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■ アクアリウム6
女の人は困ったように、けれどきっぱりとそう言った。 息をするのも掴まれた腕を振り払うのも忘れて、相手を見返した。 体の中心を熱く嫌な物が通り抜け、それから。
「さわ、むら…さん…」
澤村を主人と呼べるのは、この世にたった一人だけだ。目の前の女の人は確かにそう呼んだ。僅かに唇を開いたまま口籠もったあたしに、女の人は少しだけ頷いた。
「遅れてごめんなさいね、私、澤村――智子です。澤村の妻、と言ったほうがわかりやすいのかしら」
澤村の妻があたしという存在に気付いてやってくる――澤村自身に隠す気があるのかどうかも怪しい――、ということは予測できないはずはなかったのに、相反してこんな日はずっと来ないと何処かで思ってた。 それでも、もしも澤村の妻があたしのところへ来るようなことがあったら、 鼻先で笑ってやろうと思っていた。
愛されてない形だけの妻。澤村に息苦しさを与えるだけの家庭。そんなものを作りあげた女なんて、何も怖くないはずだった。 それなのに。
――どうして、そんな幸せに溢れたような顔をしているの?
あたしはどうして、こんなに苦しいの?
『由理といると、楽なんだ』
わかっていた、はずなのに。 彼女はあたしが澤村に与えられなかったもの全てを、与えられた存在。 眼差しから、立ち姿から、話しかける声さえ。 幸福と安らぎに満ち溢れている。
その事が、まざまざと見せ付けられた気がした。
あたしが持っているものは何? 彼女が、持っているものは何?
浅く、息を吸い込んだ。駄目だこれじゃあ、酸素が、足りない。
「何の、ご用ですか…」
言って笑いたくなった。彼女があたしに用事が言えば、一つしかないじゃないか。
「主人と、別れて欲しいの」
凛とした響きだった。同時に、あたしの視線は地面に落ちる。 昨日と同じ、面白みのないコンクリートのタイルを。
「ね、長谷川さん。 こんな遊びはやめたほうがいいわ、あなたは若いんだから。勿論、私だって事を荒立てるつもりはないの。実際今までは大目に見てきたわ。でも、これからの主人は大事な立場で――不必要なスキャンダルは困るのよ」
スキャンダル。身近ではなさすぎる言葉があまりにもぴんと来なくて、あたしは何の反応も出来ずにいた。 だって、あたしは澤村の職業さえ知らないのだ。澤村はあたしに囁くのは当たり障りのない話と、その場限りの愛でしかない。
澤村の妻は相変わらず静かに微笑んだまま、あたしの腕を離した。 何もかもわかっているかのように、性急過ぎた話に後悔の色さえ浮かんでいた。
「あなたは知らないかもしれないけれど――澤村はね、来年には政界に打って出ることが決まってるの。今までは私の父の秘書という立場だったわ。そうだったからこそ、ある程度の遊びは許してきたのだけれど」
何度か瞬きして、それから涼しげな眼差しがあたしを射抜く。 強くはない。熱くもない。淡々と。そう、ただ淡々と紡がれる言葉。 彼女を熱くさせるだけの欠片さえ、あたしは持っていやしない。
「これからはそうはいかないの」
先程手にした封筒が押し付けるように、差出される。
「手切金とでも言えばいいのかしら」
よく通る声が耳を通り、胸の中に落ちた。 手切金。澤村と切るための、お金。切られるための、お金。なんて、薄い繋がり。
「……そんなもの、いらない、です」
首を、喉を、強く締め上げるのは、澤村なのか目の前の人なのか。それとも、あたし自身?
「受け取って欲しいの。あなたにはきっと、澤村が色々迷惑かけたと思うから」
目の前の封筒の厚みは、あたしの価値?
「どうして…」
そう口にするのが、精一杯でそれ以外の台詞は、自分の中に見つかりそうもなかった。 憐れむような視線。 そうだ、この人は、あたしを可哀想だと思っている。 何もかもわかっているのだと、知っているのだと。その上で、会いに来たのだと。 責めるような響きは何処にもなくて、それが返ってあたしを惨めにさせた。いっそ罵られたほうが、自分に価値を見いだせたかもしれないのに。
「お願い。長谷川さん、聞いて。澤村と一緒にいたって、幸せになれないことはあなたもわかっているでしょう? だって澤村はあなたを――」
思わず耳を塞いだ。聞きたくなんか、ない。
「…あなたを、愛してるわけじゃないわ」
そう、澤村は、あたしを愛してない。愛してなんかいない。 ただの遊び。気紛れ。 だから憐れまれたあたしは、本当なら責める立場にある筈の澤村の妻に施しを受けるようにしてお金を渡される?
頭が、痛い。 本当はわかってる。本当は知ってる。でも、必死に知らない振りをしてきた。知ってしまえば、終わってしまうから。
「お願い、受け取って頂戴」
澤村の妻が繰り返す。 住宅街の真ん中は、人通りが少ないわけじゃなく、今も通りかかる人が、あたしをちらちらと見る。あたしだけを。
「……っ、いらないって、言ってるでしょう…っ」
言って初めて、自分の声が震えていることに気付いた。 あたしは今、どんな顔をしているのだろう。体中の力が抜けていくようだった。立っていられない。 視界が滲んで、頭の中までぼやけていく。 どうしようもなくて、両手で顔を覆った。
「長谷川さん?」
驚いたような澤村の妻の声。 まるで最後通牒のように、彼女の声があたしを支配する。澤村はあたしを愛してない。 たった一つだけの、真実。
「もう、…やだ」
酷く息苦しくて、体から力が抜けていくようだった。 立っていられない。酸素が足りない。かすれた自分の声が、遠い。 もう嫌だ。もう一度そう呟いた途端、不意に横から伸びた腕があたしの体を抱き締めるように巻き付いて。
「嫌ならやめちゃえば?」
吐き捨てるような声が、耳元でした。
2009年03月29日(日)
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