ささやかな日々

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2021年03月19日(金) 
早朝ふと見るとベランダのクリサンセマムがくたっとしている。慌てて如雨露で水を遣る。ごめんねごめんね、と唱えるように言いながら、たっぷり水をかけてゆく。菫とイフェイオンはこんもり花盛り。いや、クリサンセマムもそうなのだけれども、もうこのベランダの様子を見ていると春真っ盛り、というような具合で。季節の力ってすごいな、と思うのだ。
そうしているうちに霞んだ空に太陽が昇ってきた。朝だ。

対価型/地位利用型性暴力、という言葉を見つけてしまって以来、頭の中心の中その文言がぐるぐる廻っている。もはや居座っているといっていい。
だから今日カウンセリングでそのことに触れてみた。これまで私の被害という言い方をしても心の何処かで「私に起こった出来事なんて私が悪いに違いない」という思いがあった。心の何処か隅っこに、その思いは残っていた。でも。
対価型/地位利用型性暴力、というこの文言を読んで、いや、読んだ瞬間、すうっと降りてくるものがあったんだ。
ああまさにそうだ、私に起こった出来事もこうだった、と。繰り返し繰り返し凌辱された日々を省み、まさにそうだった、と、そう思ったんだ。
そこからどういう流れで別のテーマに移ったんだったか、正直言うと今思い出せない。ただ、いつの間にか別のテーマに移っており。私が父母から受けた言葉の暴力、情緒的虐待についてに話題は変わり。あんたなんていなければよかったから始まり、恥ずかしい、汚らしい、いやらしい、いったい誰に似たんだか等々。主に彼女から言われた言葉たちが淡々と蘇って来る。まさに淡々と。もはや私の身体の一部なんじゃなかろうかと思えるほど私に沁み込んでいるそれらたち。
診察室に入り主治医と向き合い、カウンセリングのことや骨折のことなど話すと、主治医が「躁転するかもしれないから気を付けないと、こういう時は」と言った。そう言われてなるほどと納得する。でも、いくら気を付けても転じる時は転じちゃうしなあと心の中思ったりして。いやいや気を付けるんだぞ自分、と言い聞かせてみたり。

息子の公文までの道中、久しぶりに川縁を走ると桜がずいぶん開花しており。息子と二人、いっとき自転車を止め眺める。保育園に通っていた頃は毎年ここらへんはお店が立ち並んでいたねぇなんて懐かしくなる。店の姿のない川縁はしんと静まり返って、隙間風が吹いてるみたいに感じられる。それでも咲く桜はやはり美しい。


浅岡忍 HOMEMAIL

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