蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム8

首筋に埋まるように降りた唇から漏れる吐息に、無意識に身を捩る。不快や拒絶より先に体を動かした感情は、当惑だった。
会ったばかりの男が肌に触れる。その行為は困惑以外の何物でもなくて、息が止まりそうだった。

「逃げないで」

戸惑うあたしのことを置き去りにしたように、腰に腕が回された。細い作りのそれはとてもしなやかで豹のような獣を想像させたけれど、澤村が感じさせるような獰猛さは欠片もなかった。

慰める。
その台詞がぐるぐると渦巻く。
慰める。誰が。誰を。なんのために。
どうしていいかわからない、なんて情けないけれど、自然に強ばる体と僅かに震える指先。胸元の肌に軽く当たる歯にびくりと揺れた瞬間、

「……っ」

男は顔を伏せて、あたしから少しだけ離れた。唐突なそれにまじまじと相手を見返せば、肩を小刻みに揺らす姿が目に入った。

上げられたあまり色素有さない瞳が、すぐ近くであたしを見て細められる。不規則に揺すぶる体に、笑ってるのだ、と気付けば唐突に頬が熱くなった。

「そんな困った顔してさ、おかしーね」

三日月形に弧を描く目の色には、情欲の欠片も見当たらなくて、あたしは更に戸惑う。

「だったら。やめて欲しいって言いなよ。いやだって、さわるなってそう言いなよ」

初めて聞く低い声音に肌が粟立つ。
薄く刻まれる笑みに、揺れるのは心なのか体なのか。

澤村はいつだって、雄の本能を振りかざすような眼差しで見た。悦楽を生み出すための体を差し出せば、喜んで手を伸ばした。そこに躊躇なんて存在しなかった。

たった一年。
でも澤村という男はあたしの中に深く深く入り込んで、彼が見せる雄の欲望と我欲に慣れきってしまっていて。

「…からかった、の?」

誰かに抗うという、こういう距離を取り方なんて。

「まさか」

あたしは忘れてしまったらしい。

「じゃあ。何なの? 何がしたいの」

気付けば耳の後ろ側に、掌の感触があった。落ちる囁きは笑い声だけで、意味を為さなかった。「なぁんかさ。ね」あたしの問いなんて聞こえなかったように、男は艶然と微笑んだ。

「なんかこう。あれだね。思ったよりかたいってゆーか、」

しん、とした部屋。青い透明の灯りを漏らす水槽以外、どこからも何の音もたてられることはなくて、世界がここだけになってしまったような孤独感が浮かび上がる。

「不器用ってゆーか、」

紡がれる言葉と、普段なら生活音にかき消される聞き慣れたモーター音だけが今のあたしのすべて。

「思ったより、脆いんだね」

「――あたしのこと言ってるの?」

「他にだれかいるの?」

悪戯めいた形ばかりの笑い方。
掌が滑るようにして頭上にあがり、下へと落ちる。

「壊れちゃうね、そんなんじゃ。壊れちゃう。跡形なくさ」

緩慢につまらなさそうに。でも止まることのない掌は、あたしの頭を撫でた。何度も、何度も。

視線を合わせたまま会話さえなく、時間だけが過ぎていく。色味の薄い両の目だけが、憐れみに近い色を浮かべてあたしを見ていた。常人よりも随分と色素を有さない瞳と肌。初めて見た夜も人目を引く容姿をしていると思ったけれど。病的というよりは、純粋な日本人ではないのかもしれない。

決して髪を乱すことなく、何度も繰り返されるうち、すっかりけだるくなった唇を動かす。

「…なんのつもりか、わからないわ」

声は枯れてしまっていたけれど、困惑の色は伝わったらしく相手は眉をひくりと動かした。

「慰めてあげよーかって。ゆったじゃん」

張り付いた笑みはとても綺麗で見惚れる価値はあるけれど、唇から漏れる言葉は相反して子供染みてる。

「なんのために、」

あたしなんか慰めたって、何の利益があるの。

「だって。あの時のお返しー」

「おか、えし?」

「そうお返し。俺、こういうの、ちゃんと返すんだよ。うん、返すんだ」


遮る言葉は不可解で、あたしは首を傾けて凝視する。でも返されるのはよくわからない笑みだけで、たいした意味はないのかもしれなかった。

「…お金のこと、言ってるの?」

テーブルの上に置かれた封筒はまだそのままで、確かめたわけではなかったし何の興味もなかったけれど、その厚みは澤村の妻が出したそのままの体裁を保っているように見えた。
いらない、と答えた気持ちは今も変わらない。あたしはお金が欲しくて澤村の傍にいたわけじゃない。ましてや彼にお金があるのかどうかさえ、考えたことすらない。

「欲しいなら、あげるわ。そのまま、持って帰ってくれたらいい」

目に入るだけで、体中が、胸が、頭が、ずきずきする。吐き気がする。あんなものは、いらない。いらない。捨ててしまってもいいのだ。

テーブルに投げやりな視線をやってから振り返れば、相手は何を言われたのかわからないとでも言うように、立てた膝を抱き寄せて溜め息を吐いた。
それから頭をぐるりと回して、酷くつまらなさそうな顔をした。

「まあ、いいか。いいよね、いいや」

誰に向かってか掌をひらひらと振って、同じようなことを繰り返して、今気付いたかのように部屋にかかる唯一を見やった。なにがいいの、と口を挟む隙も与えず、相手が唐突に立ち上がった。

「あぁもうこんな時間だ」

「え、」

「じゃあね」

踵を返し玄関へと向かう薄い背中。冷たいフローリングに手を付いたまま、あたしはその光景を眺める。帰るのだ、と認識しても立ち上がれなかった。
あまりにも急すぎて、でもどうしていいかわからなくて。
靴を履いて振り返る、色の薄い瞳が、僅かに細められてあたしを見る。傾げる小首の白さに目を奪われれば、男は少しだけ笑ってドアノブに手をかけた。

「、」

ドアが閉まる。閉まりきる最後の瞬間まで、全ての動きがスローモーションのようだった。別れの言葉は何もなかった。最後に見えた唇が、何かを紡ぐように動いて、でもそれは音になってあたしに届くことはなかった。別れを告げる言葉だったのかもしれない。
薄暗い部屋には、微かなモーター音と、あたしの息遣いだけが、聞こえていた。






目を開ける。昨日の寝起きが嘘のように、自然に開いた目を何度も瞬きした。開かれたままのカーテンから零れ落ちる光は、柔らかさと冷たさを綯い交ぜにしたように靄がかって見えた。

しばらくベッドの上でぼんやりと過ごしてから、いつのまにかベッドの上で寝ていた自分に苦笑する。あれだけ胸を潰されるような思いをしても、眠るときはきちんと眠るのだ。固く冷たい床ではなく、柔らかく居心地のよいベッドの上で。澤村の匂いのまだ残る、ベッドの上で。

どんなに苦しくても、お腹が空けば食べなきゃならないし、いつかは眠らなければならない。それはあたしという人間がどうあろうと関係なく、容赦なく時間は経過するということで。当たり前のそのことが、どうしようもなく無気力にさせる。

喉が痛い。頭も痛いままで、鏡は見ていないけれど、あれだけ泣いたのだ。さぞかし酷い顔をしていることだろう。見る気すら失せるくらいに。

無意識にテレビを付ける。その時に初めてもう昼なのだと知った。
定時のニュースが流れ始める。淡々と悲惨な交通事故の記事を読み上げるニュースキャスターの顔は、どこか嬉々として見えた。

『…次のニュースです。今朝…区の……澤村智子さん…』

椅子に座って自分の爪を眺めていたあたしの耳に、その名前が飛び込んで来たのは、部屋の電話が鳴ったのとほぼ同時だった。
同姓同名の女の名前に、思わず立ち上がる。別に彼女――澤村の妻のことではないことはわかっていたけれど、昨日聞いたばかりの名前はあたしの中に色濃く残っていた。

電話が鳴り続けていたけれど、それはどこか遠くのように感じて、あたしは立ったままテレビを見つめていた。

『午前6時頃、路上で何者かに刺され病院に運ばれましたが、死亡が確認されました。なお澤村さんは…議員、松川宗之氏の長女でその秘書である澤村一志さんを夫に持ち…』

電話が鳴っている。死亡が確認されました。澤村智子。澤村一志。ニュースの内容は途中から耳に入らなくなった。電話が鳴っている。切れる気配さえなく。

体中が冷たくなった気がした。

2009年05月16日(土)
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