昼食に誰かを待つ日は

2019年05月26日(日)

朝、1月に申請していたパスポートを受け取りに千葉へ向かう。きょうも暑い日だった。
パスポートの自分の写真は、幼く、そして老けていた。相変わらずしまりのない顔をしている。
アイスコーヒーを飲んで休憩。暑いから、怪談の短編を読んでいた。とても暑い8月に、とある男は考える。ああ暑いなあ。この世で一番すずしい場所は、プールの奥深いところだけなんだろうなあ。それから男はハッと、突然絵を描き始める。ぶくぶくに太った男が裁判所で判決を下されている場面。男はこの絵を描けたことに満足して、ぶらぶら外を歩く。そしてとある庭に入り込んでしまうと、そこには、さっき自分が描いた男とそっくりの人物がいて…という話。このヘンテコな話が気に入った。暑いなあ、から始まるところにただ共感しただけなのかもしれないが。

友達の写真展を見に、浅草橋で下車。歩いている途中、缶コーヒーを蹴っ飛ばしてしまう。中身が入っていて、足にコーヒーがかかってしまった。(しかも今日はサンダルだった!)なにが起きたのかわからなくて、気付いたら手に持っていた爽健美茶を、足に垂らしていた。なんとなくかなしい気分で、靴擦れしていたところが急に痛み出し、その足でコンビニに向かって絆創膏を買い、足首に貼った。
Kちゃんの写真。静かで、ひんやりとした空気の立ち込める不思議な写真たち。添えられた短い文章も簡潔で、すっと馴染んだ。ギャラリーのかたすみ、にその写真があることも納得がいく。そういえば、孤独死、というワードがあったけど、きょうこの後、孤独死について考えることになる。

上野。人が多く、やっぱり嫌になった。座る場所を探すため、上野公園を歩きまわる。結局見つからなくて、木陰をただ歩いていた。アイスクリームを食べているひとたちが眩しい。I君がやってきて、上島珈琲で涼む。彼は仕事をしていた。私は怪談を読んでいた。けれど、隣の女性たちが交わす会話が嫌でも耳に入ってきて、集中できない。そのうち、机の上に見たことのない色の虫が現れて、そいつが少し可愛くて、眺めるのに夢中になる。小さな小さなその虫に、でも触覚はしっかりとあって、なにかを求めるようにいそいそと歩き回っていた。Iに、虫がいるよ。と話しかける。彼は顔を近づけて、「これは外来種かもしれないよ」という。確かにそうかもしれなかった。それからしばらく、小さな虫が進む方向に障害物を置いたりして、ちょっと意地悪なことをしていたら、その虫は、知らない間にどこかへ消えていた。虫が嫌いなのに、初めて虫と遊んだな、と今気づく。
クリムト展を見るために美術館内に入った。人が多く、ディズニーランドのアトラクションに並ぶ人たちのようで、なにをしに来たのだか目的を忘れかけてしまいそうになる。そしてわたしたちは並んでいる最中に、けっきょくその列から抜け出して、動物園に行った。

閉店間際の動物園。パンダは見ていない。足の長い鳥や、白くないホッキョクグマ、大きなゾウ、悲しい目をした猿、水のなかに潜って体を冷やしているバク、青い鳥、やせ細ったトラ。
まるで老人夫婦のような鈍くゆっくりとした動きで園内を歩く。動物たちを見ても、ワクワクすることも、ウキウキすることもなかった。けれど、また会いたい。また、会いたいな。

帰りの電車で、ふっと東洋経済の記事に目が止まる。都内に住む40代の女性が孤独死をした、という記事。孤独死は年々増えているらしい、というのは知っていたけれど、その内容が凄まじく、見たくもないのに亡くなった現場の写真が不意に現れて、それが今、全然消化できない。
独りでいることが好きだけど、独りで死ぬことを想像したことが、実はあんまりない。この記事を読んで、突然「独り」ということが怖くなった。この女性は、20代の頃は健康で婚約者もいて、充実した生活を送っていた。でも体に病気が見つかって婚約破棄、その後体調も精神面もおかしくなって、最期は、トイレで死んでしまった。そのまま誰にも見つけてもらえないまま、4ヶ月。部屋には悪臭が立ち込めて、悲惨な状態だったという。正直なところ、こんな記事を見つけたくなかったし、読みたくもなかった。けれど、金曜日も仕事でとある包括センターの方と話しているときに、孤独死についての話題が出たのだった。そのひとは、「まずはとにかく身近なひとに関心を持つことです、どんな些細なことでもいいから。」といっていた。要するにコミュニケーションを取ることで、これは、いろんな問題が積み重なっているなかでのほんの初歩的なことに過ぎないことだけれど、きっと最も重要なことなのだ、と思う。そして実はとても難しいことだ。

「絶対の関心とは、祈りである」 シモーヌ・ヴェイユ

孤独、孤立、というのは、とてもこわい。独りが好きだけれど、それは、人がいるから、大事な人たちがいるから独りになれるのであって、本当の独りになるのが、とてもこわい。自分に関心のあるひとなんて、全くいないとも思っている。ましてこんな日記など、誰の関心も向けられず、誰も興味なんてないのだ。
卑屈になってはいけないよ、とIに注意を受けたことがあるので、卑屈にはならない。けれど、今日は初めて、「独り」ということの、もがくような辛さを、先ほど想像していたのだった。こんな風に死んでしまう人たちが、どれほどいるんだろうか。記事の写真が、わたしはとても怖かった。Kちゃんの写真を思い出して、払拭しようとしたけれど、生々しいそれは、本当に頭の中に残ってしまったのだ。
プールの奥底くらいにまで静かな状態に心をもっていきたい。ノラジョーンズは独りで車に乗って、辺りに何もないだだっ広い道をどこまでもどこまでも走っていて、それは美しい女性の姿。顔には凛々しさがあった。
強くてたくましくて、飄々としている女性に憧れているのに、こんな風にこわいこわい、と嘆いていては、そんな風になれないな。

うまくまとまらない日だ。そういえば、今日からの日課として毎日必ずキウイを食べる。
きょうはキウイを二つとりんごを一つ買った。キウイはすでに熟れていて甘い。


 < 過去  INDEX  未来 >


左岸 [MAIL]