昼食に誰かを待つ日は

2020年03月15日(日) みんな赤ちゃんだったのに。

十時過ぎ起床。今日は晴れていて部屋に光が差し込んだ。シャワーを浴びて、バナナきな粉蜂蜜ヨーグルトを食べて、急いで着替えて労働に出向く。
店について、店主が来る前にお客さんが来てしまったから、見よう見まねでカレーを作っていたら案外うまくいった。サラダもちゃんと出せた。スープカレーもちゃんと出せた!店主に褒められる。うれしい。それから今日は4月からこの店で展示をする画家の男の子(?)がやってきたのでチョット話す。絵を見せてもらうと、横尾忠則の絵のような天国地獄曼荼羅夢……のような要素の絵だったので驚いた。よくよく話を聞くと、おばあちゃんが祈祷師だという。それも熊野古道ちかくの。この間行ったばかりだ。
そんなこんなでピーク時間が過ぎて、三時過ぎにはもう労働が終わった。店主が完熟バナナ王をくれる。バナナをふた袋注文したつもりが、なぜかダンボール二箱分届いてしまったようで困っているという。バナナはだんだん黒くなってゆく。ちょうどヨーグルト用のバナナが切れていたので、ありがたく頂戴し、店をあとに。その後古本屋に行って「ロシア短編集」を買い、ルノアールで本を貪り読む。寒々とした場所に暮らす人々、酒場、鬱蒼とした街並み、老人、美しい少女、痘顔の仕立屋…あらゆる想像力をかきたてられて、ずんずんずんずん読んでしまう。色がいつもはっきりしていないところがよく、何もかもクリアではないところがいい。手触りでいうと、サラサラではなくザラザラしている。私は漠然とロシアという国にロマンを感じているのかもしれず、ときどきなぜかロシア語の辞書をたまに読んだり、ロシア民謡を聴いたりしている。寒い、というのが何とも魅力的だ。温度の低い小説がよみたいと思っていたのだが、本当に寒い国で書かれたそれを読むのが一番手っ取り早かった。

そして十八時過ぎ、渋谷に向かう。「娘は戦場で生まれた」を鑑賞。ただただ見つめている最中、恐怖と悲しみと何もかもが押し寄せて涙が溢れて仕方がなかった。子どもが、死体を眺めているんです。なんの罪もない子どもが、ただベランダの外に出ただけで死んでしまうんです。そうして兄弟は、死んだ弟のそばで「何もしていないんだ!」と泣いて、泣いて泣いて、でもその周りにもたくさんの死体がある。こんなことが本当に起こっているということ、信じられない。信じられないけれど事実だった。もう最後のほうは呆然として、でも目を背けてはならないと画面を見つめていた。どうして、生まれる場所を選べないのだろう。どうして、私は今は安全で、あの子たちは危険なのだろう。どうして、殺す側の人間と、死ぬ側の人間がいるのだろう。なぜ誰も止められないのだろう。そうまでして、そうまでも危険な状況のなかで、でもなぜ子どもが生まれてくるのだろう。映画のなかで、妊婦が撃たれたあと病室に運ばれ、医師が帝王切開をして腹のなかの赤子を取り出したシーンを、多分忘れられないだろう。赤子は息をしなかった。真っ白い体で、なにも知らずに腹のなかから取り出された赤子、こんな状況のなかで、無理やり出された赤子。医師は、あきらめずに何度もなんども赤子の息を吹き返すために、ひっくり返してなんども叩き、あきらめなかった。周りではたくさんの人が死んでいるのに、ここでは子どもの命を取り戻すために戦っている人がいた。そうして、赤子は息をして、泣いたのだ。その瞬間、その瞬間に私は、全身に鳥肌が立った。息をした、それだけがその瞬間の全てだったように思う。殺す側の人間も、みんな赤ちゃんだったじゃない。みんな、誰かの手を借りて、泣くことを望まれて生まれてきたのじゃない。なのにどうして、その赤ちゃんだった、その赤ちゃんだった人たちはどこで間違えてしまうのだろう。あなたも私も誰かの手から、取り出されて抱かれて、泣いて、確実にその鳴き声は誰かの希望だったはず。あの手の記憶を、誰しもがちゃんと覚えていれば、忘れなければ、そういうふうな作りになっていれば、人間が人間を殺すことなど、絶対にできやしないはずなのに。どこで間違えてしまうんだろう。どうして、弱かった、何もできなかった頃の自分を、忘れてしまうの。

映画を見た後は何も喋りたくなくて、もくもくと歩いた。とてつもないものを、見てしまったよ。

誰かを、命と一緒に信じたいね。


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左岸 [MAIL]