僕らが旅に出る理由
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2005年07月07日(木) My Only London - It's July 7th

2005年7月7日、ロンドンでテロが起きた。
同じ時期ロンドンにいた友達(今は帰国している)が、ブログでその時のことを思い出して書いていた。
彼女は心から恐ろしく思って、それ以来毎日悔いのないように生きよう、と強く感じたそうだ。
それに比べると、私はちょっと決まり悪くなるくらい、特に何も思わなかった。

あの日は平日だったのか週末だったのか覚えてないんだけど、とにかく私は学校(勤務先)にいて、事件の内容がよく分からなかった。でもロンドン中心部への車両侵入が禁止になったせいでがらんとしたピカデリー通り(4車線くらいある)を通って近くのベーカリーに行き、そこの売り子の黒人の女の子と、
「何なの?事件?」
「なんか、バスの屋根が吹っ飛ばされたらしいよ」
みたいな会話を交わしたのを覚えている。

帰宅が大変で、とにかく中心部=ゾーン1はバスがまったく動かないのでゾーン2エリアまで歩いて行き、そこから寸断されたバス路線を何度も乗り継いで家に帰った。バスを降ろされるたびバス停に人が溢れた。だけど、みんなその頃には事件を知っていたから、文句を言う人はいなかった。普段ならみんなイライラして気持ちがささくれ立ってる場面だけど、その日はおとなしくバスが来るのを待っていた。

いつもなら遅れてくるときは「しれっ」としてる顔が見えるような赤い二階建てバスも、このときばかりは「せっせ」と人々を迎えに来ているように見えた。マンガなら、頭のあたりから汗が出ていそうな。

私がテロ事件の日のことで一番覚えているのは、そのシーンだ。
そのとき私が感じたのは、「人々は、それでも生きて行くんだなぁ」ということだった。それは大げさな人生讃歌みたいなことではなく、もっと平熱で考えていること。
困ったな、明日も仕事なのに、でもあんな事件が起こったら仕方ないかな、みたいな。
テロ事件の印象としてはピント外れだけど、人々の優しさというか、寛大さというか、余裕みたいなものを感じた。

その後、ロンドンはテロに負けない、という気運が広がり、あちこちで「ロンドンは一つ」をうたう集会が開かれた。私はトラファルガー広場で開かれたものに行った。当時の市長のケン・リヴィングストンもスピーチを行った。(すごい人だかりでステージは全く見えなかったんだけど)それから、地元のイスラム団体の長らしき人がスピーチした。この人はナニゲに天然な人で(笑)スピーチの途中で歌を歌いはじめた。
知らない、イスラムの言葉で、意味は分からなかったけど、語尾の長い、静かな歌で、それがマイクを通してロンドンの曇り空にじんわりと沁みて行った。
みんな、しんとして聞いていた。

多民族が雑居状態になっているロンドン。人種問題は根深く、きれいごとだけではどうにもならない。それでも、人間の力でそれを解決したい、という切望がそこにあるような気がした。

しばらくして、平和を祈ってvigilを行いましょう、という呼びかけが職場メールに回った。
ロンドンの有志の人々が勤務先などで呼びかけているのだった。
そういえばラジオでもそんなメッセージを、朝に流していた。
昼12時に表通りに出て下さい、とあったので、受付の仲間とピカデリー通りに出てみた。
広い舗道に、結構たくさんの人がいた。

時報もないのに、その瞬間を誰が指揮をとるんだろう?と私は不思議に思った。
でも、その時刻はやってきた。ある者は携帯で、ある者は自分の腕時計で、ある者は周りの空気で、それを知った。
すべての人が、自分でそれを始めた。
誰の指揮も、どこかから呼びかけるサイレンの音もなく。
それは静かに始まった。
車はどうするんだろう、と思っていたら、車もいっせいに一旦停止した。
それにはびっくりした。一台、事情を知らない車がいれば事故になっているところなのに、なんという統制の取れ方だろうか。

不思議な静寂がひろがった。

ロンドンの黙祷は、目を閉じない。閉じている人もいるけど、大体の人は目を開いていた。
ただ、口はきかない。
黙ったまま、みんなばらばらの方向を見ていた。
強い目で。

ここにもやはり、静寂があった。
人々の黙祷という形で。
だけど、力強い沈黙だった。

意思を感じる黙祷だった。

あんな黙祷は初めて見た。
今でも、鮮やかにその瞬間を思い出す。
誰も話さなかった。それでも、それは高らかな宣言だった。
大声で何かを叫ぶより、ずっと胸に迫った。
5分もその状態だったろうか?
やがて車は走り出し、人々は整然と持ち場へ戻って行った。

テロ事件で思い出すのは、爆破されたバスの写真でもなく犯人の顔写真でもない。
地下鉄が攻撃対象になったキングス・クロス駅は私もバスで毎朝通るのに、映画以上のリアリティを感じることができなかった。

それよりも、テロがあろうとなかろうと、連綿と続いていた人々の営みのほうが、ずっと私には重かった。


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