てくてくミーハー道場
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2012年09月06日(木) |
『コーパス・クリスティ 聖骸』(青山円形劇場) |
タイトルは、作者のテレンス・マクナリーが生まれた町の名前だそうだが、直訳すると「キリストの遺体」。
いかにもアメリカっぽい町名ですな。
日本だったら「仏舎利町」とかになるのかな(別に日本に例える必要ないけど)
あともうひとつ、「最後の晩餐を記念する日」(三位一体祝日の次の木曜日・・・なんのこっちゃ?)の意味もあるそうです。
キリスト教徒でないので、ちんぷんかんぷんです(←なら書くな)
あ、本日初日だったのか。なら、内容は詳しく書けないな(別にいいのかもしれないけど)
舞台上(てか、青山円形なので、真ん中の「芝居場」をぐるっと取り囲んだ客席から見下ろす感じになる)には、やけにほそっちい美少年やらたくましいお兄さんやらすらりとした美青年やらきゃしゃな美中年(おい)やらが都合13人。
男ばっかり13人。ここ大事っぽいね。
これだけで観る方は胸騒ぎがしますな。キリスト教に詳しくなくとも。
第二次世界大戦のちょい前に生まれたらしいアメリカ人の男たちがここ「コーパス・クリスティ」に集まって、「キリストの誕生から磔にされるまで」を演じましょう、という趣向で始まる。
ここまで観て、
「あれ?『GODSPELL』ちゃうの? これ」
と思ってしまったのはむべなるかな。
あっちは男女(+ゲイもいた気がする)入り混じったミュージカル作品で、にぎやかに始まり(こっちもにぎやかだが)衣裳の色彩も派手(ヒッピー文化時代ど真ん中)なのだが、こちらは、今回の出演者たちの雰囲気もあってか、男子校の余興みたいでもある(そのせいか、『SHAKESPEARE'S R&J』も思い出したなあ)
ただ、キリスト(こちらの役名は「ジョシュア」)とユダ(こちらでは「ジュダス」)の間柄に関しては、『GODSPELL』でもほのかに“そういう”関係つうか、特にユダがキリストに対して愛憎入り混じった感情を抱いてるのをほのめかしているのだが、こっちはもうズバリの関係。
出会っていきなり濃厚キス(あっ、腐女子捕獲ネタばれをしてしまった)
なので、この作品、アメリカでの初演当時にはお堅い(そして過激な)宗派からかなりシャレになんない攻撃を受けたらしい。
お堅い人たちにはそりゃあ許しがたい発想かもしれない。
ただ日本では、昔から「宗教」と「同性愛」は密かに結びついてたりして、寛容なんだかアンタッチャブルなんだかよくわからん状況ではあるから、特に上演妨害はないだろう。
むしろ、それこそ腐女子捕獲というありがた迷惑(よく言うぜ自分も腐のくせに)効果があるかもしれない。
ぼくは劇団フォーシーズン食わず嫌いなところがあるから、名作『ジーザス・クライスト=スーパースター』を観たことがないのだが、あっちではジーザスとユダの関係にそういうほのめかしってあるのだろうか?
別になくてもそれはそれでいいわけで、何年か前にテレビでトニー賞の中継を視ていたら、『ジーザス・クライスト〜』がリバイバル賞かなんか獲ってて、1シーンを再現していたのだが、その時出てきたユダがめちゃくちゃカッコ良くてド胆抜かれたことがある。
あれが来日してたら絶対観に行ってたのになぁ(自分がブロードウェイ行くって発想はないのね?)
またそれとは別に、学生のころに「短いから」ってんで読んだ(文学部卒が泣くぞ!)太宰治の『駈込み訴え』が官能的(エッ?!)名作すぎて、これがもうぼくの中ではイエスとユダの関係のデフォルトになってしまっているのであります。
まあ、『駈込み訴え』にそのテの空気を感じとるあたりが、既に腐ですけどね。ノーマルな人なら哲学的な意味しか感じないんだろうなあ。
でも、とにかくぼくは感じとったと。
なので、今回の作品のストーリーをちらっと知った時にも、さほど衝撃でも何でもなかったというか。
「じゃあ、“そういうの”を、どうやって面白く(笑えるって意味ではないですよ)見せてくれるんだい?」
と、若干挑戦的な気持ちで観に行ったわけです。
少年たち(ぼくから見ると、全員“少年”でいいよもう←なぜヤケ?)は、頑張ってました。
すごい上手い子もいたし、長いセリフを頑張って覚えたね、偉いね、レベルの子も(←例によって遠慮ねぇな)
ぼくが惹かれたのは、ジョシュアが砂漠で出会うジミー(ジェームズ・ディーン)の霊を演じた人だったんだが、慌ててプログラムを買ってみたものの、その役を誰が演ったか出てない!(12人の使徒の名前しか出てなかった)
うわあぁ! 不親切!(怒)
見た目で判断するに、米原幸佑くんのような気がするのだが、もし間違ってたらごめん。
知ってたら誰か訂正してください。本人でもいいよ(笑)
それからやっぱり主要な二人ってことで、渡部豪太くんと窪塚俊介くん。存在感があったな。
渡部くんは「ゼクシィ」のCMに出てた子だよね、って程度の知識だったんだが、そういやわたちゃんが出てた『絹の靴下』でなかなか達者だったのを思い出した。
ジョシュアは、主役にありがちな(?)自分からはアクションしない茫洋とした人物なのだが、この人自体がそんなイメージなので(そうでもないはっちゃけた役もテレビドラマなどでは演ってるらしいが、幸いにも視ていない)ぴったりだった。
窪塚くんは、良く言えばセクシー、悪く言えばいやらしい雰囲気の持ち主(おい! 主観がすぎるぞ!)
でも、その中に何かしら繊細な優しさとかが垣間見えて、いいジューダスでした。
で、この先はかなりネタばれになってしまうので、これから観に行こうと思っている人はまだ読まないでほしいのだが、結局テレンス・マクナリーは、「アレやコレの二番煎じちゃうか?」と言われるであろうことをわかってて、なぜこの作品を書いたのか、ぼくなりに想像してみた。
やっぱ、テレンス自身がゲイであることは無視できないだろう。
普通イエスの生涯なんかを脚色しようとすると、なんでこんなステキな人が迫害されたのかってところに行きついちゃうと思うのだが、その時にゲイ要素不要論でいくと、「組織がでかくなるとき」の問題とか「権力者とうまく付き合えない不器用なカリスマ」の問題とか、単純な「嫉妬」の問題とかが主題になると思う。
でも、この作品では、ローマ人がジョシュアを逮捕するときに、はっきりと、
「(殺されるべきは、何人も殺した殺人鬼じゃなく)オカマの方!」
と言うのだ。
そういう世間の目に対するテレンスの憤りがこの作品を書かせたのじゃないだろうか。
自分と相いれない価値観の人に対して、人はどんだけ残酷なことか。
「ホモキモイ」と思ってる人には、殺人犯以下なんだから。
それと、イエス・キリストが許した「姦淫した女」のエピソードは、ぼくでも知ってるくらい有名だが(「罪のない者だけが、その女に石をぶつけなさい」ってやつ)、この作品の中では、HIVポジティブの男娼がそれにあたる。
そんで、ジョシュアは“奇跡”を起こして彼の「その病気」を治しちゃうんだが、ぼくらが今でも知っているとおり、「その病気」は、治らない病気なんだよね(発症を抑えることはできる)
なんか、せつなかったな。
そのシーンを見てぼくは、
「こういうことしたから、彼はきっとこの後偉い人たちにとんでもない目に遭わされるんだろうな」
と直感してしまった。
不治の病をさらっと「治ったよ」なんて言うやつほど、権威側にいる人たちの恰好の餌食になるやつはいない。
治した病気がAIDSだったから迫害されたと言ってしまうのはちょっと違うと思うが、単に男娼を救うのではなく、その病いを治してしまうところまで書いたのは、やはりテレンスの意思がそこにあった気がしてならない。
だって、その前にらい病の男をジョシュアが全快させるというエピソードがあるから。
病気を治すエピソードがかぶってる、そこに何か一つのベクトルを感じるんだが。
・・・考えすぎかな。
ま、ともかく、こうして「差別」や「世紀末観」について考えるもよし、単純に可愛い男の子がいっぱいだ! と目の保養にするもよし、やっぱどっちかっつうと女性向けの作品だったかもな(客層はほとんどが20代くらいの女性。男性少数、30代女性もなかなか。それ以上の年齢層の男女ちょぼちょぼ(でも、いた)って感じでした)
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