てくてくミーハー道場
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2016年02月16日(火) |
『夜と霧〜苦しみの果て、それでも人生に然りと云う〜』(イタリア文化会館 アニェッリホール) |
「ひょうたん島」のおちゃめなダンディさんから一転、どどどシリアスな芳雄君に会ってまいりました。
この作品は、りゅーとぴあ制作により一昨年新潟と岩手で初演されたものだそうで、東京での公演は今回が初。
イタリア文化会館というところには、東京に住み始めて今年で37年目を迎えたぼくも初めて行きましたね。いやあ東京は広い。←
日本武道館のすぐそばにありました。
そんな話はさておき、今回の公演は、実際にアウシュヴィッツ強制収容所(正確には、その支所だそうです)に収容されたユダヤ人心理学者のヴィクトール・E・フランクルがその体験を書いた『夜と霧』の朗読劇であるということで、ガッチガチに覚悟(何の“覚悟”かは、まぁ、ご想像がつくと思いますが)して挑みました。
そして、席についてびっくり。
芳雄君、近い!(×_×;)、全席370席というコヤだった。
常の公演ならばこんなうれしはずかしなことはないのだが、今回、題材が題材なので、あんまり顔ばっかじっと見つめるのもはばかられ(何で? 見てたらいいじゃん)
いや・・・判りますよ行けば。
ああでも、いわゆる“派手な動き”が一切ない作品なので、むしろ、その一挙手一投足、その表情の一つ一つを逃さず目に焼き付けるのもひとつの醍醐味かもしれん。
(以下、ネタばれおよび、若干の苦言なので行空けます)
素直に白状しますと、ぼくは、役者が演じながら本当に泣いてしまうのは好きじゃありません。
もちろん、今回の芳雄君のパフォーマンス(という言葉は不適切な感じもするが)は、そういう“演技”とかではなく、演出の笹部博司氏によれば、芳雄君には、「芝居をするのではなく、自分が体験したことをそのまま語るように読んでほしい」と言ったそうだ。つまり、どこで泣く、とかじゃなく、泣きたければ泣け、泣けてこなければ泣かないでいいと。
とにかく、そんな芳雄君の“朗読”に素直に感応して一緒に泣いていた観客もいたが、ぶっちゃけ、ぼく自身が、どうもズレてたというか。
本質、ぼくは、役者は“巫女”であってほしい。
芝居(ま、今回はお芝居ではないんだが)の素材そのものを、フラットに客に提示するのが役者の役割だと思っている。
悲しむ演技、苦しむ演技、絶望する演技をしていても、“自分自身”が悲しんだり苦しんだり絶望したりしているのを感じ取ってしまうと、どうももにょる。
そういう役者は「憑依型」と称され、もちろんダイコンよりは上に配置されてるんだけど、ぼくはこれまで何人もの演技者を見てきて、それよりもはるか上位に位置するタイプの俳優さんがいることに気づかされたので。
芳雄君がどの位置にいるか、とかではないのだが。
要するに、単純にぼくは今回、芳雄君が泣いてるところでは泣けなくて、泣いてないところで泣いてしまったのであった。
これはいったいなぜなんだ、と突き止めたかったので、原作本を買って帰ってきました。
齢55歳のおばさんに、この本を読むきっかけをくれた(なにせこの本、井上芳雄少年は中学生のときにお母さんに「これだけは読んでおきなさい」と薦められて手にとったのだそうだ。なんと教養高いお母さまであろうか。うちの親なんぞ/以下略)芳雄君に感謝である。
おそらく、中学時代に「読書感想文課題図書」として読んだのとではまったく違った影響を、ぼくの(残り少ない)人生に与えるはずである。
ミーハーで良かった。←
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