てくてくミーハー道場

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2010年02月23日(火) 『二月大歌舞伎』昼の部(歌舞伎座)

歌舞伎座さよなら公演 兼 十七代目中村勘三郎二十三回忌追善興行でございます。

ご観劇料、強気です(いきなりソレ?(−−;))

そりゃあね、行きますよこっちは。

なかむら屋だもの。

仁左玉勘だもの。(←なんとなく憤然)

でも、正直迷った。

演目がさ、確かに「勘三郎(十七代目&十八代目)得意狂言」の定番であることはわかるのよ。

でもなー・・・、今まで何度も観たぞ正直(エンゲキは、上演されるたびに“新作”なのだということを知らんのか!)いや・・・知ってるけどさ


こんなぶつぶつ言う客に観られたくもないだろうが、やっぱこれだけの顔合わせを見逃すわけにはいかないので、結局今月も、安い席が売り切れになってから(だからそこがアホ)行ってしまいました。





「爪王」

で、いきなり初めて観る所作事。

なんと主人公は“鷹”。

原作が動物小説で名高い戸川幸夫先生で、脚色はそのお弟子の平岩弓枝先生。

鷹と狐との戦いをとおして自然界の厳しさを描くと同時に、鷹と鷹匠との絆を叙情的でありながらもセンチメンタルじゃなく硬質に描いている。

なので、鷹が主人公とはいえ、擬人化してしゃべったりはしない(当たり前だぞ)

擬人化ではないが、着ぐるみではなく(当たり前だろ!)、銀色の振袖を着たキレイな女方の姿で鷹役の七之助登場。

狐役の勘太郎も、歌舞伎ではおなじみの火焔のぶっかえりという“狐衣裳”で奮闘。

二人ともいわずもがな体がよく動くので、見ごたえのある面白い舞踊劇であった。

ただ、長唄の歌詞が、いつも聴きなれている古典的な古語でなくて、どことなく違和感があった。

リズムが・・・口語的だったのよね。

この所作事は、この兄弟の伯母さまである波乃久里子丈が六代目猿若明石を襲名したときの記念の作品だそうで、その時“狐”を踊ったのは、なんと宝塚歌劇団のトップスター・スータンさんこと真帆志ぶきだったそうだ!

かつてはタカラヅカの生徒さんは、今のようなダンス偏重じゃなく、日本舞踊に長けた方も多かったというから、それも納得である(「女六代目」と称された天津乙女さんとかね)

そんなことも合わせながらミーハーに楽しんだ一幕でありました。



「俊寛」

以前も書いたかと思いますが、ぼくが生まれて初めてナマで観た歌舞伎(1989年12月歌舞伎座夜の部)が、この「俊寛」であります。

そして、高校時代「現代国語」(あれ? 「古典」じゃなかった?)で『足摺』(平家物語)を履修したこともあり、思い入れは一入なのであります。

あれ以来本興行だけでも30回ぐらい上演されているが、さすがにぼくはそのうち半分ぐらいしか観ていない。

そして、そのうち5分の1ぐらいしか記憶に残っていない(バカもの!)

中でも一番記憶に残っているのが、その“一番最初に観た”「俊寛」で、しかも、一番記憶に残っているのは、主人公の俊寛じゃなく、千鳥を演じたなかむら屋の、夢のような可愛さである(これも、以前しつこく書いた気がする)

ほんっと、可愛かった。(遠い目)

今目の前で、ヒゲ面の、よぼよぼのじいさんの扮装をしているおじさんと同一人物とはまったく信じられぬ(20年前だぞ・・・)

もうまさか千鳥は演んないだろうが(実際あれが最後だったみたいだ)、ぼくにとっては、未だにしつこく「なかむら屋」=「千鳥」なのである。

今回の七之助も初々しく瑞々しい、良い千鳥だったが、どうしても“菊吉じじい”(ではない。正確には。世代的には“孝玉おばさん”なんだろうなーぼくは)の「記憶の美化」により、未だにあれ以上の千鳥にぼくは出会っていないのだ。

ちなみに、俊寛僧都その人は、幸四郎→吉右衛門→幸四郎→吉右衛門→時々なかむら屋・・・みたいな感じなのだが、さすがぼくというか、今まで観た中で最高の俊寛は仁左サマが演じたときのものである。

と言っても孝夫時代。

「孝夫さんの『俊寛』よぉお〜!!!」

と、気合入りまくりだったのだろう。我ながらミーハーの権化である(その後仁左衛門を襲名した後のも拝見しているはずだが、こっちはなぜか覚えてない・・・スミマセン/泣)

で、どこが一番印象に残っているかというと、最後、俊寛が独り残って、船が見えなくなったのでとぼとぼと庵に帰ろうとするのだが、その後突然思い返して、また浜に向かって駆け出すところ。

竹本の、

「思い切っても凡夫心」

をきっかけに、全身から燃えるような思いを発しながら下手に向かって駆け出す孝夫さんを見て、ぼく自身も全身鳥肌立ったことをありありと覚えている。

あの一瞬の、俊寛の絶望、慟哭。

今思い出しても震えが来るほどだ。

もちろんあれは仁左さま一人の力ではなく、太夫の名演もプラスされてのことだと思う。

俊寛役者が、全身で「やっぱり帰りたい!」と心情をバクハツさせるタイミングと、ここの義太夫のタイミング、そして盆を回す大道具さんのタイミング、それがすべて奇跡のように一致したからこそ、あの名場面が発現したのだと思っている。

あれ以来、ぼくにとっての『俊寛』のマストチェックポイントが、この場面になってる。



さて、なかむら屋に話は戻る。

彼のこの演目に関する芸談で有名なのが、この役を十七代目に教わってたとき、最後の俊寛の表情を自分の解釈で微笑んだ感じにしたら、先代に、

「新解釈は僕が死んでからにしてください」

とバカ丁寧に言われたって話。

ぼくは先代が亡くなってから歌舞伎を観始めたので、ぼくが観ているなかむら屋の俊寛は、そういやいつも“微笑んで”終わっている。

このラストシーンの俊寛を微笑んで終わらせる方を、なかむら屋の他にぼくは知らない。

“笑う俊寛”は、果たしてありやなしや。

この演目を『平家女護島』の通しとか半通しで観ると(昔国立劇場でやったのを一回だけ観た)、俊寛の妻・東屋が瀬尾に(命令したのは清盛だが)殺されるシーンがあるので、この物語の中での俊寛への同情心が半端なく湧いてくる。と同時に、俊寛がこの島へ残る決心をした理由が、千鳥への同情心とか、「若い人たちに未来を託す」とかの気持ちよりも、とにかく何よりも、

「もう都なんか帰ったって、俺には何にもないんだ」

という絶望感が一番大きいことを実感できる。

そう考えると、ここで俊寛が微笑むことは、やはり考えにくい。

なかむら屋式の終わり方に、ぼくが納得できる日は、くるのだろうか。

なんか、アタマで考える“よくない客”に今日はなってしまった。

余計なことを考えさす役者がいけない←(――;)ん? なんかよく見えないんですが。


・・・次いきましょうか。



楽しい「口上」の後は、「ぢいさんばあさん」

小品ながら、これもけっこうよく上演される人気作。

歌舞伎の演目にしては(おい)理論的なストーリーで、そこが新歌舞伎たるゆえん(というか、原作が文学作品だからね)なのか、ぼくも好きな作品です。

いろんなカップルで観たけれども、今回は決定版の仁左玉プラス、下嶋甚右衛門になかむら屋が初役で出る(なかむら屋にしてはお軽い役だが、さすがに上出来)ってんで、最も期待の演目であった。

うん。

夜の部に『籠釣瓶』があるんで、今月のベストはそっちかな? と思ったんだけど、結局夜まで観ての感想は、

「今月は『ぢいさんばあさん』が一番よかったかしら」

であった(問題発言)

今さらではあるが、とにかく舞台でいちゃいちゃいちゃいちゃするのがこんなに眼福な美男美女の組み合わせは仁左玉しかいない。

あと何年かしたら海老菊(この二人が初めて「久弥」と「きく」で出演したときは、主役コンビ(お父様同士です/笑)そっちのけでキャーキャー言ってたミーハー客)コンビが取って代わるかもしれないが、とりあえず今のところはこのお二人が最強である。

考えてみれば、お二人ともすでに、若いころよりも“ぢーさんばーさん”になってからの伊織とるんの歳に近いのだ!(あわわ・・・考えたくない)

それでもやっぱり、若いころの場面の方がしっくりくる。

ただそれは何でかっていうと、歳とったあとの玉さんの「おばあさんぶり」が今イチ(うわぁ)だからってのもあるのだ。

玉さんの解釈としては、「るん」は凛とした女性だから、例えおばあさんになっても、腰は曲げない、ということなのだろう。が、それだと、おじいさんになって中腰になってる仁左サマよりも背が高くなってしまうのである。

そりゃあ、若いころにすらっとしてた女性はおばあさんになってもそれなりに大きいはず。

だがなぁ・・・と、思うのである。

(なんか、今月ってこんな感想ばっかりね)

それと、これぞジャニオタという感想を今回ぼくは抱いたのだが、若いころの伊織の口調が、なんとなく「ドラマの草なぎ剛」の口調にそっくりだと思ってしまった。

すっきり鼻筋の通った、ハンサムな、優しく甘えん坊口調の(笑)伊織・・・僭越ではございますが、このお芝居、いつか「新劇」(新派でもいいっす)で上演するときに、ツヨぽんで上演してほしいかも、なーんて思っちゃったのでござるよ(≧∇≦)←ジャニオタ丸出し

きっと『瞼の母』の100倍良いはずでござるよ(←何気に毒発言)






というわけで、超激戦だった夜の部へつづく(こら)


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