僕らが旅に出る理由
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2005年09月07日(水) My Only London - 旅の終わり(2)

でも、言葉のことがなくても、いつかは帰国しようと思っていた。

昔読んだ橋本治の本に、「旅とは、自分の家の玄関を出てから、その玄関に戻ってくるまでが旅である」というようなことが書いてあった。
それを読んだ時、何かが心にひっかかった。当時私は漠然と、「どこまでも遠いところへ行きたい」と思っていたので。大学生くらいの時だったと思う。
10年近く過ぎ、イギリスで暮らしながら、
「イギリスに永住しないの?」
と誰かに聞かれると、私は時々その一節を思い出した。

どの旅にもそれが当てはまるとは思わない。
ただ、私には真実だったと思う。
だからあの本のその部分だけがいつまでも記憶に残ったのだと思う。
私はそういうタイプの人間なのだ。私の旅はいつか戻ってくるための旅なのだ。たぶん。

私はもともと、日本がイヤで日本を離れた。日本に居すぎて食傷気味になっていると思ったから、離れればもっと客観的になれるだろうと思った。
そして、それはその通りだった。
3年経って、私の感覚は完全にニュートラルになっていた。
だから今や、いつ帰ってもいい、という精神状態になっていた。

それにそのままイギリスに留まっても、当事者にはなれなかっただろう。結局。
私は、あの国ではよそ者なのだ。永遠に。それは戸籍上、イギリス国籍が取れるようなことがあろうとなかろうと。

もちろん、イギリス国籍が取れれば省ける煩わしさはある。
ワークパーミットの更新や銀行口座の開設の困難はなくなる。大学の授業料も、外国人枠のバカ高い金額を支払わなくていい。

だけど、微妙な疎外感はずっと残ると思う。そしてそれが、長い目で見れば人の心を一番深く蝕む原因になると思う。

ある時、ロンドンに私よりずっと長く暮らす女性が、ポツリと漏らしたことがある。
「今さら、もう日本には戻れないわ」
同じ言葉を、誇らしげにいう人にも会ったことがある。
だけど、そうなると、変な言い方だが彼女らはもう、日本人のプロでもなければ、もちろんイギリス人のプロでもない、何でもない存在なのではないだろうか。

私はいつか、同僚(イギリス人)に誘われて、彼女が所属している素人劇団の公演を見に行ったことがある。
カムデン近くの小さな、古ぼけた芝居小屋だった。
それは地元の素人劇団だったから、役者も地元のロンドン子で、幼なじみとか学校の同級生とかが誘い合って結成しているような感じだった。観客も白人ばかりで、幕間に知り合い同士で談笑していた。そんな小さなサークルが観客席に三々五々できていくのを見ながら、私はとても場違いな気分になった。

そういうところで見るイギリス人は、なんとなく私たち外国人の中で暮らしている時より、リラックスして見えた。もちろんロンドンは、東京にくらべればずっと人種の混ざってる街だけど、それでも、考えてみれば当たり前だ。
私たちだって、日本人だけで固まっている時の方が楽だ。言葉や話題に気を遣う必要もなく、共有しているものもたくさんあるのだから。
イギリス人が同じように思ったとしても、不思議ではない。

それ以外にも、彼らが私の知らない歴史上の記念行事を行って、それが彼らの生活にちゃんと溶け込んでいるのを見た時、TVで当時の総理大臣だったトニー・ブレアが何か言ってても、他人ごとのようにしか聞けなかった時、あるいはもっと単純に、パブなんかでたまたまイギリス人のグループが、自分たちにしか分からない話題で楽しそうに笑っている時。
この国は彼らのものなのだと、漠然と感じた。

あの小さな芝居小屋で、ひそかな連帯感と共にリラックスして話していたイギリス人達を見ながら、私は私の所属する場所へ帰るべきなのかもしれないと、ぼんやり思った。


帰国の直接の動機になったのは、実はまったく別のことだった。
それでも、いいきっかけだと思った。
3年、という単位も気に入った。3年なら、住んでた、と言っていい長さだろう。ツーリストの長期滞在ではなく。

それで勤務先に、仕事を辞めたい旨を申し出た。

その1ヶ月後に、私は帰国した。



その時の決断は間違ってなかったと思うし、後悔はしていない。



だけど、やっぱりたまには懐かしくなる。
またあそこに行けたらな、と思う。


曇り空の下、いつも不安な風が吹いていた、あの街に。


2005年09月06日(火) My Only London - 旅の終わり(1)

私は2005年の9月に日本に戻った。
ワークパーミットを得て渡英してから、ちょうど3年ほどの滞在だった。

原因の一つは英語だった。

ロンドンで暮らして、私の英語力は確かに伸びた。
渡英前は読み&書きの方が得意で、話す&聞くは苦手だったのに、3年経ってみると私の一番の得意はスピーキングになっていた。
電話の受け答えもある程度抵抗なくなったし、新聞を読むスピードも格段に速くなった。TOEICなんか955も取れて、赤子の手をひねるようなもんね、とせせら笑った。(←感じ悪)
それでも、ネイティブにかなうとかかなわないというレベルでは全然ない。全然ないということが、年を追うごとにはっきり分かった。
言葉は、日常生活を送るのに支障ありません、というレベルでは、言葉として生きてないも同じだ。たまにいくつか英語でうまい表現を覚えてみても、ネイティブの言葉の潤沢さはそれどころではない。彼らの生き生きした英語の表現を目の当たりにするたびに、私は自分にがっかりした。

彼らのように英語が使えたらな、と本当に思った。
私は英語の、あの音楽のような心地よい音程が好きだ。日本語にないリズムとメロディがある。そして、あの硬質でエッジがきいた発音が好きだ。特にイギリス風の発音にそれがあると思う。それらを、まるで難しい歌を上手に歌うように、上手く使いこなせたら気持ちいいだろうなと思った。

だけど、それは無理だな、というのが段々に分かった。
物事なんでもそうかも知れないが、外野から見ているとできそうに思えることでも、いざやってみると生半では無理だというのが分かる。私もロンドンに来るまでは、数年いれば何とかなるんじゃないかと思っていた。でも、そうじゃなかった。

バタシーに住んでいたころ、お気に入りでよく通ったカフェがあった。テラスから運河が見渡せ、天井には扇風機のプロペラが回っているような、古い造りの店だった。そこである午後お茶していたら、近所の子供連れがやってきた。お母さんはテーブルで注文していたが、子供(2才くらい?)は物珍しいのか、フロアをトコトコと歩き回った。やがてテラスの近くまで来たが、たまたま置いてあった折り畳みの梯子に興味を持ったようだった。それは、彼から見ると少し高いところに立てかけてあった。
ふわふわの金髪が愛くるしいその子は、目をくりくりさせてお母さんの方に向き直り、一言こう言った。

「Off!」

お母さんはあぁダメよ、それは店のだから、などと言いながらその子を連れて行ったが、私はその一言で負けた、と思った。私ならここで、offは出ない。
つまり私はoffの使い方一つ、2歳児に勝てないのだ。
あの子はladderもcould you pleaseという言い方もまだ知らないだろう。それでも、言いたい事を言うために一番必要な一言を確実に紡ぎ出す。ネイティブであるとはそういうことだ。
私も、「この梯子を下ろしてください」と言うことは出来る。それらしい単語を10も思いついて、その子がやったよりももっと具体的に、礼儀正しく言えるかも知れない。だけど、英語は私にとって、しょせん付け焼刃の言語だ。「それらしく」言うのがせいぜいで、「それ」をがっちり掴むところまでは、たぶん行けない。そして、「それ」をガッチリ掴むことができないというのは、要するに、カッコ悪いということなのだ。

私は、カッコいいものになりたかった。そして、自分がもしそのカッコ良さに到達できるとしたら、それはやはり自国語を持ってでしかないのだろう、と思うようになった。


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