昼食に誰かを待つ日は

2020年01月05日(日) スーパーマンになれない

大した仕事していないのに、こんなに長期間の休みが与えられてしまった。そしてもう終わる。でもヴァカンスが1ヶ月近くあるフランス人たちを思えば、こんなのあまりに短すぎるとも言える。今日は実質9日間の最後の休みの日でしたが、ウォーミングアップとしてカレー屋の労働に行って、店主にブツクサ言われながら働きました。家族連れの客が多く、子供用のカレーに蜂蜜や生クリームを投入してかき混ぜる時間が長かった。あとは牛すじをブツブツ包丁で切る。手が油まみれになって臭くなり、石鹸で洗ってもこのぬめりは落ちない。肉を包丁で切るのは全然楽しくない。人参の乱切りはサクサク切れるから楽しい。何事もリズミカルに行けると楽しいんだな。頭から足の先にまでカレーの匂いに包まれた状態で、カヨちゃんと井上とスタジオに行った。実際に音を鳴らすと疲れるということを知る。でもドラムを叩くのは楽しかったし、下手くそなりに何かを鳴らすその姿勢が好き。井上が一生懸命歌らしきものを歌っていた姿は愛おしく思えた。下手くそだったからよかった。カヨちゃんは不安げにベースを鳴らしていたけれど、その不安定な感じもよかった。私は意味のわからぬままドラムを鳴らしていたが、何をしているのか自分でまったくわからず、音楽はやらないほうが身のためだろうと悟る。大事なことを悟れたと思う。

昨日は早稲田松竹で田中絹代主演の『西鶴一代女』を観た。首筋や歩き方、首のかしげ具合や声質、おくゆかしい態度、すべてが艶かしくて哀しかった。昔の女優を見ていると、女として生きられているような気がとてもしなくなる。「女」も「男」も、もうこの時代にいないんじゃないかと思う。同じよな顔をした女の子で溢れている現代で、本当の声を持つ子はどれくらいいるんだろうか。昔の映画にもっと触れなきゃなあ。この日の夜は成瀬巳喜男の『浮雲』を見たけれど、高峰秀子も森雅之も「女」であり「男」であった。映画を見ている最中に、尊敬している人は高峰秀子であったことを思い出し、彼女のように我慢強く凛として生きられるようになりたいと思っていたのだった、と思い出せたことが良かった。私はすぐ流される。そして彼女のようになれるわけは到底ないのだけど。存在していた、という事実だけでも心強い。


カレー屋を出た後、歩いていたら目の前でおじいさんが倒れた。手を差し伸べる人が多かったので、おじいさんはだれかに抱えられて救助されていた。私はそして、そのままそこを通り過ぎた。通り過ぎると、カップルが携帯のゲームで遊び、子どもたちが大人に手をひかれて歩き、服屋では店員がせかせかと動いている。すぐそこでおじいさんが倒れたことなど誰も知らず、数歩あるいただけで「倒れた人がいる」事実がかき消され、歩いている景色に危険なものはなにひとつなかった。こんな状態で、遠い国で惨事が起きていることを、真剣に考えられる余地はあるんだろうか。遠い国で起きた惨事のことを思った。日本は平和ボケをしているというけど、平和に生きる以外に何ができるというのだろう。確かにニュースはあまりに幼稚で、重要なことを何一つ報道していない。メディアなどもう一切の信用ができない。でも、外を歩けば家族連れやカップルがいて、すっ転んで子供が泣き、至る所に装飾が施され、サイレンの代わりにときどき不愉快な音たちが溢れ、そのなかで、情報源といえば手の内にあるスマートフォンの画面に表示されるニュースであって、電源を消してしまえばもう何もわからない。今考えなきゃいけないことは何かと問われても、もう近しい人たちと過ごす時間のこと、自分の予定、仕事のこと、それだけで精一杯になってしまう。大事な人の寝顔を見られなくなる、大事な家族と会えなくなる、この生活がなくなってしまう、自分の周りに起こり得るべき惨事について考えると、でもそれは非常事態であって、下手すると私は生きられない。けれども、自分の周りにそういうことが起こり得る状況であることがすぐそこまで迫っているんですよね。いつどこで地雷があるのかわからないわけですね。そうなると、そうなってしまう前に、やっぱり自分が愛おしく思うものに割く時間が本当に大事で尊いものに思えてくるわけだ。それを平和ボケ、というのならばもう何もできやしないよ。戦い方がわからないし、抗い方がわからない。これは、無力なことなのだろうか。


スーパーマンになりたい、と歌っていた小山田さんはどんな気持ちだったんだろう。ふと思い出した。
スーパーマンになれないから、なりたかったんだろうか。


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左岸 [MAIL]