てくてくミーハー道場

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2010年02月25日(木) 『二月大歌舞伎』夜の部(歌舞伎座)

「壺坂霊験記」

今月のラインナップの中で一番地味(こら)な演目でありましたが、なかなか良い出来ではなかったかと思います。

ジェットコースタードラマを好む現代人にはいささか食い足りない、こじんまりとしたストーリーである(あら、断言しちゃう?)

観世音菩薩(なのに沢市つうか三津五郎が「南無阿弥陀仏」と唱えてたのが若干気になった)の威徳と敬虔な信仰心によって夫婦のものが幸せになる、という結末は確かに、せちがらい現代人には通じにくい。

でも、夫がそのコンプレックスによって妻の愛を疑う→疑った心を恥じて死のうとする・・・あたりの心情は、なかなか身につまされるものがある。

現代のお話だったら、目が見えるようになった沢市がそのままストレートに幸せにならず、お里の「美人さ」を、それまでの“想像”でなく、“現実”のものとして実感するようになって、ますます独占欲や猜疑心に苦しむことになる・・・なんてことになりそうだなあなどと考えてしまったひねくれまくった現代人のぼくなのであった。

そんな穢れきったぼくの心情とは無関係に、三津五郎も福助も丁寧に演じていて好感が持てました。

観音様役の玉太郎も、可愛かったです。←心なしかやっつけっぽい感想



「高坏」

これも初めて(1990年1月浅草公会堂)なかむら屋のを観て以来、大好きな作品・・・なんてのを超えた作品であります。

(この間ソメソメも二回上演しており、それも一応観ており、感心した。勘太郎が初役でやった公演は、残念ながら見逃してるが、今後たくさん上演されることを期待)

この所作事は、よく「ゲタでタップを踏む、日本舞踊としては画期的な作品」と簡単に紹介されることが多く、確かにおっしゃるとおりのものなのだが、単純にそうは言い切れないものでもある。

単純な「ゲタップ」だったら、HIDEBOHが『座頭市』で見せたアレの方が、よっぽどテクニックが高度であり“タップ”である。

成立した時代のせいもあるが、『高坏』のタップ部分自体は、さほど高度なもんではなく、あくまで“風情”で見せるものだ。

で、その“風情”の方が、断然大切なのである。

どっちかというと、「上手にやんない方が」面白いんである。

踊ってるのは、酔っ払った次郎冠者だからなんである。

タカタカタカタカ・・・と鮮やかにタップするんじゃなくて、

「ああっ! 足元危ないっ!」

と見せる方が正解なんである。

4年前に観た時も日記に書いたが、まさに「春爛漫のニオイ」が感じられる『高坏』でありました(スピードスケートのまねをするサービスとかもアリ(^^))



「籠釣瓶花街酔醒」

去年、毛利亘宏氏の『カゴツルベ』をけちょんけちょんにけなして以来(す、すんまへん)の観劇だったので、ぼくも力が入ってしまいました。




ちから、入りすぎたね・・・(←ま、まさか・・・/悪い予感)




なんか、違った。

なんか、ぼくが記憶してる『籠釣瓶』じゃなかった(T_T)

いえね、実を言えば、玉さんの八ツ橋には、以前から若干の疑問を抱いてはおったのです。

例えば、見染めの“笑い”とかね。

玉さんの“笑い”は“神秘の微笑”であって、なぁんか「八ツ橋の“見染めの笑い”」とは違う気がするの。

“(醜悪なまでに)お歯黒をむき出しにして”ニーッと笑う歌右衛門型の笑いの方が、ぼくの期待する八ツ橋なんですよ。理論的に理由を述べられないバカ客で申し訳ないんだが・・・。

あと、愛想尽かしでもね、ぼくが思う愛想尽かしってのは(やっぱなぁ、「最初に」観たフクのが基準になっちゃってるのかなあ)、もっとヒステリックなものなんですよ。

理不尽な愛想尽かしなんですよ。

だから八ツ橋は殺されたってしょうがない(お、おいおい)・・・そんなふうに客に思われる愛想尽かしでないとね・・・。

玉さんの八ツ橋は、「自由に生きられない遊女の哀れさ」に焦点が合いすぎてるような気がする。

歌右衛門の芸談なんか読むと、もっとすごい乱暴というか大雑把な解釈なのよね(ぼくの「読み方」が間違ってるのかもしれないが)

八ツ橋って、酷い女じゃないですか? って訊かれて、

「だってしょうがないでしょう。八ツ橋は栄之丞が好きなんですから」

と、キッパリとお答えになってる。

例え「売り物買い物」の女郎であれ、「お金」よりも・・・いや「廓のルール」や「社会」「人間関係」よりも、「愛」を私は選ぶのよ! 「愛」より大切なものはないのよ! 「命」よりもね!

みたいな、「ま、参りました!」みたいな迫力をそのお言葉に感じた。

玉さんの八ツ橋の造形は、悪く言うと、「可哀相なアタシ」に重きを置いてる感じがする。

「あちきゃつくづく、イヤになりんした」

ってセリフに一番感情込めてるところからも、それを感じる。



玉さんばっかり悪く言ってしまったが、なかむら屋の次郎左衛門にも、ぼくは疑問がある。

今言ったこととすごく矛盾するんだが、彼の次郎左衛門は、「嫌われどころ」がなさすぎる。

この男は確かに、廓のみんなが噂するように、御面相以外は「いい人」なんである。

お金はたんまりあるし、遊び方もイナカの人にしちゃスマートである。性格もいい。

だけど。

だけど、である。

そういう「社会的には」立派なお人なのに、「ダンナさまにするには」なんかやっぱり・・・ヤダ、みたいな男の人って、いません?(←最低!)

そうなんです。最低な考えです。

でも、そこが女心なんです。(おいおい・・・/涙)

一方、栄之丞を見てごらんなさい(?)

取り柄といったら「ハンサム」ってとこだけ(お、おいおい・・・/号泣)

金なし、職業なし、性格は子供!(だってそうでしょ、権助の分かりやすい嘘にまんまとひっかかって、立花屋まで乗り込んで来ちゃうんだから)

でも好きなんです、八ツ橋は。

そういう、可哀相な女なんです。

まあね、仁左サマの栄之丞見てたらね、「どう考えたって、こっち(の男)とるよな」と、納得せざるを得ませんでしたが(だから、役者で判断しちゃ、ダメッ)

八ツ橋も、栄之丞も、子供っぽい未成熟な若者同士という点で、お似合いのカップルと言えるんだ。

そんな中に、

「男は顔ではありません。誠実さです。それと、将来を考えれば、社会的な力(つまりお金)も、とても大切です。ぼくはキミを幸せにしますよ」

なんて言って割り込もうとしても、所詮ムダなのである(おばさん、だんだん何を言ってるか分からなく・・・)

世間(このお話の中では、廓の人々)はみんな次郎左衛門の味方なのに、肝心の八ツ橋だけには断固拒否されるというその理由は、その「傲慢な誠実さ」にあったのではないだろうか。

他の人を比較に出すという、悪い評論をしてしまうが、吉右衛門の次郎左衛門を見ていると、ほんとうにこのあたりのことがよく分かるのである。

佐野の絹商人仲間を連れてきてうかれているその野暮ったさ、物腰は優しいのに、すでに八ツ橋のことを「自分の女」扱いしているいやらしさ。

「この人、女にはモテないわ・・・」

と思わせる吉右衛門の上手さったら、ゾッとするぐらいである。

なので観客は八ツ橋(主に福助)の愛想尽かしになると、次郎左衛門に同情したい気持ちはたんまりあるのに、どことなく心の底で、「いい気味じゃ」と思ったりする、自分の心の底の残酷さに気づいて、アンビバレンツな快感(変態?)を覚えるのである。

だから、最後の殺し場でも、100パー次郎左衛門の味方になれない。

モヤモヤする。

この、最後にモヤモヤしちゃって終わるところが、この狂言の最大の魅力だぐらいにぼくは思ってしまうのだ。

送り手が、「こっちの方が正しいです」みたいに、はっきり言って来る演出が、ぼくは好きではないってのも、大きいのだろうな。

・・・と、今回の『籠釣瓶』に、というよりも、昨年の『カゴツルベ』に対して、どうしてあんなに不満だったのかを今さら述べるような感想になってしまいました。

大変失礼いたしました(←?)



蛇足だが、殺し場のなかむら屋と播磨屋の違いについて、もう少々。

なかむら屋の次郎左衛門は、八ツ橋が玉さんだからこっちがそう思うのかもしれないが、なんか、

「好きすぎて殺した」

みたいに見える。

それと、斬るときに刀に引っぱられるようにして八ツ橋に向かっていくので、「妖刀だ」ってことをあからさまに表現しすぎる気がする。

これも誰かの芸談だったと思うが、籠釣瓶が「妖刀」なのを見せるのは八ツ橋以外の人を斬るときであって、八ツ橋を斬るのは、あくまで次郎左衛門本人の「憎悪」じゃないといけないとか聞いたことがあるのだが・・・。

吉右衛門の場合は、「この世の名残だ」のあたりがとにかくコワイ(T_T)

全身から殺意がにじみ出てる。

もう「好きだった」ことすら忘れてるぞ、このおじさん。

「男のプライドを傷つけると、こわいんだぞ〜」

と、地の底から聞えてくるような感じである。

「女は愛に生き(死に)、男はメンツに生きる(殺す)」

男と女は大切にするものが永遠に平行線だってのがこの狂言の主題だとぼくは勝手に思ってるので(正直その主題自体はさほど「正しい」とは思わないんだけど、それはまた別)、ここの吉右衛門のやり方は本当に好きだ。

そして、殺される八ツ橋にはなぜか同情するよりも、「今頃男の怖さが分かったか」と言ってやりたい気持ちにかられる(いったいお前はどっちの味方なんだ?!)だからぁ・・・モヤモヤすんのよ。どっちの気持ちも分かるし、どっちの気持ちも「間違ってる」と思う。そこが快感なの!(←末期)




最後に、ぼくが特筆したいお二人への感想。

まず、今回、勘太郎初役の治六。

理に勝ちすぎてる役作りというか、主人想いなところは良かったのだが、佐野のイナカ者っぽさが残念ながら不足気味。まぁ、現に垢抜けた東京生まれの現代っ子ですしね・・・(役者に対してその感想は無意味だぞ)

それより、ぼく自身つくづく自分で「ショタですが、何か?!」(←開き直るな! 毎度のことだが)と思ってしまったのが、鶴松。

初菊役でめでたく吉原デビュー(こ、こらこら/汗)

きっと、田舎の両親や弟妹たちを助けるために吉原に売られてきた少女の初めてのお仕事なのであろう。(←妄想)

ここに出る前に、遣手のおばあさんに手取り足取り教えられたのであろう、

「一服飲みなんし」

と治六に煙管を差し出すそのポーズが、なんとも健気。

いたいけ過ぎて、涙が出ます(T_T)   (おーい、帰ってこーい)

いやなんかね、今までいろんな初菊を見てきたが(たいていはこの狂言に初めて出る若い女方が演じる)、そのほとんどには、

「うまくやんなさいよ」(将来八ツ橋演るんでしょ? しっかり)

みたいな目で見てきたの。

でも、なぜか今回は、

「キミみたいな初心な子がこんなところにいちゃダメーッ!」

みたいな気分になりました。

いえ、決して鶴松が将来八ツ橋を演っちゃいけないとかいうことではなく(むしろ、ぜひおやんなさい。梨園の掟をお破んなさい)、とにかく、ムラムラ(何?!)・・・あっ間違えた、ソワソワ・・・いや、なんつーか(しどろもどろ)

おそらく、これは鶴松の超絶天才少年ぶりがそうさせたのであろうと確信する。

「若い役者の初役を見守る」なんぞという感情がすっかり飛んでしまって、普通に舞台上の「初めてお座敷に出た遊女」の背後にある悲しい身の上を慮って感情が乱れてしまったのだと感ずる。

うーぬ、末恐ろし、中村鶴松。

そして、つくづく恐ろし、我がショタ魂( ̄△ ̄;)←バカかお前は(呆)






あー、今日も長々と書いてしまった。


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