VITA HOMOSEXUALIS
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2017年11月21日(火) ウリ専

 彼と連絡が取れなくなって半年以上も経ってから、私はウリ専の店に接触した。

 今でもウリ専と寝ることを卑しいもののように思う人はいるだろう。私もそれを良いことだとは思ってない。

 だが、ゲイの男性にとって、どうしても日常生活では自分の性癖を満たすことができないとき、ウリ専は泣く泣くの避難所として機能しているのではなかろうか。

 じっさい、ウリ専の店には都会から出張で来た人が多い。ゲイとしての自分の欲求を満たしたいと思いつつ、それができなかった長い生活があるのだ。男性相手の風俗の店があるところに出張、これは彼にとって千載一遇の好機なのだ。

 ウリ専で働く男の子は欲が深いわけでもなく、とりわけエッチなわけでもない。体を使うアルバイト系のつもりでやっている。よくしつけられていて、礼儀も正しい。見目も麗しく、こんな息子が居たらと思うほどだ。

 それでも決心までには時間がかかった。ミックスルームの方が気楽ではある。だがそこで好みの相手に会えるとは限らない。

 そこで私は思い切ってメール予約した。寒い日だった。4月に彼と連絡が取れなくなったのだから、ちょうど今ぐらいだ。

 指定された場所で待っていると顔が火照ってきた。

 しばらくしてから浅黒い背の低い男性が来た。浅黒い顔だったが形は整ってい、笑うと白い歯が美しかった。肩幅ががっしりと広く、上腕も太い。「何か運動やってますか?」と聞くと、マラソンを走るという話たった。「おとうさんと走るんです」と、親子二代のランナーのようだった。

 個室に着くとシャワーに誘われた。そこが非常に寒いところであった。

 個室は狭く、暖房が入っている。だが、シャワー室は階下にあり、長い階段を降りて広い台所を突っ切り、浴場に行かなければならない。民家を買い上げたのであり、食堂には誰もいない。そこには暖気はほとんど届かず、外と同じ温度である。そこを全裸でタオルを腰に巻いたままで通過する。

 歯の根も合わないとはこのことだ。シャワーを浴びながら彼のペニスをそっと見るとちぢこまっている。陰毛の草むらに隠れている。「やっぱり寒いよね」と私は言う。「寒いっす」と彼は返す。

 私は歯を磨く。しばらく震えが止まらない。

 彼が部屋に帰ってくる。「暖房強くしましょう」彼は言い、設定を28℃にする。

 それでも寒い。暖気の吹き出し口に二人並んで立ち、タオルで体を隠しながら暖気を浴びる。

 しばらくしてようやく人心地がついた。
 


2017年11月13日(月) 愛情と性欲

 彼との逢瀬が終わり、しばらく放心した日々が続いた。強引に連絡を取ってみる方法もないではなかったが、それは彼がいやがると思い、遠慮していた。

 実はその遠慮は今でも続いている。私の携帯には彼のアドレスと電話番号は残してある。ときおり彼のアドレスにメッセージを送ってみる。返事はないが、送信不能とも言われないから、何かしら届いているのではないかと思う。電話すれば出ないこともないだろう。だが、私はそうしない。 

 彼の方から私にコンタクトしてくる気にならなければ、私が一方的に押しかけても無理が残る。だから音信不通のままなのである。

 だが、連絡が取れなくなってから一年もすると、ようやく私も落ち着いた。彼を思い出してオナニーすることもなくなった。彼の細い肩や薄い胸板、そのわりに厚い唇や太いペニスの記憶が私を悩ませることもなくなった。

 そうなったときに私が思ったのは、私たちが同性に対して抱くのは恋愛の感情なのだろうか、性欲なのだろうかということだった。

 私は明らかに相手に恋愛の感情を持ったこともある。高校生のときや大学生のとき、また、ずいぶん年月が経ってから、若い人々にものを教える仕事を始めたとき。そして「彼」。そういう相手はたかだか数人にしかならないが、たしかに私は彼らとの言葉のやりとりを楽しみ、言葉の中にときどき秘めた思いを入れるのを楽しみ、ふとしたときに彼らが見せるしぐさや表情に魅力を感じてうっとりした。

 だが、そのような相手のほとんどは同性愛者ではなかった。

 もし彼らと抱擁ができていたら、キスができていたら、ペニスをまさぐることができていたら、私の幸福はどんなにか舞い上がったことだろう。

 しかし、現実はそうではない。私ははっきりと言われたこともある。

 「あなたのことは好きです。愛しています。けれど、体をくっつけるのだけは、僕は生理的に受け付けられないのです。ごめんなさい」

 謝られることではないのに、彼は真剣に謝った。私は涙のにじむ思いで、この謝罪に感謝した。

 それでは、自分の恋愛感情が相手から肉体的には受け入れられないとなったとき、私たちはそれを素直にあきらめることができるだろうか?

 それは少なくとも自分にはできないのである。

 私には、感情はどうあれ、肉体の性欲として男を求める心理が働いている。

 だから「ハッテン場」と呼ばれるところに行って、感情も何も無縁な性器と性器の接触を求めるのである。

 これをやった後は本当に後悔する。

 「またやってしまった」、「また負けてしまった」という悔恨は消えない。

 しかし、肉体の性欲が飢えてくると、言葉さえも交わさずに射精しあうことが普通に思えてくる。


aqua |MAIL

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