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■ アクアリウム7
低く告げられた声は、小さく、でもしっかりと聞こえた。そう思う間もなく、知らない匂いがあたしを包む。 背中に当たる温もりが、簡単に自由を奪った。 目の前の澤村の妻が、驚いたようにあたしを見て、それからあたしの背後を見た。
「長谷川さんの、知り合い、……?」
背後の人間に向けられた台詞に釣られたように振り向いて、拘束するようにあたしの手首を掴んだ相手を見上げた。 澤村よりも低い目線。澤村よりも甘い匂い。澤村よりもずっと華奢な身体。 名前は知らない。けれど。 何か、言おうと思った。何か言わなくちゃならないとも思った。でもあたしの唇から出るのは、情けないくらい嗚咽ばかりで上手く言葉にならなかった。
「そー知り合い。ただの顔見知りって言えばいいのかなぁ」
一気に吐き出された声はどこか面白がっているようで、この場には酷く不似合いだった。
「それ。俺が受け取っておこーか」
「…え?」
「ほら。彼女、今こんなんなっちゃってるし。いつまでもこんなことしてるくらい暇じゃないんでしょ?」
あたしを素通りして交わされる言葉。でも、あたしについて交わされる言葉。捕まえられた腕が痛いくらい、強く握られる。 口を挟もうとは思わなかった。 ――もう、どうでもいいから。
「…でも、」
逡巡する声に目線だけあげれば、澤村の妻は困ったようにこちらを見ていて、それは明らかに答えを求めていたけれど、どうでも良いとあたしは思った。今あたしの腕を掴む男が受け取ろうと、澤村の妻が持ち帰ろうと。そんなお金に、これぽっちも興味なんてない。
「長谷川さん。…澤村はもう、ここへは来ないわ」
終わりにしようとは思わなかった。 終わりにしたいとも思わなかった。 けれど、望まない終わりは唐突に強引にやって来て、あたしに終演の烙印を押した。
静かな部屋に、水槽を循環させるモーター音だけが響く。 暗い室内で、水槽だけがぼんやりとした明かりを灯していた。ベッドの脇に寄り掛かるように座り、その光景を眺める。部屋は静かだった。
「そんなに好きなの」
同じように水槽を眺める人影が、ぽつりと言った。 何でここにいるんだっけ。何で部屋に入れたんだっけ。 昨夜会ったばかりの男が現われたところまでは覚えてる。 だけど、その後がやけにぼんやりとして曖昧だった。
澤村の妻はいつ帰ったんだったっけ。それともまだ帰ってなくて、どこかにいるのだろうか。 痛む目を擦り、瞬きした。どうしてこんなに目が痛いんだったっけ。
「…わかんない」
わからない。どれだけ好きかなんて。
「ふうん」
最初から答えなんて期待していなかったのか、相手はこちらを見ることもなくそれきり何も言わなかった。
「…どうして、いたの?」
少し長めの後ろ髪を見つめながら問えば、しばらく無言が続いてから「おれ?」なんて気の抜けた声が返ってきた。他に何を問うたと言うのか、と非難を込めて「そう」と答えれば微かな笑い声と。
「秘密」 「…なんなの、それ」
さらりと言ってくれる相手を一睨みした。けれどこちらを見てもいない相手には、伝わりようもないだろう。諦めてその薄い背中からテーブルへと視線を移せば、見覚えのある封筒が目に入る。
結局、澤村の妻はこの男にお金を預けて、帰って行った。最後まで返事をしないあたしを、聞き分けのない子供をあやすように穏やかさで。
『澤村はもう、ここへは来ないわ』
そうすることで、あたしの中にやるせなさが増すことを見越していたかのように。
折った膝に顔を埋める。涙はもう出てこなくて、それが尚更悲しかった。
「また泣いてるの」
「…泣いてない」
顔を上げないままにそれだけ言えば、衣擦れの音に相手が立ち上がったのがわかった。
帰るのだろうか。そんな感情を抱く相手じゃないのに。何の関係もない相手なのに。
それなのに出て行ってしまうのかもしれない、と思えば、どうしていいかわからない寂寥感が込み上げた。人恋しい、っていうのは、こういう気分だろうきっと。
「俺ねえ、もーすぐバイトなんだけど」
けれど、気配は玄関へとは向かわずに、あたしの傍へと寄った。
誠意の欠片もない声が、降って。力強くも優しさもない指が、顎を掴んで上を向かせたかと思えば、
「慰めてあげよーか」
「…っ」
聞いてきたくせに最初から返事を待つ気がないのか、寄せられた顔は止まることがなかった。
2009年04月05日(日)
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