昼食に誰かを待つ日は

2019年05月29日(水)

朝。黄色い服を着た。

いまはつかれて、今日の記憶をもう忘れさせようとしている。
いろんなひとに会って、話しすぎて、エネルギーがなくなった。

充電の仕方は、人に会う時間の倍、倍、倍以上ひとりになること。


どうせいつかは自分も死ぬわけだけど、悲惨な事件はスクロールして、指先で眺めるようなことでは全然なく、かといって、目の前で生々しい現実を知りたくもない。なぜ、わたしは無事なんだろう。
生きていることに慣れているけれど、段々生きていることが不自然にも思えてくる。

わたしの支えは、ある種の諦念感。希望も願望も期待もない。
ただただ、朝が来て目が覚めることの繰り返しで、日差しが入るとうれしい。
朝が気持ち良いとうれしい。ある日突然そういうことが出来なくなってしまうのだ、と想像すると、とても悲しい気持ちになる。

そういえば、きょうHさんは前髪を結っておでこを出していて、よかった。
いろんな物事に無味乾燥なHさんの態度を見ていると、なんだかとても安心するのだ。
なにもかも、「ああそうなんだ」と受け入れる態度。何にも期待していないひとが言えることだ。
あのひとの何がいいって、「私」と、一切言わないこと。主語がない、主体がない、でも存在している。
ただ、このひとは今どこに立っているのだろう、と時々思う。半分ゆうれいみたいで、透けている。



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左岸 [MAIL]