2015年08月19日(水) |
そういう立場なのだと思い知らされる |
「いいかげんにして!」と叫んで席を立つ、ということが許されていない。
その事実が、私が置かれている立場、私が抱えている不自由さを端的に物語っている。
生きていれば理不尽なこともある、のではない。
生きなければならないこと自体が、理不尽なのだ。
育った環境というものは、本当に恐ろしい。 常識だと疑わなかったことが実は常識外れだったり、極端に偏った価値観を刷り込まれて大人になってしまったりする。 もう随分と年を重ねてから、些細なきっかけで疑念を抱くようになり、その疑念はどんどん大きく膨らんで、ある日、愕然とするのだ。
けれど、長い年月をかけて植え付けられた思考から抜け出すことは、なかなか難しい。 未だに、信じて疑わなかった偏った価値観に、嫌でも影響を受けている。
分かっている。
私はもう十分大人なのだから、いつまでも囚われていてはいけない。囚われなくても、いい。
早く抜け出さなくては。 抜け出して、マトモな思考を持たなくては。
私は、たぶんどこかがものすごく壊れている。
優しいふりをしていて、本当は基本的に冷たい人間なのだと思う。 愛する人への愛情は惜しみなく溢れ出るが、それ以外の人間に対しては、自分でも驚くほどドライだ。
転校や異動や退職で誰かが去っても、ちっとも寂しいと思わない。 付き合いを続けたい人なら、離れたって連絡を取り合うことはできる。 それ以外の人間はどうでもいい。
親戚縁者に対する愛情というものが、湧いてこない。 祖父母、伯父伯母、いとこ……どうして皆、血が繋がっているというだけで、相手に対してそれほどまでに親しみや愛情を持てるのか、不思議だ。
「小さい頃から、おじいちゃん子で…」とか、「おばあちゃんの言葉に救われた。とても感謝している」などと言う芸能人もよくいるが、ちっとも理解できない。 あれは本心なのだろうか。それとも、イメージアップのための、嘘? 後者なら、理解できる。
年寄りなんて、血縁だろうと他人だろうと、しわしわで汚らしくて、言っていることが意味不明で、頭が固いか偽善者か権利意識ばかり強いかのどれかで、苛々するだけだ。
頭のイカれた子供たちが寄ってたかって、むやみやたらと大きな声で挨拶する。 周りは皆、それを「かわいい」と言う。 その気持ちが、さっぱり分からない。 ちっともかわいくない。ただただうるさいだけだ。
色々なことに対して、心が温かい方へ動かなくなった。
私は、ひどく冷徹な人間なんだろう。
愛する人以外は、どうでもいい。
屈辱的な扱いを受けた。
自分が屈辱的な扱いをしているとは微塵も気づいていない男と、全く見当違いな気遣いを見せる女。
私は、裸で座らされていた。 安物のAVみたいに。
矢張り、ここには、私を一人の大人の女性として扱おうとする人間は、いない。
あまりの屈辱ゆえ、私は無邪気な顔で、何も感じていないふりをした。 抗議などしようものなら、その言葉は自分自身に突き刺さり、屈辱的な現実と向き合うことになって惨めになるだけだ。 そして、肝心のあいつ等は、恐らく意に介さない。
悪い予感ほど、何故か当たってしまう。 当たってしまうこと自体に、ではなく、「そういう結果」を引き起こす輩に、心底うんざりする。 そして、悪い予感が当たってしまったことに、帰宅してすぐさま気付く自分自身にも、うんざりする。
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