てくてくミーハー道場
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2016年05月05日(木) |
夢見書房シリーズ公演 vol.1 リーディング『ヴェニスに死す』(新宿文化センター 小ホール) |
てくてくしません!キリッ
とか言っといて、行っちまいました。お恥ずかしい。
今日までだったのでね(言い訳)
『ヴェニスに死す』といえばヴィスコンティの映画がまず思い浮かぶ方が大多数でしょう。
ぼくも大学生だったか社会人になりたてだったか忘れましたが、新宿のリバイバル上映で観にいきました。
人類最高峰の美少年ビョルン・アンドレセン(当時16歳)を目当てに(←やっぱり)
で、期待わくわくで観たぼくが思ったのは、
「え?こんなもん?」(←超失礼)
と。
波打つブロンドも、陶器のような白い肌も、ルージュをひいたようなバラ色の唇も、そして、ギリシャ彫刻のような100%均整のとれた目鼻立ちも、ほとんど刺さってこなかったっす。
欧米コンプレックスじゃなかった自分が残念でもあり誇らしくもあり。
ていうか実は、劇中でタッジオの声が聞こえるシーン(劇中ではタッジオとアッシェンバッハは一切会話を交わさないので、タッジオが友達と話してるのをアッシェンバッハが耳にする、というシーンだった)があり、その声が、やさしい顔立ちに似合わぬとんでもねー野太い声だったというのが、ぼくが一番“ひいた”原因だったと思う。
まあ、よくあることですよね。
15歳のころのエフゲニー・キーシンとか(当時めっちゃ美少年)。来日したときにテレビで声聞いてびっくりしたわ。
そんなことはともかく、登場する美少年が自分の期待した美少年じゃなかったからといって、映画そのものへの感動すら1ミリも覚えることができず、
「美少年に一目ぼれしたおっさんが無理して若作り(←ダーク・ボガードがまた上手すぎた)してキモイ」
としか思えなかったぼくの素養のなさを恥じるべきかもしれません。
なので、その後トオマス・マンの小説を読んでみた。
・・・これもなかなか理解できず(←もう諦めろ!)
初老の大作家が行き詰って、気晴らしに旅行に行ったらそこですごい美少年を目撃して、それに見とれて衛生状態の悪い街に長居してたらコレラにかかって死んじゃった
というだけの話ですよねえ?(身も蓋もないな)
しかし今回は、なにせぼくの興味を惹くに十分なキャスト。
こいつはリベンジできそうだ、と出かけてまいりました。
アッシェンバッハは市川月乃助。今のところまだ“澤潟屋”だが、すでに新派入りしており、十月には大名跡の喜多村緑郎を襲名するそうで、まあ、良かったんじゃないですか(含みのある発言)
芸風は別に以前とガラッと変わったわけではなく(けっこう久しぶりに拝見するので)、相変わらず端正でダンディ。実年齢よりかだいぶ年上の役だったが、無理に老けてる感もなく。
むしろ、そこはかとなく色気があり(これは月乃助の長所)、昔のぼくだったら理解できなかったであろう、アッシェンバッハの人生への諦めと焦りだけでない、何らかのパッションを感じ取ることができた。
劇中、タッジウ(今回の劇中ではこの表記。以下同様)をじーっと見つめているシーンが何回か出てくるのだが、その視線が全然いやらしくない(ダーク・ボガードをディスってます?)
かといって、枯れてるって感じでもなく。
おっさんが美少年に見とれているというより、何か、「感心して」見てる感じ。
「美しいって、いいことだな」とか、「美しいって、残酷だな」とか、いろんなことを感じてるように思わせる。
これって、ぼくら観客が俳優を見てるときの感じに似てると思った。
そういえば、演劇ほど不躾にじろじろ人を見ても怒られない娯楽ってないな。
トオマス・マンは、アッシェンバッハをホ○のおっさんではなく、そういう「芸術を見出した人」に描いたのだということがここで理解できた(ずいぶん時間かかったなあ)
「若い時のアッシェンバッハ」という役のガウチ君(中河内雅貴)
こんな役あったっけ?(遠い記憶)と思ってたら、作・演出の倉本朋幸氏のオリジナルらしい。
このほかにも、タッジウの友達の役とかを演じていた。
残酷なダメ出しをすると、ガウチ君以外の出演者が皆デカいので若干見劣りがする。低身長(日本人男子としてはそんなに小さくないのに!)好きとしてはかばってあげたいのだが、演劇的効果としては弱点と言わざるを得ない。残念である。
ただ、身のこなしなどは美しかった。当たり前だが。
その他もろもろの細かい役を市川猿琉。彼も今年から新派に移ったらしい。
いろんな役(ゴンドラの船頭とかホテルマンとか床屋のみならず、タッジウの母親!とかも)を軽々とこなしていた。
基礎力があります。
なのに、カーテンコールのご挨拶の声が小さくてびっくりした。
もっと積極的になっていこうぜ!(←誰だよ?)
そして、観客の期待と不安を一身に背負った(笑)松本享恭。
初めて見る子。最近の若い俳優の平均レベルの美貌であり、文句なくイケメンである。
しかしながら、“あの”ビョルン・アンドレセンに落胆した猛者()であるぼくを、感心させられますか否か、と意地悪な目で見てしまったのだが、そもそもさ、このタッジウって役は、“現実に”出てきたらアカン役なのではないのか? と気づいたことであるよ。
読者それぞれの妄想想像の中で形成されてるんだからさ。
だからまあ、そういうところ(ってどういうところ?)はいいですよ、別に。
イヤミなく、無邪気にタッジウを演じられていたので、合格と言えましょう。
そもそもタッジウは、アッシェンバッハを誘惑したりとかしないんだから。
ただ、“美しく”存在してただけ。
その「ただ存在する」ってのが意外に難しいんだけどね。
俳優の習性として、つい“何か”してしまうからね。
そこを我慢できていたのは、良かったと思う。
・・・特に、これ以外言うことはないです(こ、こらあっ!)
最後にちょっと残念なことを書きますが。
リーディングドラマだからといって、役者がセリフを覚えてないわけではないのは当然のことです。
むしろ、稽古や何回かの上演があったのに(しつこいが、本日千穐楽)覚えてないってありえないです。
でも、全部きっちりと覚えてるわけではないのかしらね。
ところどころ、へんなところで間が空いたのが気になった。それも、一人だけでなく。
へんなところで言葉を切ると、観客は「文字」を見ているわけでないので、意味がわからなくなる。
これは気をつけてほしいところでした。
帰る途中コンビニに寄ったら、いくつかのスポーツ新聞のトップにあの4文字のアルファベットが久しぶりに躍っておりましたね。
何があったんだろう?とちょっとネットでチェックしてみましたが、正直、そんなに言及したいようなことじゃありませんでしたぼくには。
なんだろうな、このモヤった気分。
まあ、“本当に”何かが起きたら書くことにします。(なぜ偉そう?)
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