てくてくミーハー道場

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2017年10月07日(土) 『トロイ戦争は起こらない』(新国立劇場 中劇場)

難解そう。

そう思うでしょ?

ぼくもそう思いました。

なので、最初はそんなに観る気なかったんだけど()、せっかく三連休なので(?)行きました。





良かった。時間とチケット代、損しなかった(言い草に気をつけろ!)

たぶん、何年か後にはストーリー全部忘れてる可能性大だが(そんなら観なくてよい!/叱)




で、本題に入りますが、なぜかぼくの席の周辺は、ふだんぼくが観ているような作品ではあまり見かけない20代男子5、6人に取り囲まれてしまい、非常に不穏な気分()になりました。

こう言っちゃ失礼だが、キミたちにこういう芝居分かるんかね?とエラそーに心の中で呟くおばさん。

案の定、上演中非常に落ち着きがない彼ら。

おそらく大学の課題かなんかで来させられたのではなかろうか。

もしくは、どこかの劇団の研究生だろうか?(見かけ的に)

なんと彼ら、二幕になったらいなかった(降参したか)

全部観ないで課題クリアできるのか。余計な心配をしてしまったのですが、一方ぼく自身の方はというと、事前に覚悟していたより数段面白い戯曲だったのでなんか得した気分。

主演は今をときめく鈴木亮平。

ぼくが彼を舞台で観るのはこれが2度目で、1回目はもう4年半も前になる。

当時はプログラムで名前を確認するレベルだったのに、この数年間であれよあれよと大物におなりになって、来年の大河ドラマの主役だもんなあ。

長身のみならずガタイが良いので、軍服にマントがすばらしくよく似合っていた。

もちろん芝居の基礎力もある。

ただ、ぼくの異常な嗜好(おい)は、こういう威風堂々とした男には全くそそられないという悲しい特徴があるので、感想は以上である。(・・・好きにしろ)


その奥さん役に鈴木杏。おお、夫婦で苗字が同じ(←バカ)

いやそれはどうでもいいんで、杏ちゃん何となく雰囲気変わった?というか、ぼくにはいつまでも“才能ある子役上がり”なイメージだったのだが、もう大人の女優だよな。少女っぽさがすっかり鳴りをひそめて、独り立ちした女性らしさをまとっていた。

ところで、今回の作品、女の人たちはお話の時代のトロイアっぽいずるずるしたドレス姿だったんだけど(トロイの王妃・エキューブだけは20世紀半ばの高齢女性っぽいロングジャケットにパンツスタイル。ここもまた意味深)、男たちは20世紀半ばのシャツとズボンや軍服なんだよな。

この奇妙なズレ感。

登場人物たちの価値観のズレ感(同じ時代の衣裳を着てる人たち同士が同じってわけではない)ともリンクしてるみたいで、非常に面白かった。


んで、ぼくにとって一番衝撃的だったといいますか、2時間半の上演時間中、一番その人ばっかりに目が行ってしまったのが、一路真輝 as エレーヌ。

エレーヌっていうのは劇中の発音で、世間の人たちには()ギリシャ神話に出てくるときの名前「ヘレネー」の方がおなじみでしょう。

そう、世界三大美女の一人に名を連ね(この「世界三大美女」ってのにも諸説あるみたいですが)、なんにせよ“美人過ぎたせいで戦争(つまりトロイ戦争)を起こした”、まさに「傾城」の名にふさわしい女性です。

しかもお父さんはゼウスとかいう、人間と神のハーフ。さすがギリシャ神話。設定自由すぎます←

そんなとてつもないキャラを、「わたくしですが、何か?」みたいにおすまし顔でするっと演じてしまえるイチロさん。

とても○歳とは思え(女優に対して大禁句!)



こほん。とにかく、彼女が登場するまでの間に、舞台にいる人たちが口々にいかにその女が美しさの極みであるかを長々としゃべくりますので、並みの美人程度なら、出にくくてしょうがないはず。

観客に「へぇー、そーんな美人なんですかねぇー。ふぅーん。そんなら見てやろうじゃないの、その美人さんを」と思わせ、実際出てきて、

「ホンマや!」

と思わせる、その底力(語彙が不適当ですか?)

感服いたしました。

しかもこのエレーヌ、はっきり言ってすごく性格悪い(えっ?そうとったの?あなたは)

悪いですよ。人を馬鹿にしてるっつうか。スパルタ人がトロイア人を若干見下していたっていうことを戯曲が表現してるのかも知れませんが、そういう女性に描かれています。

でも、トロイアのバカな民衆ども(こら、便乗するな)は、そんなエレーヌに見下されて喜んでるという、これまたジロドゥの痛烈な憤りがここで描かれています。

とにかく主人公エクトールは、この当時世界一の美女を前にしてもヤニ下がるどころか、とにかく女癖の悪い弟(パリス)がしでかした犯罪(他国王の妻誘拐)を何とかうまくごまかして、愛する妻と生まれてくる息子のために戦争を回避しようと頑張るんですが、それをことごとく邪魔しやがるのが、自国のぼんくら爺ども(言葉がどんどん悪く・・・)という、内憂外患の極み。

第二次世界大戦前夜のフランスで外交官をしていたジロドゥにとって、無意識でも意識的でも戦争へ戦争へと事を運ぼうとする周囲の手に負えない輩へのいらだちが、この戯曲を書かせたんだろうなあ、とシンパシーを感じずにいられない。

かといって深刻一方の、眉間にしわがよりまくるような重苦しい芝居かというとそうでもなく、いや、本人は真剣にそう感じていたのかもしれないけど、ときどき「そこまで言っちゃいます?!」ってなキツいセリフがあったりして、ぼくは客席で思わず笑ってしまうことしばし。

たとえばいきなり「老人が未来のことを考えるなど無意味だ!」みたいなことをエクトールが老人たちに向かって言ったり(日本人にはとてもとても言えない・・・ですよね)

トロイ中から美女よ女神よと崇め奉られているエレーヌに対して、エクトールの末の妹である(年齢は不明)ポリクセーヌが「おばちゃん」と身も蓋もない呼び方をしてみたり(ふつうならここで「お姉さんでしょ!」と怒るのは日本人的なんでしょうな。ヨーロッパの方では若い=正義みたいな価値観はないらしいから)

“平和の女神”が、全然「神」っぽくなかったり。

「えっ?笑っていいんだよね?(ぼくは遠慮なく笑ったけど、笑ってない人もいたなあ。こういう芝居だからって全編まじめに観る必要ないでしょ?)」

みたいなシーンがいくつも出てくるんです。

ただ、それだけにオチ(ラストシーンと言え)は残酷で悲しいものでした。

エクトールのあらゆる忍耐と努力を最後の最後に裏切ってくれるデモコス(大鷹明良さん)

「デマ」の語源ってこの詩人の名前なのかな?不明にして存じませんが。



とにかく、最後はやりきれない終わり方です。

だからこそ真理に迫っている気がする。

あの、二幕目は観なかった兄ちゃんたち、損したぞ。

ぼくみたいな次期高齢者じゃなく、彼らぐらいの年代こそが観るべき芝居なのに。

「芝居って面白いんだぞ」っていうムーブメントを作るのが、現代の演劇界の人たちの最大にして最難関なお仕事なのかもなあ。

作品の主題とはちょっとズレちゃったけど、そんな感想も抱きました。


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