蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 LIAR

この後どこか行かない?

それだけの台詞を言うために、私は酷く緊張していた。なんでもない。なんでもないことじゃないか。言い聞かせるように胸に手を当てて俯く。何度も練習した言葉を口にするだけでこんなに緊張するなんて、中学校の文化祭で上演した「リア王」以来だ。
あの時は意味なんか理解しなくても、ただ口から言葉を発せればそれで良かった。

最初から途切れがちだった会話は、今はほとんどない。それでもはずっと話し掛けてきてくれていた山崎くんだったけれど、あまりに反応のない私に困り果てたのか駅が近くなる頃には、無言に近くなっていた。

それもこれも不要な緊張のせいだ。今もし何でも願いが叶うなら、鋼で出来た心臓が欲しい。
そうして言うんだ。
この後、一緒にどっか行こうって。

「どうしたの、今日あんまり元気ないね。もしかして何かあった?」

頭の中は忙しなく働いているのに、相変わらず私達の間には会話はなかった。それに焦れたように、山崎くんがこちらを伺う。

「ずっと、上の空だね」
「…と、」
「なんか、悩んでるみたいだからさ。ごめんね。俺、気付けなくて」

照り返しのせいで白く光って見えるアスファルトに視線を落として、山崎くんが静かな声で言った。

「ち、違うの…っ、そうじゃなくて。私、山崎くんに言いたいことがあって――」

慌てて出した声は思ったよりも大きく、それにさらに慌てた私は自らの口に手を当てがった。

「言いたいこと?」

ぴたりと足を止めた山崎くんが、こちらへと向き直る。痛いばかりの日差しの中、眩しいのか細まった薄茶色の瞳が私を見下ろす。しまった。明らかに、私の言葉を待っている。余計に、言い出しにくくなった。

「えと、あの、」

暑さとは別の汗が、首筋を伝う。
知らなかった。緊張しても、汗って出るんだ。

少し先に見える駅が陽炎のように、揺らいで見える。いつもはあそこで別れが待っている。また明日ねって。でも今日は金曜日だし、明日は学校ないし、何よりも――。

『そういうのって、付き合ってるって言うの?』

く、と強く唇を噛んで、顔を上げる。大丈夫、言える、大丈夫。だってそれくらいのこと、駄目だったって気にしなければいい。綺麗な線を描く目と、目が合った。何度見ても、見慣れない。夜も寝られないくらい好きだと言ったら、今見せている涼しげな表情を綻ばせてくれるんだろうか。それとも歪ませちゃうんだろうか。

「鈴川さん?」

少し甘さの残るトーンが、私の背中を押した。

「あの…っ、あのね、私、」
「うん」

静かな視線が、途切れがちな台詞を促す。今言わなきゃきっと後悔する。

「私、まだ山崎くんと――…、一緒にいたい、んだけど」

山崎くんが驚いたように軽く目を見開く。言ってしまって、しまった、と思った。勢いに任せた台詞は考えてた以上に、強引過ぎた気がした。

どうしようもなくて俯いた私の頭上に降るのは無言という重みだった。
単に誘うつもりだったのに。それが前置きもない唐突な告白に面食らったに違いなく、顔を上げれなくなった。こういうの状況、前にもあった。ふと夏の始まりにした告白を思い出す。私って進歩ない。

蝉が煩く鳴く。一匹鳴けば次々と連鎖するように始まって、わんわんと響いた。
呆れられてしまっただろうか、と肩を落としたその時。下に降りるばかりの視界に、こちらに向かって差し出される山崎くんの手が映り込んだ。

その動きに誘われるようにして目線を向ければ、口元を押さえてあらぬほうを見る山崎くんがいた。

「――そんなふうに言われるなんて、考えてもみなかった」

感嘆、とでもいうような響きが私の頭の中を混乱させた。
でも呆れてはなさそうなその口振りに、僅かにほっとした。

「あ、あの――」
「じゃあさ、俺の家に来ない?」

あまり大きくはない、けれどもよく通るその声が、何でもないことのようにそう言った。

ゆっくりできるよ、二人で、誰にも邪魔されずに。
山崎くんがいつも通りの優しい声で、でも少しだけ低い声でそう言って、最後に「ね、そうしよう?」と私の大好きな笑い方で私を見た。






柔らかく、でも体が沈み込んでしまわない程よい固さのソファに浅く腰掛けて、何度目かの深呼吸をする。
わりと広いリビングには雑多なインテリアが所狭しと置かれていたけれど、妙な統一感が保たれていてちっとも煩くはない。

「父親がね、好きなんだこういうの。古美術なんか見せるとね、もう目の色が変わってしまうくらい好きらしくてさ、増えていく一方なんだよね」

かたり、とトレーをテーブルに置いて、山崎くんがあたりを見回す。トレーの上に乗せられたグラスに浮かぶ氷が、今にも涼しげな音をたてそうに重なっていた。
ごめんね、両親共働きで誰もいないんだ。そう言ってすすめてくれた桃の香りのするアイスティーは、とても冷たそうだ。

「そうなんだ」

ふうわりと甘く優しい笑顔を浮かべて、山崎くんが隣に座る。ひだまりのような、温かな匂いがする。
もう一度深呼吸をする私に「どうしたの」と覗き込んでくるその近さに、息が止まりそうになる。
わかってる、この距離感は決して不自然じゃないし、一緒にいたいと言ったのは私であって山崎くんじゃない。
なのに私は気の利いたことも言えなくて、相変わらずどきどきしているだけだ。

だってまさか、家に呼んでくれるなんて思ってもみなかった。ミユキが言ったことがくやしくて、信じたくなくて、どうにか恋人らしくしたかっただけなのに、いきなり二人きりになるなんて私にはハードルが高すぎる。

「緊張してるの?」

くすりと山崎くんが笑う。

「ごめんね。俺、女の子が好きそうな店とかもよく知らないしさ、それに外は騒がしいでしょ? そういうの、好きじゃないんだ」

何度か聞いた内容に、私は首を左右に強く振る。
ファーストフードの店やゲームセンターが山崎くんに相応しくないことくらい、私だってわかっている。

「…あ、あの違うの、ごめんね。私が慣れてないだけだから」
「? 何に?」
「え、えとその…」

首を傾げた山崎くんに私はさらに、慌てふためき、首をぶんぶんと振った。
顔に熱が溜まるのがわかる。本当に私は不器用だ。嫌になるくらいに。
俯いてしまった私の頬に、山崎くんの指が触れる。とても優しい触れ方に、それでも大袈裟に肩を揺らしてしまうのは。

「慣れてないの。男の人にとか」

俯いていても、山崎くんが私を見ているのはわかる。黙って、静かに。どう思われているのかは分かりようもないけれど、随分と困らせているに違いない。
でも慣れないのだ。

「それに山崎くんが、こんなに近くにいることとか……。だって、ね? ずっと憧れてたんだよ私」

再び顔に熱が溜まる。私の顔は今、相当に赤いに違いない。
頬に触れていた指が、撫でるようにすうっと動く。そうしてそのまま、両の頬全体を掌が包んで。

「もしかして、鈴川さんは付き合ったの、俺が初めてなの?」

優しい声音に、気分を害してないことがわかって、ほっとする。だからその内容にあまり考えることもせず、小さく何度も頷く。
何か言うと、声が震えてしまいそうな気がした。

「…そっか」

ゆっくりと顔を上げさせられても、山崎くんを直視することがどうしても出来ない。

「じゃあ、全部俺が初めてだ」

伏せた瞼に吐息がかかる。それは笑っているようにも思えた。目元に唇が触れる。優しい、柔らかい感触に私は目を細めた。

2011年03月21日(月)



 interval

一緒に帰ることが日課になった。

当たり前のようにあたしの教室の前で待っている山崎くんが笑いかけてくれるたびに、周囲の視線が痛いくらい気にはなったけれど、弾けるような幸せな気持ちの前にはすっかり霞んでしまっていた。

「帰る?」
「うん」

緊張するのは相変わらずで、手を繋いで歩いている現実すら、たまに夢かと疑いたくなる。
汗ばみそうになる掌、俯きがちになる視線、でも優しい声音に安心感を覚えてしまう。

「俺ね、今読んでる本があって。面白いから全部読んだら鈴川さんに貸してあげる」
「ほんと? ありがとう、嬉しい。あ、でも私に読めるかなあ」

元々、読書嫌いな私が読めるかどうかは不安だったけれど、同じ本を共有できる嬉しさの方が遥かに勝るのが恋心ってものだと思う。
山崎くんの好きなものは好きになりたいし、嫌いなものは私も遠ざけてしまいたい。

「大丈夫だよ。たいした量も無いし、読みやすいから」
「じゃあ読んでみる」
「うん」

ふうわりと綿菓子みたいな甘い甘い笑みを浮かべて山崎くんが私を見る。明日は土曜日。学校は休みになる。
それまで楽しくもなかった学校が、山崎くんという存在を認識しただけで、待ち遠しいものになった。
無駄な話ばかりが長い月曜日の朝も、彼の目が私に向いていると知るだけで、何時間でも立っていられそうな気がする。

駅までが、私達の共通の帰り道。
繋がれていた手が解かれてしまう、境界線。
強く握られていたのが嘘みたいに、あっさりと離されてしまう手。

「じゃあ、またね」
「う、うん。月曜に」

喪失感を感じてしまう私とは正反対に、山崎くんはいつも通り涼しそうな笑顔を見せる。
手を振って違う改札に入っていく山崎くんの後姿を確かめて、それから定期を取り出し改札に通した。




「そういうのってさあ、付き合ってるっていうの?」

からん、と溶け出した氷がグラスの中で音をたてた。

「え?」
「だって。その人、彼氏なんでしょ? なのに、休日に会ったりしないわけ? そもそも一緒に帰ってりするくらい恋人じゃなくたってするわけだし」

色の薄くなったアイスティーのグラスを、つまらなそうにストローでかき混ぜ、ミユキは私をちろりと見た。
言い方は意地が悪かったけれど、表情を見るにどうやら心配しているらしかった。
何て返して良いのかわからなくて、ミユキのストローを摘まむ指先を彩る紫のマニキュアに視線を落とした。

「そ…かなあ…」
「ま。あんたいいんだったら、いいんだけどさ。でもちょっと理解できない」

髪を弄りながら、外を眺める幼馴染をそっと見る。

小学校以降は別々の学校になった私達は、外見も中身もたいして共通点がないにも関わらず、『幼馴染』という細い糸を頼りに時々こうして会う。
私と違って奔放な彼女は、私と山崎くんのような関係は信じられない、と一言で片付けた。

「手を繋ぐだけなんて、今時信じられないって」
「…キスだって、したもん」
「子供みたいなキスでしょ、そんなの数に入らないわよ。何ていうの、こういうの。ジュンアイ? ケッペキだっけ」
「だって、付き合ってまだ一ヶ月だし」
「もう一ヶ月、って言いなよ」

呆れた、と言った風情でミユキは溜息を吐いた。

そんなの人それぞれじゃないの。そうも思ったけれど、黙っておくことにした。
恋愛の話でミユキに口を出せるくらい、豊富な経験なんか私が持ってる筈もない。
男の人をちゃんと好きになったのも、付き合ったのも、山崎くんが初めてなのだ。

山崎くんを知るまでの私は、男の人に興味の欠片も持っていなかったし、ミユキのように次々と相手が変わる事なんて最早異世界のような出来事だった。

「…私だってさ、休日とか会いたいし、どっか寄ったりとかしたいと思ってるけど」

遊びに行ったりだとか、一緒に過ごしたりだとか、通学路を帰るだけじゃなくて、そういった一日を過ごしたい。だけど。

「じゃあ誘えばいいじゃん」
「出来ないよ、そんなこと。だって断られたりしたらどうするの」
「だーから、なんでそんな消極的なの。だいたいさ、彼氏の方だって普通なら『休みの日は何してるの?』ぐらい聞きそうなものだけど」

毎日、一緒に帰ってる。門を出れば、手を繋がれて、いろんな話をする。
だけど、その後を一緒に過ごすような予定を聞かれたことは一度だってない。
私には一緒にいたいと思う気持ちがあるけれど、山崎くんがそう感じているとは限らないじゃないか。

「そういうのってさあ、付き合ってるって言うの?」

ミユキはまたそう言って、私の目をじっと覗き込んできて、いつもは楽しい親友との時間は急に居心地の悪いものとなる。

山崎くんはとても優しいし、私を大事にしてくれていると思う。
でも別れ際にあっさりと手を離して帰ってしまう山崎くんを思うと、ミユキの言葉に反論するだけの材料は私にはほとんどない気がした。


2011年03月20日(日)



 puzzle

前で話す担任の話が終わった途端、クラスメイト達はほぼ一斉に立ち上がり、出て行った。

「なあ鈴川」

クラス全員分集めたプリントを束ねていた時、担任がすまなさそうな声で私を呼んだ。

「先生な、今から会議入るんだ。悪いんだがそのプリント、職員室に持って行っておいてくれないか」

「今から、ですか?」

「悪い。頼むな」

返答さえ聞かず、生徒を掻き分けて急がしそうに教室を後にする担任の背を見送り、溜め息を吐いた。なんて面倒くさい。
委員長なんて引き受けるんじゃなかった。
従兄弟の弁を借りれば、内申の為だって言えるけど。それで納得しようとしたって、何かと細かい事を押し付けられるのには辟易する。
腕に抱えたプリントの束は、重くない代わりに、酷く煩わしいものに思えた。

漸く静かになった廊下に出て、足早に階下に降りた。さっさと終わらせてしまいたかった。
けれどその先で、山崎くんが向かいの廊下を歩いているのが見えて足を止めた。
特進科の山崎くんと普通科の私では、階はおろか棟も違う。偶然に会う確率なんてほとんど無い。

嬉しくなって開いた窓から声を掛けようとしたところで、押しとどまる。山崎くんは一人ではなかった。

柔らかな線を描く微笑。目下それは私ではなく、彼の隣に歩く人に向けられていた。佐伯さん、だ。
ふわふわとした長い髪は薄い茶色をして、色の白い彼女によく似合う。わりと距離があるのにも関わらず、その光景は酷く際立ってて見えた。

彼女も特進科ではなかった筈だ。けれど同じ風紀委員という以上、一緒にいてもおかしくはないんだけど。でも。
口元に両手をあてて佐伯さんが嬉しそうに笑う度、何とも言えない感情が押し寄せてくる。

私より、ずっと似合ってる。
可愛らしい、という代名詞がぴったりの女の子。
一緒にいるからどうって言うんじゃない。
ただ、その彼女に笑い返す山崎くんの微笑は、私に向けられるものと全く同じに見えて。

――嫌だ、と思った。

一言でいうなら、まさに王子様の微笑。

『俺、王子なんかじゃないから』

あの日最後に呟いた台詞の意味はわからなかったけれど、こうやって眺める山崎くんは誰が何て言おうと王子様に見える。と言うより、それ以外何だって言うんだろ。
山崎くんと付き合ってるなんて、今だって夢みたいだ。
私と付き合うなんてやっぱり冗談なのかも、なんて、疑心暗鬼に駆られるのは、きっと私のせいだけじゃないと思う。

気付けば腕の中のプリントが皺になるくらい、ぎゅう、と抱き締めてしまっていた。

「何してんだよ、こんな所で」

「…っ」

不意に後ろから叩かれた肩に、過剰なくらい反応して振り返る。

「りょう、ちゃん」

「そんな驚くなよ、びっくりするじゃん」

「だ…って、急に、驚かすから」

プリントを落とさなくて良かった。もしもこんなところでばら撒いたりして、山崎くんにでも見られたら――おそらく誰に見られても変わりないけど――恥ずかしすぎる。

「あーごめんごめん、そんな驚くと思ってなくてさ。あぁそれ職員室に持って行くのか?」

にやにやと笑いながら、諒ちゃんがプリントを指し示した。
一学年上になる巽諒は、生徒会の副会長を務めていて、それでいて私の従兄弟にあたる。
昔から世話好きで良い人なのは認めるけれど、血縁だと言うだけで前年は諒ちゃんの担任だった教師からクラス委員の推薦を受けた身としては、全部を肯定するわけにはいかない。

「行きたくて行くんじゃないもん。押し付けられたんだよ」

「委員長だもんな」

「それ、誰のせいだと思ってるの」

「そりゃ人望高い俺のおかげに決まってんだろ」

「どこが、おかげなの? 私、入学してから面倒ばっかしかかけられないと思うんだけど」

「文句言うなよ。ここで何かしらやってりゃ悪いことはないって。三年になって進学が見えてくりゃ俺に感謝するさ」

随分と高い位置にある諒ちゃんの顔を睨んでから、また向かいの廊下を見た。誰も居ない。そりゃあそうか、山崎くんだって暇じゃないんだからいつまでも同じ場所にいる筈がない。

「何変な顔してるんだよ、あっちに何かあんのか?」

「ど…っ、どーだっていいでしょ」

「ああはいはい。職員室行くんだろ? 俺も用事あるからさ、そこまで一緒に行こうか」

「また生徒会? 忙しいよね、いっつも」

「まぁな。お前も来期は立候補しろよ、俺が推薦してやるからさ」

「そういうの、口だけにしておいてよ」

「おう、たぶんな」

にっと笑いながら腕に嵌めた時計をちらりと見ると、諒ちゃんは睨み付ける私の腕を引き、悪気の欠片もなさそうな顔で口笛を吹きながら歩き出した。

放課後の職員室はわりとざわついていて、騒然として無駄に煩い。何度も来たことのある担任の机の上に腕の中のプリントを置くと、隣の席の先生がご苦労様と言って飴を一つくれた。

「子供のお使いみたい」

「みたい、じゃなくてそうなんだって」

飴を口に放り込んだ私に、近くにいた諒ちゃんが笑った。
職員室に残る諒ちゃんに手を振って外に出れば、廊下に降り注ぐ日差しが私を照らす。
日中止まなかった豪雨が嘘みたいに晴れ渡った空と、強い風のせいか昨日までの蒸し暑さはなくてやけに風が澄んでいた。
眩しいくらいの廊下を歩き靴箱に着く頃、壁を背に一人の男子生徒が立っているのが見えて――。

「山崎くん…?」

すらりとした体がこちらを向く。日差しが眩しいのか、何度か瞬きした後、山崎くんはいつもみたいな淡く柔和な笑顔を見せた。

「待ってたんだ。一緒に帰ろうと思って」

僅かに首を傾けて、よく通る声がその笑みと共に私に向けられた。



クリーム色の木漏れ日が芝生を照らし、やけに煌めいて見える。
今日の雷鳴の残滓、玉みたいな露のせいだ。
広々とした公園内には、人影はほとんどない。

「こんな所に公園なんてあったんだ、知らなかった」

「ああ、うん。駅と反対だしね、わりと皆知らないんだよね」

山崎くんが少しだけ俯いて言った。
足元の泥濘を気にしているのかもしれない。きっと綺麗好きだろうから。
優美な曲線を描く目元から生えた、睫毛の長さに目を奪われる。
これだけ造作が整った人間を間近で見るのは、言うなれば毒みたいなものだと思う。
身近に居られて嬉しいはずなのに、心音が休まる時がなくて、逆に苦しくさえなる。

ベンチに腰を掛け、鞄を置いた。
目の前を犬の散歩中らしい中年のおばさんが、興味深そうな視線をこちらに投げて通り過ぎて行く。
そんな無遠慮な眼差しにさえ、山崎くんは涼しげな笑みで見送った。

「私、公園とか久々かも」

「そうなの? 騒がしい場所は苦手なんだ、俺。煩いと疲れるし――女の子でも同じなんだけど」

それは言外に物静かな女の子が良いという意味だろうか。
量りかねて困惑する私に、山崎くんは唐突にこちらへと手を伸ばし。

「……っ」

さらりと髪を撫でる指に、思わず固まってしまった。

「さらさらだね、鈴川さんの髪。…透けても黒くて綺麗だよね」

「え、と、ありがとう」

なんて返していいのかわからなくて、咄嗟にお礼を言えば、山崎くんはほんの少し目元を柔らかくして微笑んだ。
興味深げに指で掬った一束に、顔を近づける相手。
そういうことを、いきなりしないで欲しい。

「どうしたの?」

顔が、近くなる。すぐ、そこにある、目鼻立ちの整ったすっきりとした顔。

「なんでもな、い」

「そう? なら、いいけど」

一つ、わかった事がある。

山崎くんは、かなり、積極的だ。手を握るのも髪に触れるのも、ごく当たり前に何の躊躇いもなくその手が伸ばされる。
慣れてるのかな。そうであっても不思議じゃない。そんな事を思う。もしそうなら、知りたい、とも思う。山崎くんのことなら、何でも知りたい。
ふと、放課後に一緒にいるのを見た佐伯さんを思い出した。

「どうしたの?」

「…つ。何でも、ない」

頭の中から今日見た光景を振り払う。ただ、委員が一緒って言うだけで。
そう思い込もうとする私の、ベンチに置いた手の甲に重なる掌。

「やま…」

「キスしていい?」

私を覗き込む、揺らぎのない薄茶の瞳。
随分と色素が薄いんだって、初めて知った。
そういえば、髪も茶色っぽいし、肌だって他の男の子より随分と白い。
そんな事を考えていたら、いつのまにか距離はもっと縮まっていて。

「…ん、」

返事も聞かずに、軽く触れてきた唇の感触に、何も言えなくなった。
拒否しない事を知っている、躊躇いの無い動作。
薄く微笑んで、山崎くんが私の頬を撫でる。

しっとりとした唇がやけになまめかしくて、相手が目を閉じてしまっても、しばらくそこから目を離せないでいた。

「ごめん、嫌だった?」

「え? ううん、違う、嫌なんかじゃないよ。ただ――」

吐息がかかるようなすぐ傍で、山崎くんが私を静かに見つめる。

「慣れてる、のかなって、思って」

「え?」

さっきまで合わせていた自分の唇に、指先で触れる。
こういうこと、と継ぎ足した台詞に、不思議そうな顔をしていた山崎くんが、ああ、と理解したように笑った。

「慣れてないよ」

嘘。そう言いたかったのに、もう一度重なった唇のせいで叶わなかった。

「そんなことよりね」

ふ、と耳元に寄せられる唇から漏れる息が、擽ったくて身を捩った。

「な、に?」

「今日さ、放課後、巽先輩と一緒にいたじゃない?」

「え、あ…、うん?」

急に巽、と出た従兄弟の名前に、曖昧に頷く。何で知ってるんだろう。
そんなに大声で話してた気もないし、山崎くんはこっちに気付いてなかった筈なのに。

「駄目だよ」

「…?」

「他の男と一緒にいるなんて」

唇が耳に触れる程近い。山崎くんの声は、言い聞かせるように優しく言葉を区切って紡いでゆく。

「だってね、鈴川さんは俺のものなんだから」

耳に当たる唇が紡ぐ台詞が、こそばゆくて、どうにかなりそうだった。


2011年03月19日(土)



 declare

高嶺の花。難攻不落。玉砕覚悟。

そんな今の状況を表す四字熟語が、浮かんでは消えてゆく。
学園の王子様。
なんて、時代錯誤な称号さえ、目の前のこの人には、これ以上ないくらいぴったりと似合う。
綺麗で爽やかな笑顔を浮かべる、眉目秀麗の代名詞みたいな同級生。
そんな彼に想いをどうしても伝えたくて、呼び出した人気のない放課後は、西日の降り注ぐ体育館の裏側だった。

「どうしたの。俺に用って」

呼び出しておきながら、しばらくの間俯いたり顔を上げたりと忙しなく動くくせに黙りこくっていた私に、山崎くんが微笑する。
委員会が一緒と言うだけの間柄でしかないのに、急かさずに待っていてくれるその優しさに感激する反面、余計に口籠もってしまう自分がいて。
――情けない。
ふわりと笑う、たったそれだけの所作に、どうしてこんなに目を惹き付けられるんだろ。

「…え、と、あのね」
「うん?」

私からすれば、生まれて始めての告白。
緊張からか、浮遊感に足元がおぼつかない。
でも、今更引ける筈もなくて。
そろりと唇を一舐めして、覚悟を決める。

「あのね、私、山崎くんのこと…」

か細くなる声に比例して、縮こまる身体。
搾り出そうとする勇気は、ともすれば、しゃぼん玉みたいに霧散しそうなほど脆弱で頼りなくて。
情けなさに、涙まで浮かびそうになる。
じゃり、と山崎くんの履いた上履きの底で、砂が動く。
思わず、はっとして、顔を上げた。
はっきりとしない私の態度に苛立って、そのまま黙って立ち去ってしまうんじゃないか、とさえ思った。

けれど顔を上げた私を待っていたのは、真っ直ぐに視線を向けてくる山崎くんの涼しげな瞳で。
心臓がきゅっと縮こまって、それから不意を突いたように、どくん、と大きく鳴った。

あんなに繰り返した心の中のリハーサルは、本人を目の前にすれば何の役にも立たなくて、考えていた台詞の一行すら思い出せない。
漸く口から出てきたのは、好きななんだ、なんていう在り来たりな言葉でしかなかった。

「好きって。俺のこと?」
「う、うん」

わかりきった答えを問う相手に、はぐらかされてるんだろうか、という疑心暗鬼に陥る。
考え込むように僅かに顔を傾けて、伏せられる眼差し。
縁取る長い睫毛にさえ、見惚れてしまいそうになった。

覚悟は出来てる。
振られて当たり前だってわかってる。
同じ委員会だからって気を使っているのなら、そんな物は必要ない。
誰しもが彼に告白して、その度に涼しい顔で「ごめんね」なんて爽やかに言われるんだから、私なんか尚更だってちゃんと覚悟してる。

でもどうしても、言いたかった。
それが山崎くんには迷惑なだけって、わかっていても、知って欲しくて仕方なかった。
今までみたいに委員会の端からそっと見つめてるだけなんて、もう、無理なんだ。

大丈夫。
言えただけ、私って偉いと言ってやりたい。
ついでに頭も撫でてやりたい。
次から委員会がある度に気まずくなるかもしれないけど、でも大丈夫、委員会の終了まで後、半年もないしきっと――平気。

答えがわかっていても、それが山崎くんの口から直接言われると思えば、頭にまで響くような心音はちっとも静かにならなかった。

しばらくの居心地悪い無言の後、山崎くんが息を吸い込む。

息苦しい。
世界に二人だけになったように、他の音が遮断される。

聞こえるのは、自分の鼓動と。

相手の息遣いだけ。


――息が、止まりそう。



目を強く瞑り、異常な速さで鼓動する心音が聞こえていたらどうしよう、と今更のように思う。
ああ、もう、苦しいってば。
どうして、さっさと言ってくれないの。
――ごめんねって。

「山さ…」
「ふうん」


耐え切れなくなって名前を呼ぼうとした時、それを遮るようにして漏れたのは、山崎くんの満足そうな頷きだった。

「、ぇ…あ、の?」
「何?」

ゆっくりと持ち上げられる口角。
気付けばやたらと距離が縮まっていて、心臓が早鐘の如く鳴り響く。
そんなに背が高いわけでもないのに、やけに上から見下ろされているかのような威圧感。

作り上げられた笑みはいつもと同じように綺麗なものなのに、どこか違って見えるのはこんな近くで話したことがないせいだろうか。
端正な唇が、ほんの少しだけ歪んで。
…笑う。
ちがう。嗤って、る?

「あ、あの、」
「うん」
「…え?」

何を言われたのか分からなくて、私はきょとんと相手を見返した。

「それって、俺に付き合って欲しいって言ってるんだよね?」

先程の笑みはもうどこにも残っていなくて、いつもの見る柔らかな眼差しが私を捉える。
何か、話の方向がおかしな事になっているような気がする。

「違うの?」
首を傾げる相手に、慌てて否定をする為に顔を左右に強く振った。


「そう。良かった」

良かった?何が?
そう聞き返す間もなく、山崎くんはそのまま話し続けた。

「俺もね鈴川さんのこと、好きなんだ」

何でもない事のようにそう言って、もう一度微笑んで。
いつのまにか後ずさっていた私の背に当たる、ごつごつとして硬い壁の感触。
コンクリートの上に散った、砂粒の音が白い上靴の下で踊り、それはまるで私の今の状況を示しているようで、すぐに理解は出来なかった。


予想外の答えに、思わず固まる。
眩し過ぎる太陽の下、いつ倒れてもおかしくない暑さ。
でもこの混乱と動揺は、太陽より眩しい山崎くんの言動によるものだ。
頭の中で、もう一度反芻する。俺も鈴川さんのこと好きだから。
頭の中で反芻した台詞はそれでも理解が及ばなくて、依然として涼しげな顔をした相手を、ただただ見上げるしかなくって。
え、と。これって。どういうこと?

「大丈夫?」
「――だ、いじょうぶ…、ってあの、」
「じゃあよろしくね」

軽く上がる口元。
余裕満載の表情。
芝居がかったその台詞さえ、似合いすぎて怖くなる。

こんなに暑いのに、汗だって浮かぶことなく、涼風の中に立っているようにしか見えない相手。

「……嘘」
「嘘じゃなくて。それとも――もしかして、冗談だったの?」

零れ落ちそうな優美な笑顔が、ほんの少し悲しげに歪められ私を見つめる。

「そ…っ、そんなわけ、ない…っ」

「そっか。良かった、冗談だったら俺、泣くかもしれない」

どこまでも高いの空の下、放つ台詞とは裏腹に悪戯めいた笑みを浮かべた山崎くんが私の手を取る。

「よろしくね」

強く握り締められた手だけが、現実なんだと私に囁きかける。
「え、あ、う……はい」
「本当に大丈夫?」

何度目かのその台詞を口にして、目を細める片想い――だったはずの相手。

「う、うん」

夢見心地で握られた手の感触にぼうってしてる私に、更に距離を詰めてくる。

「あ、あの……っ」
「なに?」

近すぎて、貧血になってしまいそうだ。どうしようもなくて、ぎゅっと目を閉じる。
囁きが聞こえた瞬間、唇に柔らかな感触を感じた。

「――、」

長いように思ったそれは、離れれば一瞬。

「先に言っておくけど」
「…え…?」

頬に指が、するりと這う。
驚いて目を開けようとした私の顔に、山崎くんのきめ細かな掌が覆い被さる。

「俺、王子なんかじゃないから」
そう言って、山崎くんは、くすりと笑った。


2011年03月18日(金)



 too bad

焼き肉を食べたいと新が言い出したので、夜に再度待ち合わせて行くことを梓は「ん、んー」などのどちらともとれる返事で了承した。

「お前行ったことあんの」「一回だけな。高崎が一ヶ月でバイト辞めた店なんだけどな」「あいつ根性ないからな」「な。まあでも美味かったよ」「じゃあ行ってもいーよ」

味が良ければ何の問題も感じない梓は、そこがどれだけ狭く汚かったとしても全く気にはならない。

「安いの」「高くはなかったな」「お前の金銭感覚当てになんないからなー」「だいじょぶだって」

着いてみればまだ新しいビルの一階にあり、随分と洒落た店だ。高いか安いかと聞かれれば、間髪入れず高いと答えたくなるような店構えですらある。

「大丈夫ってホントに大丈夫なのかよこれ」「なにが」「高そうじゃん」「大丈夫だって」「お前のその自信の源はなんなの?」

立ち止まることなく新は中に入り、その後を梓が続く。もう少し身なりに構った格好をして来れば良かったかと梓は思ったが、若い店員に案内されて着いた席の周りには自分達とそう年代も変わらなさそうな客ばかりで気取った風は特にない。

「何する」「ビール。でハラミとカルビ」「最初はタン塩って決まってんだろ」「じゃあ何で聞いたんだよ」「ミノも食いたい」「聞けよお前」「アイスは?」「最後にしとけ」

新しい煙草の封を切りながら、新が「あ」と嫌そうな声を出す。「なんだよ」「なんでもねーよ」ぺり、と紙を剥がして煙草を引き寄せた新の最後の視線の先に見当をつけて振り返る。

「お前な、」たしなめるような新の声は無視して、椅子の背もたれに腕をかけた梓は自分達の斜め後ろのボックスにいた聖を見つけた。
「あ」「あー…」声を上げたのは聖のほうだ。なるほど振り向かなければ良かったなと梓が思った時には、聖と一緒にいた女も振り返っていてぱちりと梓と目が合う。誰?というようなことを聖に問いかけていることは離れててもわかって、梓は小さく舌打ちする。

「彼女。もうすぐ別れるけど」

聞こえるように大きな声で言ってから、体の向きを元に戻して梓は再びメニューを眺める。

「何する」
「いーの、あれ」
「いいんじゃないの」
「めっちゃ揉めてる」
「知るかよ」

は、と息を吐いて「ビール。ビール頼む。んで何だっけタン塩だっけ」「お前順応能力高いな」「普通だよ」「やっぱ牛タンはネギ塩タレにするわ」「お前の方が順応高いと思うわ」「いやいや俺は当事者じゃないから」

すみません、と通りかかった店員を捕まえて一通り頼むと、新は自分の目線の先に聖達がいることなど忘れたようにテーブルに肘をつく。

「もうすぐ別れんの」
しばらくして新がぽつんと呟いて、小さく笑う。それがとても揶揄するような笑い方だったので、眉をひそめた梓はテーブルに置かれたばかりのビールを飲んだ。

「妥当じゃん」
「そうか」

それでいいのかお前は、後悔しないなんて言えるのか。新がいつもより大きな声で、梓の後ろに向かって目を向ける。
梓には新が笑っているようにも怒っているようにも見えて、急にどうしたのかと目を大きくした。

新は一つ息を吸い込んで、
「後から俺に泣き付くくらいなら、もうどうしようもないような気持ちなんだと今ここにいる自分の女にちゃんと言え」

新の声はよく通る。しかしそれは梓な向けられていない。

中ジョッキを煽り、新が梓の後にむかって面倒そうな顔をする。その言動から梓は自分のすぐ後に誰かが立っているのも、それが誰なのかもわかってしまって動けないでいる。

「あず」

肩に置かれた手に、梓は救いを求めたわけではなかったが反射的に新を見た。

「…お前知ってて連れて来たんだろ」
「こうでもしないと会わないだろ。お前らもっとちゃんと話せ。で、俺を無駄に巻き込むな」

新は梓を見ないで、
「それまで俺はあっちで先に食ってるわ。ここはお前持ちでいいんだろ」

立ち上がった新は、さっきまで聖が座していた席にいつも通りの顔で腰を下ろし、ちょうど肉を運んで来た店員にこっちだと合図した。


2011年03月12日(土)



 I can't help it

最終巻の文庫本を読み終えて、たいした読後感もなくそろそろ寝ようかと電気を消したところで、玄関の甲高いチャイムが鳴った。
時計を見ると午前三時に差し掛かろうとしている。おそらく外は零下だ。コンクリート作りの玄関など、恐ろしい程の冷気に満ちているに違いない。梓は何も聞かなかった事にして、布団を被った。

再び、チャイムが鳴る。頭だけ起こして、小さく舌打ちをした。今度は間を置かずに二度三度と容赦なく鳴り続ける。それでも梓は起き上がろうとしなかったが、その内スチールの玄関扉を叩くか蹴るかのような音がし始め、警察でも呼ぶかと考えたところで手にした携帯が鳴った。



「最初から鳴らせよ携帯」

小さな鍋で牛乳を火にかけながら、梓は付けたばかりの炬燵に潜る新を振り返る。

「あんまり寒いから忘れてた。何でもいいけどコタツめちゃくちゃ冷たいな」
「今付けたばっかだから我慢しな。たくさぁ、どこの酔っぱらいが部屋間違ってんのかと思ったわ」
「物騒なとこに住んでんな、灰皿どこ」
「いやお前のことだから。灰皿が本棚にあるわけないだろどこ探してんだよ。じゃなくて、ない、ないわうちにそんなん」
「なんでないの」
「なんでって」

通りすがりの雑貨屋で昔に聖と買ったステンの灰皿は、先週の缶の日に捨てた。梓は煙草を呑まないので捨てたことで何も困らない。部屋の中に当たり前にありすぎる灰皿を、衝動的に捨ててしまったがその理由を問われても何と言っていいかわからない。
目に見える物からまず消したかったというのは何だか似合わない感傷に感じて、梓は何を言うことも出来ない。

口をつぐんだ梓を、新は静かに見る。黙ったままダウンのポケットから取り出したジョージア微糖とマルボロの緑を、テーブルに置いてあくまで寛ごうとしているようだった。

「何出してんだよ」
「缶コーヒー」
「……人がココア入れてやってんのにそれなくね?」
「灰皿ないんだろ」

プルタブを開ける固そうな音がする。新は何も言わず、何も聞かない。それは優しいからじゃなくて、面倒くさいからだろうと梓は思っている。

「だいたいお前、何しに来たんだよ。時間考えたらどんな急用でも明日にするだろ」
「あ?あー用事な。別になかったんだけどさあ。……まあ、ついで?」
「何のだよ」
「DVD返すの」
「死ね、マジで」

出来上がったココアをマグカップに注ぎ、新の隣に潜り込んでことりと置いてこれでもかと顔をしかめる。赤のベースに白で雪の結晶が描かれているこちらは、昨日大学の近くのカフェで買ったばかりの新品だ。

「狭い。なに、邪魔なんだけど」
「寒いんだよ」
「理由になんの、それ」
「なるだろそりゃ。人の安眠妨害しといて文句言ってんなよ」

梓は笑って先にココアに口を付け、やたらと甘かった飲み物に少し噎せる。
新は火を点けた煙草を吸い、おおそうかじゃあ仕方ねえなと煙を吐いている。そうしている内炬燵はすっかり暖まり眠たくなった梓は、新の肩にもたれ掛かり目を閉じた。

「眠いなら寝れば。お前明日一限から?」
「うん」
「出んの」
「そのつもりだけど行けるかなあ」

眠そうなまま梓は手を伸ばせばすぐに届くベッドから、柔らかな毛足の毛布を引き出して肩から被る。

「ここで寝んのかよ」
「いーじゃんか。ねぇハニー、あたし今夜は貴方から少しも離れたくないの。そうね、一センチもよ」

しがみつくように抱き付いて、いつもより高い声で囁いた声に、新はいつもは絶対しないような甘い顔で微笑んでから顔を近付けて囁き返す。

「エンジェル、それが本当に僕に告げる台詞なら例えようもない歓びだね」
「ばーか」

梓は笑い転げてカーペットに体を横たえ、新は無表情に戻って相変わらず煙草を吸っている。


部屋の空気は今だ冷えていて、静かだ。ココアは半透明の湯気を上らせ甘い香りをたてて、梓は同じことをずっと考えないようにしている。

隣にある体温は梓より温かい。いつも通り背中を丸くして煙を吐き出す横顔は数少ない友人達が言うようにとても整っている。黙ってむくりと起き上がると、再びくっついて距離をなくす。新はやはり何も言わず、梓に好きにさせている。
丁度良い位置にある肩が、梓の眠気をまた誘ってとても良い気持ちにさせる。ココアの甘い匂いが離れない。

「あたし、貴方と一緒ならギロチン台の上でも平気よ」
「可愛い子猫。奇遇だね、僕もそう言おうと思っていたところだ、断首台の上さえ君がいるのなら僕の天国さ」

煙草を吸い終えた新は少し冷めてしまったマグカップを両の手のひらで包むように持ち、やっぱり無表情でそう言った。

【END】

2011年03月04日(金)



 BETRAYER

新と梓はソファにくっついて座って、これ以上ないくらいリラックスした格好でテレビを見ている。
この間録画だけしていたロードショーは観ないままに一ヶ月程経ってしまっていて最早興味はなかったが、それでもせっかくなので観ることにした。劇場公開時に瞬きくらいの合間は話題に上った気がするような、タイトルだけはどこかで耳にしたことがある、という程度の洋画だ。


「純愛? 何を訴えたいのかよくわかんね」

「撃たれんだよこの後。裏切られんの。で、あの爽やかなイケメンキャリア刑事がさ実はマフィアと繋がってるやつでさ、全部自分の手柄にして昇進した上にヒロインかっさらって結婚しちゃって」

「そんなん金曜の夜によく放送したな。そんで主人公は」

見ているにも関わらずストーリーを勝手に話しだす梓に、慣れた顔をして特に嫌がることもなく新は先を促しながら欠伸をする。梓の説明だけでもう充分だというような顔さえしている。
新はほとんどの映画を、ただの画だと思っている。
作り上げた監督およびスタッフの力量をただ推し量るだけの、テスト映像だと思っている。
だから先にラストを告げられても嫌がらないし、不快な顔もしない。ただ、カット割や演出家の意向、その時の役者の心理状態など、制作面の裏方に話が及ぼうとすると怒る。そんな大雑把なのか緻密なのかよくわからないところも、非常に梓は気に入っている。

「マフィアに捕まって拷問受けたりしてさ監禁してたやつ殺して逃げ出すんだけど、もう頭おかしくなっちゃってるからさ。子供出来て幸せいっぱいのヒロインを銃で蜂の巣にしてジ、エンド」
「救えねー」
「なんかな」
「な」

画面の中では梓の言う通り、主人公が撃たれて今正に倒れる瞬間だった。刑事が皮肉げに唇の端を捻じ曲げる。静止画から一転、流れるような映し出すカメラワークは、次に主人公の真っ黒な瞳を大きく映す。そんな場面に不似合いにしか思えないピアノ曲がゆったりと流れ主人公がぼやけていく。

「裏切りって最低だよな」
「な」

シーツを分け合うようにして被っていた二人は、それほど最低だと思っていなさそうな顔で言い合って一頻り頷いた。

「お前は裏切んなよ」
「そっちだろ」
「いやお前だよ遅れてきやがるしな」
「まだ言ってんのかよ」

冗談か本気かわからないテンションで、新と梓はロードショーをくっついたまま、画面に見入いる。

見たことのない女が梓の彼氏と仲良さそうに腕を組んで、鈍った色をして寒いだけの空の下をこれ以上ないくらい幸せそうな顔をして歩いていたのを新は今日見掛けたが特に何も言わない。
梓は梓で時々自分の恋人が浮気していることを知っているが、特に腹立たしく思っていることもない。一番最初は衝撃は受けたが、それだけだった。人の心は変わるしな、とやけに達観した感想を持っているだけだ。
裏切るというのは、信頼を壊す行為だ。自分は聖を信頼していない。だから裏切られたとは思っていない。
ただそのレベルに達しなかったからと言って、何も思わないかと言えば話は別になる。

「あいつもさー、こうやって死ねばいーのに」

画面の中で酷い有様になっていく主人公を見ながら、梓は吐き捨てるように言う。

「あず」
「んー?」

「俺、お前はもっと内面さっぱりしてるかと思ってたわ」

ソファの肘掛に付いた頬杖に頭を預けたままだった新が、画面から一ミリも目を離さないで、心底意外だ、というような声で言った。

【END】

2011年03月03日(木)
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