てくてくミーハー道場

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2017年09月09日(土) ミュージカル『ビリー・エリオット〜リトル・ダンサー〜』(TBS赤坂ACTシアター)

正直に言います。

こんなにすばらしい作品とは思いませんでした。





実を言うと、お子さまモノだと思ってたんですよ。

『ア○ー』みたいな(こ、こらっ/汗)

い、いや、『○ニー』も良い作品ですけどね(しどろもどろ)

でも、子供に見せて「ほら、世界はこんなにすばらしいんだから、希望を持って生きてゆきなさい」みたいな作品だと思ってたら、そういうんじゃなかった。

いえもちろん、「世界は捨てたもんじゃない。希望を持って生きよう」っていう終わり方だよ? でも、ぼくに刺さったのはそのラストシーンじゃなく、一幕の終わりだったんだよな。

原作は2000年に製作されたイギリス映画で、日本でもヒットした。

映画をほとんど観なくなっていたぼくは当時観てなかったし、今回ミュージカル版を観るにあたって予習もしなかった。

それがある意味良かったと思う。映画のラストシーンを知らずに観て、正解だった(と、観た後に思った)



さて、話は戻って、一幕の終わりのどこがぼくに刺さったのか。

一幕は、ウィルキンソン先生の推薦を受けてロイヤル・バレエ学校の試験を受けるはずだったビリーが、父親と兄に大反対されて受験できずに絶望して踊り狂うシーンで終わる。

この、“怒り”と“絶望”をダンスで表現しちゃうところが、さすがにミュージカル。これまたタモリがディスりそうな展開だが、こういう形で登場人物の心情を描くところこそミュージカルの醍醐味なんだよなあ。

実はこのシーンは映画でもビリーは踊り狂う。ダンスが大好きで、ダンスで気持ちを表現する子、という設定だからなんだけど、正直映画だと、

「音楽はどこから聞こえてくるの?」

みたいなかわいくない感想を抱きたくもなる。その点ミュージカルだと、音楽はそこにあって当たり前、登場人物は嬉しいにつけ悲しいにつけ歌い出し踊り出して当然というお約束に守られているわけ。

で、このシーン、とにかくビリー役の子(本日は、当初の予定を超えて“5人目”のビリーに選ばれた山城力君でした)がすごい。

全身から発する怒りのエネルギーが半端ない。

こんなふうに、手加減なしで“気持ち”を表す舞台人を、久しぶりに見た気がする。

決して大人の俳優たちをディスっているわけではないです。だけど、こういう「手加減のない」身体表現て、大人になると、やれるようでなかなかできないんだよね。

子供って遠慮会釈なしに外で大声出すじゃない? あの感じですよ。

そのパワーに圧倒されたぼくがこのシーンを観てしみじみ思ったのは、

「大人の一番大きな罪って、子供(我が子に限らず)の可能性を大人の都合でつぶしてしまうことなんじゃないかな」

ということでした。

そして、子供の未来を踏みにじってしまう大人って、結局自分の未来をも自分の手でつぶしてしまっているんじゃないか。

子供に未来があるように、大人にだって、生きていく限り未来はある。それを現在の貧相な状況から諦めてしまうのって、人類全体の罪なんじゃないか。

この『リトル・ダンサー』の舞台は1980年代中盤のイギリス北部。炭鉱不況の真っ只中で、大人たちは先行きの見えない不安とサッチャー政権への不満の中で暮らしていた。

当然子供たちもそんな大人たちの中で育っているんだから、妙に大人びた達観したところがあり、そこがまた悲しい。

でも、達観しているように見えて、自分が本当にやりたいことを邪魔されたときに全身から怒りを湧き上がらせる正直さ、子供らしさにぼくは感動した。

そして、大人も、本当に自分が大切だと思うものを踏みにじられたときには、こうやって怒るべきだと思ったのだ。



さて、ラストシーンは映画のラストシーン(十年後、ビリーがどうなったかが判明する)とは違って、ビリーが無事ロイヤル・バレエ学校に合格して(ネタばれっ!)宿舎に出発するところで終わる。

すがすがしい希望と、“親友”マイケル(本日は山口れん君)との甘酸っぱい(この言葉の意味、ぼくは映画とは違う意味で書きたい)別れ。

良いなあ。青春未満(*^^*)

映画をご覧になった方はお分かりだと思いますが、マイケルは実はトランスジェンダーで、十年後、ロイヤルバレエ団のプリンシパルになったビリーをお父ちゃんと兄ちゃんが観に行くと、ちゃっかり隣の席にカレシらしき男性と一緒に座ってるというオチだったんだよね。

でも、このミュージカルではそこまでは描いていない。

ぼくはマイケルのことを、「少年期によくありがちな」異装好きな男の子なんだと思って見てました。

ま、ビリーのほっぺにキスして、

「オレはバレエが好きだからって、オカマじゃないんだ」

ってビリーに言われて、

「誰にも言わないで(焦)」

っていうところは残ってたので、そこで察してくださいってことだと思うんだけど、ぼくはあんまりそっちを掘り下げたくないっていうか、それよりマイケルが、

「誰に何を言われようと、自分がしたいことをすればいいじゃんか」

とビリーを励ますところが本当に好きで。

映画ではただ女装するだけなんだけど、ミュージカルではビリー役とマイケル役の子が、そらもう超絶キレッキレのダンスを披露するんです。

ストーリーの外側で感動するのは「お子さまモノ」だと思っているってことで、あんまり感心しないことかもしれないけど、まーとにかくここは見どころです。最高でした。





それともう一つ、脚本に感心したのが、登場人物たちが筑豊弁(?)をしゃべっていること。

映画でも登場人物たちはダラム訛り?をしゃべっていたらしい。これは日本にすると東北弁かと思いきや、「炭鉱」というキーワードから、福岡県飯塚市あたりなんでしょうかね。『青春の門』ですな。

なので、ビリーも父親のことを、海外ミュージカルではお定まりの「パパ」なんぞでは呼ばず、「とうちゃん」である。

そして、ウィルキンソン先生の娘・デビーは、母親のことを、「ママ」と呼ぶ。

ここで、ビリーとデビーは“階級”が違うってことが、如実に分かるようになっている。

とはいえ、ウィルキンソン家も上流階級てわけではなく、炭鉱の町でそこそこの暮らしをしている中産階級なので、ウィルキンソン先生も筑豊弁である。ここもステキであった。

この先生、“かつては”バレリーナを志したんであろう、“かつては”美人だったんであろう、けど、今や口は悪いしヘビースモーカーだしダンナには浮気されてるし、という「今はこのていたらく」な感じの女性。

だが、ビリーの才能をこの町でただ一人見出し、彼の可能性をこの町でただ一人信じた大人である。

ビリーがロイヤル・バレエ学校に合格して町を去る時、

「ロンドンに行ったら、あんたはあたしがここで教えたことを全部忘れるんだよ」

と言って聞かせる、その冷静な愛情にぼくは涙を抑えることができなかった。

こういう大人になりたいなあ。

どっちにしても、大人たちはみんな子どもに幸せになってほしいと願ってる。それがこの作品の主題だと思う。





カーテンコールでは、大人も子供も男も女も全員がチュチュ()を着てごあいさつ。たまらん楽しさです。

そんで今日はビリーとマイケルの撮影会があって、二人で「ビリージャンプ」をしたところを撮ってSNSにアップしても良い、という許可があったんですが、おばちゃん、文明の利器を使うのがド下手で(_ _ )

こんなんしか撮れませんでした。




すまん。二人とも。



そして終演後、場内に流れた曲は、今作には全く使われていなかったT-REX「Bang a Gong(Get It On)」であった。

なんでや?!と思うより、あれ?なんかピッタリだなあ。と思ったのだが、これ、映画の『リトル・ダンサー』で使われてるんだよね。

『リトル・ダンサー』といえば「Bang a Gong(Get It On)」というのは、封切り時にCMとかで使われていたんだろうか、あまりにも自然に聴けたのでなんか不思議だった。


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