蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム7

低く告げられた声は、小さく、でもしっかりと聞こえた。そう思う間もなく、知らない匂いがあたしを包む。
背中に当たる温もりが、簡単に自由を奪った。
目の前の澤村の妻が、驚いたようにあたしを見て、それからあたしの背後を見た。

「長谷川さんの、知り合い、……?」

背後の人間に向けられた台詞に釣られたように振り向いて、拘束するようにあたしの手首を掴んだ相手を見上げた。
澤村よりも低い目線。澤村よりも甘い匂い。澤村よりもずっと華奢な身体。
名前は知らない。けれど。
何か、言おうと思った。何か言わなくちゃならないとも思った。でもあたしの唇から出るのは、情けないくらい嗚咽ばかりで上手く言葉にならなかった。

「そー知り合い。ただの顔見知りって言えばいいのかなぁ」

一気に吐き出された声はどこか面白がっているようで、この場には酷く不似合いだった。

「それ。俺が受け取っておこーか」

「…え?」

「ほら。彼女、今こんなんなっちゃってるし。いつまでもこんなことしてるくらい暇じゃないんでしょ?」

あたしを素通りして交わされる言葉。でも、あたしについて交わされる言葉。捕まえられた腕が痛いくらい、強く握られる。
口を挟もうとは思わなかった。
――もう、どうでもいいから。

「…でも、」

逡巡する声に目線だけあげれば、澤村の妻は困ったようにこちらを見ていて、それは明らかに答えを求めていたけれど、どうでも良いとあたしは思った。今あたしの腕を掴む男が受け取ろうと、澤村の妻が持ち帰ろうと。そんなお金に、これぽっちも興味なんてない。

「長谷川さん。…澤村はもう、ここへは来ないわ」




終わりにしようとは思わなかった。
終わりにしたいとも思わなかった。
けれど、望まない終わりは唐突に強引にやって来て、あたしに終演の烙印を押した。

静かな部屋に、水槽を循環させるモーター音だけが響く。
暗い室内で、水槽だけがぼんやりとした明かりを灯していた。ベッドの脇に寄り掛かるように座り、その光景を眺める。部屋は静かだった。

「そんなに好きなの」

同じように水槽を眺める人影が、ぽつりと言った。
何でここにいるんだっけ。何で部屋に入れたんだっけ。
昨夜会ったばかりの男が現われたところまでは覚えてる。
だけど、その後がやけにぼんやりとして曖昧だった。

澤村の妻はいつ帰ったんだったっけ。それともまだ帰ってなくて、どこかにいるのだろうか。
痛む目を擦り、瞬きした。どうしてこんなに目が痛いんだったっけ。

「…わかんない」

わからない。どれだけ好きかなんて。

「ふうん」

最初から答えなんて期待していなかったのか、相手はこちらを見ることもなくそれきり何も言わなかった。

「…どうして、いたの?」

少し長めの後ろ髪を見つめながら問えば、しばらく無言が続いてから「おれ?」なんて気の抜けた声が返ってきた。他に何を問うたと言うのか、と非難を込めて「そう」と答えれば微かな笑い声と。

「秘密」
「…なんなの、それ」

さらりと言ってくれる相手を一睨みした。けれどこちらを見てもいない相手には、伝わりようもないだろう。諦めてその薄い背中からテーブルへと視線を移せば、見覚えのある封筒が目に入る。

結局、澤村の妻はこの男にお金を預けて、帰って行った。最後まで返事をしないあたしを、聞き分けのない子供をあやすように穏やかさで。

『澤村はもう、ここへは来ないわ』

そうすることで、あたしの中にやるせなさが増すことを見越していたかのように。

折った膝に顔を埋める。涙はもう出てこなくて、それが尚更悲しかった。

「また泣いてるの」

「…泣いてない」

顔を上げないままにそれだけ言えば、衣擦れの音に相手が立ち上がったのがわかった。

帰るのだろうか。そんな感情を抱く相手じゃないのに。何の関係もない相手なのに。

それなのに出て行ってしまうのかもしれない、と思えば、どうしていいかわからない寂寥感が込み上げた。人恋しい、っていうのは、こういう気分だろうきっと。

「俺ねえ、もーすぐバイトなんだけど」

けれど、気配は玄関へとは向かわずに、あたしの傍へと寄った。

誠意の欠片もない声が、降って。力強くも優しさもない指が、顎を掴んで上を向かせたかと思えば、

「慰めてあげよーか」

「…っ」

聞いてきたくせに最初から返事を待つ気がないのか、寄せられた顔は止まることがなかった。


2009年04月05日(日)
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