ささやかな日々

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2020年11月14日(土) 
ヨガでは、自分がちょっとこの体位無理があるなと思ったら、その一歩前に戻りなさい、と教えられる。戻るという判断をすることも大切なことなのだ、と。
それまで、前に進むべき、としか思っていないふしがあった。前に進まなくちゃいけないのだ、と。でもこの、必要だと思ったら一歩前に戻る判断を自分でしなさい、という教えは、私に違う地平を見せてくれた。何でもかんでも前進すればいいわけじゃあないのだ、自分で、必要な時に、必要なことを判断することこそ大事なのだ、そこには一歩戻るという選択肢もあり得るのだ、と。
ちょうど前後して、一緒に加害者プログラムを進めている精神保健福祉士のS先生が、一歩進んで二歩さがる、という言葉を私にくれた。何でもかんでも前に進めばいいわけではなく、たとえ一歩進んで二歩さがるんでも、動き続けているという意味で必要なことなのだ、と。そのことを教えてくれた。
被害に遭い、PTSDと解離性障害を背負い込んでからというもの、元に戻ろう戻ろうとばかりしていた。被害からほぼ十年は、ひたすらそんな感じだった。
でも。
戻りたくても戻れないのだ、という現実を否応なく前にし、元に戻れないことを受け容れるしかなくなった。あの当時はただただ、絶望があった。
その絶望を経て、じゃあ今は?と言えば。
元に戻ることはできないということを受け容れてから、生きやすくなった。格段に生きやすくなった。ああこれはもう私には無理なのだ、と諦めることができるようになった。もちろんそこに悔しさや悲しさは付き纏うけれども。それも含めて、自分なのだと許容できるようになってきた。
そして、何よりも。元に戻れない、だから、ここから新しい自分になるのだ、という気持ちが新しく生まれてきた。この新しい気持ちに出会えたことはとても大きい。本当は、被害にさえ遭わなければ諦めなくてもよかったことがたくさんあった。今だってそういうことがある。でも。もはやそれを言っても何も始まらないということも解った。だったら今ここから私に何ができるのか。
新しい自分を作ってゆくこと、そうして生き続けてゆくことだけ、だ。その為に、一歩戻ることも、二歩戻ることも、もう厭わない。必要とあらば、退散することも厭わない。心の奥底で悔しさやるせなさがぎゅうぎゅう泣いても、必要ならば為す。私が納得して今ここを生きる為ならば。それに必要ならば。いくらだって。

遊びから帰ってきた息子に、トマトがほんのり色づいてきたよ、と話したら「僕もう知ってる!」と鼻高々に言われて、ちょっと笑ってしまった。クリサンセマムは今日もきれいに咲いていた。水を遣りながらラベンダーを撫でると、指先に少しだけラベンダーの香りが移ってきた。青々とした、瑞々しいいい香り。ふと西の空を見やれば、日が堕ちる直前の橙色の陽光がまっすぐ私の眼を射た。


浅岡忍 HOMEMAIL

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