蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 Dear vehicle

「聖はなんてゆうかさ、独占欲とか執着心とかさ、そういったものがないんだ」

新の部屋の冷蔵庫にあったポッキーを小さく齧りながら、梓はもはや定位置となるソファで細くしなやかな足を伸ばした。
白い肌はいつもより更に白く、暑い夏とは無縁に透き通り滑らかで艶がある。
部屋の南側にある大きな窓から覗く深緑の葉は、風に揺れることなくそれはまるで静止画のようでどこか作り物めいていた。かりかりとポッキーを噛み砕いた後、ファイブミニでそれを流し込んで梓は「喉がしゅわしゅわする」と小さな唇を尖らせた。

肌寒いくらい冷房の効いた、部屋の中だった。それでも更に暑さから逃れたいのか、床にべたりと寝転んでそれを見ていた新は「さっきから思ってたんだけど、その食い方うまいか」と生きる意味を模索でもしているかのような表情で尋ねた。
意味を測りかねて梓が首を傾けたが、新は自分の発言に何も付け足す気はないらしくけ怠げに息を吐いただけだった。

「このポッキーあんまおいしくない」
「文句言う割りには箱空いてる」
「だってお前、こーゆーの食べないじゃん何であんのか知らないけど。あぁでもホワイトロリータのほうがいい。あれめちゃくちゃ甘くて好き。どうせならそっち買っといてよ」
「……マユちゃんに言っとくわ」
「誰。マユちゃんて」
「あの冷蔵庫の食料補給部隊」

感情のこもらない声でそう告げた新が、モノクロばかりの部屋の中でやけに異彩を放つ赤い冷蔵庫を顎で差した。

「お前最低。気のある振りして女使ってんじゃねーよ」
「勝手に持ってくんの」
「それ、それさ、その内何か仕込まれるよきっと」
「まじか。こえーな。で、なんて? 彼氏が冷たいって?」
「冷たくねえよ」
「言ってたじゃねえかよ」
「ニュアンスで受け取るのはお前の悪い癖だよ」
「そう? じゃあなんて?」
「……もーいー」

カーテンを閉めない窓からは、ハレーションを起こしたような陽射しが床を照らす。その眩しさに目を細めた新が「いい天気だな」と呟いた。

「寝るなよ」

ポッキーを食べ終わった梓は眉を潜めて床に膝を付き、仰向けになって目を閉じた新の頭に触れてぺしぺしと白い額を叩く。

「何」
「寝んなってば」
「何で」
「起きてろよ寂しいだろ」
「知るかそんなん」

蝉の声が、遠くで聞こえる。週末になればひぐらしの鳴き声に移り変わって、暦は秋に差し掛かる。けれども秋に近付く心地好さはどこからも感じ取れることなく、エアコンの冷風だけが部屋の中を渦巻いてゆく。

唐突に、床に胡坐をかくように座っていた梓の携帯が鳴った。
それを緩慢な動きで取り出した梓は、ディスプレイに表示された名前を見て器用に片眉をあげて、何もなかったように元通りパーカーのポケットに直した。

「取れよ、うるせーから」

擦れた声で新が手を振って促したが、梓は眉を顰め難しい顔をしたまま首を横に振った。

「…そのうち止まるし」
「聖じゃないの」
「そうだけど」
「なら取れよ。冷たくなって寂しかったんだろお前。かかって来て良かったじゃん」

目を閉じたまま横を向いた新を視線で追って、梓は「そーじゃなくて」と小さく反論した。

白くなった部屋の中、携帯の音だけが鳴り響く。目を閉じたままの新は黙り込んで、梓も同じようにじっとしている内にぷつりと音が止んだ。


しばらくの間、しんとした空気が流れた後、梓がすんと鼻を鳴らした。

「……聖は、なんつーかさ、独占欲とか執着心とかさ、そういったもんがない」

途方に暮れたような声で言った。

「さっきも聞いたなそれ」

目を開けた新は寝転んだせいでいつもより高く感じる天井を見ながら、「今日のお前変だな」と体はそのままに目だけ向けた。

梓はそれには答えないで、上を向いたまま考え考え言葉を探しながら「聖は前からそうだったし、考えたら付き合い初めからそんなだった。ずっとあいつはそんなんで、ずっとそんなんが嫌だったなぁって思ってたんだけど」

「おお」
「思ってたんだけどさ」

もう一度そう言って黙ってしまった梓を訝しがるように、新は上半身だけを起こして振り返った。

「さっきから思ってたんだけどな」
「うん」
「何で過去形で話すの」

そう言われた梓はこれ以上ないというくらい困った顔をして、先程の新のように何もない天井を見上げた。

「だってさ。今は思わないの。だから過去形になんの」
「なにが」
「嫌だなあとか。全然思わないんだ、もう、どれくらいかなどれくらいかわからないくらい思わないんだよ。聖が何も言わなくて寂しいだとか悲しいだとかそんなん全部、なんにも思わなくなったんだよ。慣れたのかなとか思ったけど、でもやっぱ変だなあとか何でかなあとか。…思って」

長い睫毛を伏せて、梓は泣き笑いのような表情を作った。梓を女だと意識したことはなかったが、泣かれたら困るなと考えながら新は「そんで」と先を促した。

「そんで」

梓はオウムのように繰り返してから、
「ずっと考えてたんだよずーっと。でもわかんなかった。わかんなくてわかんなくて、でもな、わかったんだ」
「へえ」
「バカにしてるだろお前。いいよされたって、すればいいよ勝手にさ」
「何キレてんだよ。よかったじゃんわかったんだろ」
「よくない」

梓は今にも泣くかと思えたが、唇を強く噛んでそれを堪え「ちっともよくない。だって、わかったらもっと悲しくなった」と言って鼻を啜った。

【END】

**********
どうして好きという気持ちは続かないんだろう。


2011年02月19日(土)



 出会うは別れのはじまり

――逃げなきゃ。

少女は反射的にそう思う。街に清掃車が来たからだ。
運転車両部分から連結した荷台になる後輪部は、全て強固な金網のような物で覆われて、見るからに檻のようだ。
護送車という名称がしっくりする。

逃げないと。

少女は再び思う。危険回避能力に近く、動物的本能だった。
路地を走りぬけようとした少女の腕を、だがいとも簡単に乱暴に掴む容赦のない手に、彼女は悲鳴を上げる。


「い、たいっ」

骨までもがぎしぎし鳴る容赦ない力に、少女は泣き、叫ぶ。
しかしそれはうまくいかなかったようで、猫が尻尾を踏まれた時に出す声のように、獣めいた掠れた悲鳴になってしまう。

少女の腕を掴みあげたのは、緑色の薄汚れた作業服に身を包む清掃夫だ。少女は知ってる限りの罵声を浴びせるが、何の反応もない。
深く被った帽子は清掃夫の顔を、すっかり隠してしまってる。
街の清掃という名目で浮浪児を狩り出すこの屈強な大男達を、子供達は畏怖と軽蔑を込めて『清掃夫』と呼んだ。

「は――離してよ、離せっ」

肩を掴む男の指は少女の薄い皮膚と骨に強く食い込んで、そのまま軽々と身体を片手で持ち上げ、少女は更に暴れた。
振り回す唯一自由だった片腕が清掃夫の頭を掠め、深く被っていた帽子が飛ぶ。
作業着と同色の緑色の帽子が、荒れた地面に落ちた。

清掃夫は無言で少女を見る。感情の色のない、無機質な目に、少女は怯えたように小さな唇を震わせた。

「……っ」

掴む力が更に強くなる。慢性的な栄養失調のせいか、十四歳になるというのに少女の身体は他の子供達よりもずっと小さくて軽い。
そしてその分、いつだって先に目を付けられるのだ。
いつもならその小ささを身軽に利用して裏道から逃げ切るのに、今日はその裏道全部が見事に清掃夫に封鎖されてしまっている。

腐った匂い、砂埃がたつ路地、生気のない住人達がうろつく貧民街に、少女は生まれ育った。
ここ以外にどんな暮らしがあるのかは知らないが、貧困と死臭の漂う街の片隅の路地裏での生活は、雨の日を除けばそう悪いものではないと思っている。

偶に迷い込む旅人の金品を掠め取る事は少女のような子供には簡単ではなかったが、身体を売って酷い目に合わなければ飢えも凌げない他の子供に比べれば、随分上等な身分だとも思っている。

自治からすればこの貧民街にたむろする人間は、どれも同じでどれも汚い。洗っても落ちない黴のような存在だと、政府は声高々に否定し根絶を声明したのが建国記念日だったのだから皮肉なものだと誰もが思い誰もが絶望した。
富裕層に溢れる生と未来を。貧民達には死を。

清掃車の中は泣き叫ぶ子供達で溢れていて、少女もその中の一人になるのは時間の問題で、最早変えようもない未来に思えた。
その中に放り込まれた人間がどうなるかなどと、誰も知らない。帰ってくる人間が一人もいないからだ。

「あー、ちょ、ちょっと待って。ねえその子、いくらかな」

古臭いイーゼル車の壊れかけたエンジン音の中、どこか楽しそうなその声が、少女の耳に届く。
どうやら清掃夫に声を掛けたらしいが、そんなことをする人間はここでは初めてで、非常に異質だった。

少女が声の主のほうに首だけ曲げて見ると、皺一つない黒のスーツを着た若い男が穏やかに笑って立っている。ここでは見ない、本当に穏やかな笑顔だ。
ひょろりと背が高く、とても仕立ての良い上等な細身のスーツを着込んだ男は、目にかかる長い前髪を鬱陶しそうにもせずに、にこにこと笑っている。

「いくら出せば、譲ってくれるの。その子」

ひたすらに仕事に従順な清掃夫を罵倒するものはいても、話しかける人間など少女は初めて見る。
二十歳そこそこ――もしかしたらもう少し若いかもしれない男はラムスキンの手袋に包んだ手に指紋一つない金色のカードをかざして、もう一度ゆっくりと笑顔を作って、少女を指差した。

「え…? わ…っ」

金色のカードが沈みかけた夕日に浴びるのを状況も忘れて見惚れていた少女は、唐突に投げ出された我が身に喉から声を振り絞る。
逆さまに落ちようか、と思えた少女の小さく痩せ細った身体は、男によってあっさりと抱きとめられた。

「了解しました」

ぴくりとも何も示さない表情と同じ、無機質な声で清掃夫が頷く。喋れるのだ。
男の腕の中に留まった少女が初めて正面から視界に置いた清掃夫は、作り物のマネキンのように顔に何の特徴もない代わりに、顎の下、隆起する喉仏にある刻印が清掃夫の異質さを際立たせている。
見れば機械のようにぴたりと止まったままのもう一人の清掃夫にも、同じ刻印がある。

『CR035』

声に出さず少女が読み上げた読んだ数字は何の意味を成すのかはわからなかったが、もしかしたらこの清掃夫の名前なのではないかと残る肩の痛みを感じながら少女は考える。
肌の上に張り付いた黒い記号を見上げる少女を、清掃夫はもう見ない。

「…行くぞ」

散らばっていた清掃夫達は、捕まえた浮浪児達を各々に引きずって清掃車の前に集まり出す。
檻に閉じ込められた子供達が、騒ぎ立てる。
出せ、出してくれ、助けて、なんて後はもう意味も分からない言葉が、檻の中から渦みたいに発せられる。
牢獄みたいな金網から細く枯れ木のような薄汚れた腕が何本も出て、断末魔のように空を掴む。

パレードのようだ。少女は震えながら、頭を抱えた。パレードのようだ。聖者の行進が大歓声の中、行われる。
知らず、少女は溢れる涙もそのままにがたがたと震える。

派手な銃声が、耳をつんざいた。

「ぎゃっ」

叫び声。ついで呻く声にそちらを見れば、金網から出していた腕が地面に落ちている。もう用を成さない、それはまさに枯れ木だった。

「行くぞ」

清掃夫はもう一度そう言って、車に乗り込んだ。
もう檻の中は静かだ。
砂埃と一緒に、子供達を乗せた清掃車が走り出す。パレードが終わる。

「な――、なんで、」

残された男と少女は、しばらく黙ってそのままでいたが、我に返ったように少女が、男を見上げる。
綺麗な身形のおそらく相当な金持ちであろう男は、少女が今まで見た人間の中で一等美しい顔形をしていた。


「なんで、なに、あんた、なんなの?」
「何って、まるで僕が人間じゃないみたいだ」

唇から覗く歯は、尖っている。仮設収容所にいたシドニーが教えてくれた、バンパイアの話を思い出した。シドニーはその話をした数日後に奴隷として買われて行ってもうどこにもいないが、その話は長く少女を怖がらせた。

僕が買ったんだよ君を、と男が囁く。
買う。買われた。少女は怯えたように男を見た。シドニーは買われた老人に酷いことをたくさんされて、最後は生ゴミのように打ち棄てられた。

「怖がらなくていいよ、僕は君に奴隷にしようと思って買ったわけじゃない」

男は少女の身体を下におろし、そうして薄く笑みを浮かべる。そうすると男はとても気品があって、王子のようだった。

「じゃあなんで、って顔をしてるね。なんてことはない、エゴイズムだと思えばいい。僕は自分本位なんだ、君を買った金なんか大した金額じゃないと思っているし、そうすることで君があの低脳な掃除屋に連れて行かれなくて安堵してくれることに自己満足を覚える」

少女の瞳から困惑と恐怖が薄らいでいくのと同時に、少女は疑心に満ちた目で男を見る。
少なくとも少女には、人一人の値段は払えない。
それが新しい車を買うよりずっと安いものであったとしても、一生かかっても手にすることの出来ない大金だ。

男はしばらく確かめるように少女の顔を見ていたが、ふ、と笑みを零すと両手に嵌めていたラムスキンの手袋を外した。
先程までとは違う、少し意地の悪い笑みに、少女は僅かに身動ぎする。

「そんな都合の良い人間なんかいる筈もないって顔をしてるね。君は親なしの浮浪児で生きていて何の価値があるのかは知らないけれど、おそらく頭は悪くない。顔つきも悪くない。僕は気まぐれだよ、エゴイズムだって言ったろ?」

男の両手は生皮を剥いだような酷い色をしていて、美しい顔とは対照的に醜悪だ。

「僕が買ったのは、自分のエゴを満足させるための手足さ」

そう言って、男は先程のように穏やかに、とても穏やかに笑った。


2011年02月11日(金)
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