ささやかな日々

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2020年09月23日(水) 
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f64457ac5b6b9795b0e0ec4
「常に私もジャッジされているんだと思いました。他人にジャッジされるというより、自分の撮った映像にジャッジされるというか、ちょっとでも超えてはいけない一線を越えたら、それは映像にはっきり現れるんです。これはフィクションでもドキュメンタリーでも同じことだと思います。
ただ、その時以来何かが変わったのは事実で、カメラの持つコミュニケーションの力の大きさも実感しました。カメラに暴力性があるというよりも、それは自分自身の中にあってカメラがそれをさらけ出してしまうんだと思います。ですので、それをきちんとコントロールする意識を常に持ってカメラを回すようにしています」(映画監督・小田香さんの言葉として。記事より)

「カメラに暴力性があるというよりも、それは自分自身の中にあってカメラがそれをさらけ出してしまうんだと思います」。
本当にそうだ、と、記事を読んでつくづく感じ入った。以前、傲慢な私と写真と銘打って文章を書いたことがある。私は傲慢な、という言葉でこの暴力性を語ったけれど。どちらであっても、「カメラ」がそれを備えているのでは、ない。私達の内奥にそれはすでにあって、それをカメラが露わにしてくる、というだけのことなのだ。
同時に、カメラには癒す力もあると私自身思う。カメラを挟んでこちらとあちら、向き合うことによって、そしてそれを写真として刻み込むことによって、癒される何かしらが、確かにある、と。
言葉が諸刃の剣であるのと同じく、カメラもそうだと思う。使い方次第で、どちらにも転んでしまう。つまり使い手に、その責任はすべて、掛かっていると言える。
どんな道具であっても。使い手が使い方を間違えばひとの命を奪いかねない。そういう、ものなのだ。

台風が近づいていると天気予報が告げてくる。進路が多少ずれたとはいえ、明日は天気が荒れるだろうから注意するように、と繰り返し告げてくる。私は明日、ボランティアで少年院に対話しに行くことになっている。
とりあえず。電車さえ動けば何とかなるだろう。


浅岡忍 HOMEMAIL

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