の生き様、これまでの生き様を、彼が自ら否定してしまったことに他ならない。三上はそのことに何より、耐え難かったんじゃなかろうか。 二重の死。私には、そう感じられた。 いや、映画の中で、それは何も語られていないし、むしろ、曖昧にされている。私が勝手にそう感じただけで、そんなことは映画の作り手は何も思っちゃいないかもしれない。でも。 私には、そう感じられたんだ。 最後に空にぽっかり浮かぶ「すばらしき世界」という文字。この言葉に込められたものは何だったのだろう、と、私はぼんやり、その文字の向こうに思った。
加害者の加害行為によって被害者が生まれる。 被害者を生んだ加害者。 加害者と被害者は決して対等にはならない。なれない。 どんな犯罪においても、そうなんだと思う。 そして誰もが、そんな「被害者」にも「加害者」にもなり得るのがこの世界。 また、一個の人間が、ある場面では「加害者」に、ある場面では「被害者」に、なり得てしまうこの社会。 だのに、「被害者/加害者」をどこまでも、「他人事」にしておきたい私たち。 どうして「自分事」にできないのか。見たくないからだ、自分の弱さも狡さも何も、直視したくないからだ。そうして目をそらし、見なかったふりをして、果てはなかったことにして私たちは今日も他人事の顔で生きてゆく。 でも本当にそれでいいんだろうか。だって。 いくら見ないふり、なかったこと、にしてみても、厳然とそこに在るのだ、私たちの弱さも狡さも何もかも。「加害者」であることも「被害者」であることも。あったことはなかったことにはならない。私たちは私たちの生き様に責任を負わなければならない。「自分事」として生きる。そのことをもういい加減、為さなければならないところにこの世界は来てる。 被害者も加害者も、あなたの中に在る。
帰宅し、はんぺんとひき肉を使って塩昆布味のつくねを作る。せっせ、せっせと練るはんぺんとひき肉。その中に、ついさっき見た三上の後ろ姿が見えるようで。そんな思いで作ったつくねを、私は噛みしめながら食べるのだ。 |
|