ささやかな日々

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2020年06月04日(木) 
 まるでスイッチが切れたみたいに、数時間睡眠を貪った。ばたり、と布団に倒れ込んだその瞬間意識がすでになかった、と言っても過言ではない。そのくらい、張り詰めていた気が突如切れた。
 おかげで、目が覚めた瞬間爽快で、この爽快さが続くならもっと布団に丸くなっていてもいいんじゃないかとさえ思えてにんまりした。もちろん起きたのだけれど、それまでうっすらグレートーンの中に在った世界が、一気にフルカラーになったかのような鮮やかさでもって立ち現われた。ちょっとびっくりしながら、でも、まぁこういう日もあるよな、なんて無理矢理自分を納得させ、とりあえずやれることにとりかかる。
 息子は分散登校四日目。学校はあまり楽しくないようだけれど、友達に会って遊べるのはたまらなく嬉しいらしい。友達と遊んでくる!と言う時のあの、弾けんばかりの笑顔。こちらまで楽しく嬉しくなってしまう。
 搬入を二日後に控え、最終チェックの段階。でも最後までプリントで悩んでいる作品が一つある。納得がいかないのだ。こうじゃない、もっとこう、目が立つような、そういう仕上がりにしたいのに、それができないでいる。粒子の目が寝てしまうのだ。昔の銀の含有量が多かったあのフィルムと同じ仕上がりにしたいのに。あのフィルムが生産中止になって以来、私の写真の状況はずいぶん変わった。変えなければならなかった。仕方がないこととはいえ、いつもこの、仕上がりの粒子の様子には悩まされる。最後この一枚。一枚が決まればそれで完了なのに。くそっ。
 そして明日は自分の誕生日。かつ通院日。これで半世紀生き延びたことに、なる。あっという間だったような気もするし、とんでもなく長い時間だったような気もするし。どちらでもあるというのが正しいんだろうと思う。
 二十代に入ったばかりの頃、私は自分は三十代前半で死ぬんだと思っていた。思っていたというか、そう信じ込んでいた。長生きなんざくそくらえ、冗談じゃないと思っていた。それが三十代後半になり、死に損ねて、四十代を迎え。四十になってはじめて、年齢が自分についてきた、そういう実感があった。ようやっと自分と年齢が噛み合ってきた、というか。
 そして五十。ちょっと信じられない。五十年も生きてきたのかと思うと、ぼーっとしてしまう。まだ全然実感が沸かない。別に早死にしたいわけじゃ今はないけれど、でも、自分の身体を自分でちゃんとコントロールできるうちに死にたいものだとは思う。最後までそうであるために、運動は適度にしておかないと。
 ネモフィラの芽が、強風に負け、ほとんどが根元から折れてしまっている。丘の端っこに建つ我が家の風の具合は半端ない。可哀そうに、と撫でてみるがもとに戻るわけもなく。ごめんね、と言いながらそっとプランターを端に寄せる。ひとつでも生き残ってくれる芽があるなら、それだけでも育てたい。
 朝顔は、息子の芽がもうぐいぐい伸びて無事弦が絡まり始めた。私のは、まだ。向日葵は向日葵で、ダメになった子三つほど、他は何とか無事育っている。コンボルブルスは今のところ大丈夫そう。
 空が霞んでいる。ぼんやり輪郭線が蕩けている。暑さのせいか、それとも埃のせいか。どちらだろう。もう少ししたら犬の散歩に出掛けなければ。とりあえず白湯を一杯。


浅岡忍 HOMEMAIL

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