蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム6

女の人は困ったように、けれどきっぱりとそう言った。
息をするのも掴まれた腕を振り払うのも忘れて、相手を見返した。
体の中心を熱く嫌な物が通り抜け、それから。

「さわ、むら…さん…」

澤村を主人と呼べるのは、この世にたった一人だけだ。目の前の女の人は確かにそう呼んだ。僅かに唇を開いたまま口籠もったあたしに、女の人は少しだけ頷いた。

「遅れてごめんなさいね、私、澤村――智子です。澤村の妻、と言ったほうがわかりやすいのかしら」

澤村の妻があたしという存在に気付いてやってくる――澤村自身に隠す気があるのかどうかも怪しい――、ということは予測できないはずはなかったのに、相反してこんな日はずっと来ないと何処かで思ってた。
それでも、もしも澤村の妻があたしのところへ来るようなことがあったら、
鼻先で笑ってやろうと思っていた。

愛されてない形だけの妻。澤村に息苦しさを与えるだけの家庭。そんなものを作りあげた女なんて、何も怖くないはずだった。
それなのに。

――どうして、そんな幸せに溢れたような顔をしているの?

あたしはどうして、こんなに苦しいの?


『由理といると、楽なんだ』

わかっていた、はずなのに。
彼女はあたしが澤村に与えられなかったもの全てを、与えられた存在。
眼差しから、立ち姿から、話しかける声さえ。
幸福と安らぎに満ち溢れている。

その事が、まざまざと見せ付けられた気がした。

あたしが持っているものは何?
彼女が、持っているものは何?

浅く、息を吸い込んだ。駄目だこれじゃあ、酸素が、足りない。

「何の、ご用ですか…」

言って笑いたくなった。彼女があたしに用事が言えば、一つしかないじゃないか。

「主人と、別れて欲しいの」

凛とした響きだった。同時に、あたしの視線は地面に落ちる。
昨日と同じ、面白みのないコンクリートのタイルを。

「ね、長谷川さん。
こんな遊びはやめたほうがいいわ、あなたは若いんだから。勿論、私だって事を荒立てるつもりはないの。実際今までは大目に見てきたわ。でも、これからの主人は大事な立場で――不必要なスキャンダルは困るのよ」

スキャンダル。身近ではなさすぎる言葉があまりにもぴんと来なくて、あたしは何の反応も出来ずにいた。
だって、あたしは澤村の職業さえ知らないのだ。澤村はあたしに囁くのは当たり障りのない話と、その場限りの愛でしかない。

澤村の妻は相変わらず静かに微笑んだまま、あたしの腕を離した。
何もかもわかっているかのように、性急過ぎた話に後悔の色さえ浮かんでいた。

「あなたは知らないかもしれないけれど――澤村はね、来年には政界に打って出ることが決まってるの。今までは私の父の秘書という立場だったわ。そうだったからこそ、ある程度の遊びは許してきたのだけれど」

何度か瞬きして、それから涼しげな眼差しがあたしを射抜く。
強くはない。熱くもない。淡々と。そう、ただ淡々と紡がれる言葉。
彼女を熱くさせるだけの欠片さえ、あたしは持っていやしない。

「これからはそうはいかないの」

先程手にした封筒が押し付けるように、差出される。

「手切金とでも言えばいいのかしら」

よく通る声が耳を通り、胸の中に落ちた。
手切金。澤村と切るための、お金。切られるための、お金。なんて、薄い繋がり。

「……そんなもの、いらない、です」

首を、喉を、強く締め上げるのは、澤村なのか目の前の人なのか。それとも、あたし自身?

「受け取って欲しいの。あなたにはきっと、澤村が色々迷惑かけたと思うから」

目の前の封筒の厚みは、あたしの価値?

「どうして…」

そう口にするのが、精一杯でそれ以外の台詞は、自分の中に見つかりそうもなかった。
憐れむような視線。
そうだ、この人は、あたしを可哀想だと思っている。
何もかもわかっているのだと、知っているのだと。その上で、会いに来たのだと。
責めるような響きは何処にもなくて、それが返ってあたしを惨めにさせた。いっそ罵られたほうが、自分に価値を見いだせたかもしれないのに。

「お願い。長谷川さん、聞いて。澤村と一緒にいたって、幸せになれないことはあなたもわかっているでしょう? だって澤村はあなたを――」

思わず耳を塞いだ。聞きたくなんか、ない。

「…あなたを、愛してるわけじゃないわ」

そう、澤村は、あたしを愛してない。愛してなんかいない。
ただの遊び。気紛れ。
だから憐れまれたあたしは、本当なら責める立場にある筈の澤村の妻に施しを受けるようにしてお金を渡される?

頭が、痛い。
本当はわかってる。本当は知ってる。でも、必死に知らない振りをしてきた。知ってしまえば、終わってしまうから。

「お願い、受け取って頂戴」


澤村の妻が繰り返す。
住宅街の真ん中は、人通りが少ないわけじゃなく、今も通りかかる人が、あたしをちらちらと見る。あたしだけを。

「……っ、いらないって、言ってるでしょう…っ」

言って初めて、自分の声が震えていることに気付いた。
あたしは今、どんな顔をしているのだろう。体中の力が抜けていくようだった。立っていられない。
視界が滲んで、頭の中までぼやけていく。
どうしようもなくて、両手で顔を覆った。

「長谷川さん?」

驚いたような澤村の妻の声。
まるで最後通牒のように、彼女の声があたしを支配する。澤村はあたしを愛してない。
たった一つだけの、真実。

「もう、…やだ」

酷く息苦しくて、体から力が抜けていくようだった。
立っていられない。酸素が足りない。かすれた自分の声が、遠い。
もう嫌だ。もう一度そう呟いた途端、不意に横から伸びた腕があたしの体を抱き締めるように巻き付いて。

「嫌ならやめちゃえば?」

吐き捨てるような声が、耳元でした。

2009年03月29日(日)



 アクアリウム5

頭が痛い。目を開けるだけで、ずきずきと痛んで、光を拒んだ。
カーテンを閉め忘れていたことに気付いても、今更閉めに行くなんて出来そうもない。こうなるのは久しぶりで、出来ればなりたくなかった感覚――二日酔い。幸い吐き気はないけれど、いつもは心地よい水槽のこぽこぽいう音さえ、耳障りだった。
何もかもが壁のように感じる。頭痛がするのは二日酔いのせいだけじゃないのはわかっている。でも、今はお酒のせいにして枕に顔を埋める。何も考えたくない。
水とモーターの音。煩わしい。全部、何もかも。
コンセントを抜いてしまおうか――なんて不穏な思考さえ過り、目を閉じた。


何度か浅い眠りを繰り返して、漸く起き上がってみれば、「四時……?」最悪だ。一日、何も出来ずにこの時間。くしゃくしゃになった髪にかきあげても、何も見えてこなかった。


今日は澤村が来る、はずだ。約束なんかしていないけれど。
それでも少し遠くのスーパーで食材を買って、いつもより豪華な食事を用意するつもりだったのに。だって誕生日なのだ、今日はあたしの。
少しくらいそんな気分を盛り上げてくれたって、罰は当たらないはず。
…それなのに。

起き上がり洗面台の鏡と向かえば、落ち込みきったような自分の顔があった。シャワーを浴びて、服に着替えて、それから薄く化粧する。髪を整え終わる頃には、夕暮れに近い時刻になっていた。

「最悪」

音にしてしまえば、尚更気分が落ち込んだ。
それらを振り払いたくて、小さな鞄を手にして、部屋を出る。エレベーターを待つ時間さえ惜しかった。まだ頭が痛んだ。なんてことだろう。よりによって今日だなんて。

自業自得だとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

今日はいつもよりご馳走を作って、さりげなくケーキも添えて、それでいつもみたいにビールをあけて。そうしたらきっと、いつもより、寂しくない、と思えるはずだった。

出来れば、澤村と一緒に乾杯したいけれど、来るかどうかは確実じゃない。だって約束さえしていない。でももしそうなれば、これ以上ないくらい幸せに違いない。例え澤村が今日と言う日が、あたしの誕生日だと知らなくても。

それでも、あたしは幸せなのだ。


決して軽快ではない足取りで玄関まで降りて来て、自動ドアがスライドしたところで「……」足を止めた。
見慣れない後ろ姿。紺のスーツを着た長身の、女の人。短くカットされた栗色の髪、そこから露になった耳に光るピアス。遠目に見ても質が良いとわかった。
着こなし方からして、とても品の良い――人。

「長谷川…由理、さんね?」

女の人が振り向き、静かな声であたしの名前を呼んだ。

背中でドアが閉まる。その物音を合図にしたように、玄関口階段を陣取っていた相手が、こちらへとやって来る。距離が狭まり、女の人の顔がよく見えるようになった。三十代、くらいの美人。見たことのない顔。

「良かった、ここで会えて。突然来てごめんなさいね、今着いたところで――。それで電話して、訪問しようと思ってたところなのよ」

ふわり、と微笑み首を傾け、女の人はバッグから封筒を取出す。

「あ、の」

頭が痛んだ。頬を撫でる風が冷たかった。あたしはこんな人を知らない。電話?なのに、この人はあたしの名前を知っていた。それどころか、この住所や番号さえも。


「顔色が悪いわ、体調が良くないの?」

あくまで上品に、女の人はそう尋ね微笑を浮かべる。疑問文なのに、確信的。三日月に弧を描く目は、何故だか憐れんでいるように見えた。新手のセールス?どうしていいかわからなくて、「あたし、いま、急いでて」
返事を待たずに、横を擦り抜けようとした。

「ね、待って頂戴」

あたしの腕を、女の人は素早く掴んで。

「あなた、主人と――澤村と付き合っているわね?」

女の人は困ったように、けれどきっぱりとそう言った。

2009年03月21日(土)



 アクアリウム4

澤村はもう眠ったのだろうか。考えないようにしようとしたって、考えるのはいつも同じ男の事。家で過ごす澤村は、想像があまりつかない。それでも妻がいて、子供がいて、あたしのものじゃない。
夫婦のベッドで、抱き合って。間に子供なんか挟んじゃったりして。良き夫、良き父親の顔を浮かべ、目を閉じているのだろうか。

見たこともない女の人や子供が澤村に抱かれ、安らかな寝息を立てる姿が脳裏に浮かぶ。腕に立てた爪が、痛みを訴える。膝に額をくっつけて、胸の中の渦をどうにかやり過ごそうとした。
一度浮かんだ映像はどうやっても消えなくて、唇を強く噛んだ。

やっぱり飲みすぎたのかもしれない。今さら過ぎて。馬鹿馬鹿しくて、溜め息しか出やしない。きちんと閉まらなかったらしいゴミ捨て場のフェンスが、きいきいと揺れた。消えてしまえ。何もかも。消してしまえ。今だけでいいから。
かぶりを振って頭を上げ、息を吐き出したその時。



「天体観測?」

「……え」

目の前に立つ黒い人影に、僅かに息を呑む。小さくはない排気音。通り過ぎる車。そのライトが逆光になって、そんな色になっているのだと気付き、ゆっくりと瞬きした。
閃光のように感じたライトが去り、辺りはまた静かな夜が包んだ。

「あー…やっぱり、さっき泣いてた人だねえ。そうかなぁって思ったんだよね」

気の抜けたような声が、僅かな落胆を呼んだ。
澤村とは違う、少し高めの声。

一瞬でも。
澤村が気を変えて来てくれたんじゃないかって、そう思った。
喉の奥が狭くなる。息苦しい。

「どうしたの。顔色、良くないね」

可笑しそうにそう呟く声。

視界がクリアになる。黒いシャツを羽織り、作ったような微笑を浮かべる綺麗な顔。どこかで見た――何度か瞬きしてから、どこで見たのか気が付いた。

「あなた、コンビニの――」

「あれ。覚えてたんだ」

あっけらかんとして笑い、傾けられる首。そうして自分の項をなぞり、

「当たり前なの?」

「当たり前だわ」

相手の揶揄するような仕草も、今は腹も立たなかった。普段のあたしなら、初対面の相手にこんなに慣れ慣れしくされて黙って座ってなんかはいないだろうけれど、この夜は、今は立ち上がる気力を削がれたみたいに身体が重かった。男――というには幼すぎるようにもおもったけれど――はほんの少し唇を歪めてから、了解も得ずにあたしの隣に座った。
服が擦れ合うような距離。
赤の他人が座る距離にしては近すぎる。ましてや、知らない男なら尚更。そう思って眉を顰めてじろりと見上げた。

睨んだつもりだったけれど、相手は面白そうにあたしを見て、「怖い顔ー」とわざとらしい事を言うものだから、馬鹿らしくてやめた。

「何か、用なの?」

タイル模様のコンクリートが味気なく広がっているけれど、それは見上げていたとしても同じことのように思えた。
上を見ても下を見ても、同じ。見る価値がない。

「用? 用かーそれは特にないかなぁ」

僅かに細められる目。口調は砕けているのに、その眼差しは大人びて怜悧そうに見えた。それが話す内容とあまりにもアンバランスで、「用もなく話しかけたの?」笑ってしまった。

「なんとなく?」

真っ直ぐに投げられる視線は、とても素直で綺麗だと思った。

「暇つぶしに付き合えって聞こえるわ」

「あ、そんな感じ」

身勝手な用件を告げた相手は、薄く笑みを浮かべたまま、あたしを見つめる。断られるかもしれない、なんて露程にも考えてなさそうな表情。呆れる。だからどうでも良くなって、頷いて言ってやった。

「好きにすればいいわ」

立てた膝に肘を付いて、息を吐く。
きっと今のあたしはただの酔っ払いにしか見えない。だから、会ったばかりの子にまで気軽に声を掛けられて、暇潰しの相手なんかにされるのだ。

「星、見えないね」

「星なんて、いつだって見えないわよ」

「そんな事ないよ。少し晴れた場所へ行けば、わりと見えるんだよね」

相手は急に真面目な顔をしてそう言った。

「嘘」

「嘘じゃないって。今度見せてあげる」

「いつ?」

あまりに真面目な顔をするので、思わずそう答えてしまってから自分で自分に呆れた。何を真剣に聞き返しているのだ、あたしは。今度なんてある筈がないのに。その場限りの会話に、次を求めるなんて馬鹿にも程がある。
こんなだから、あたしは――。

「いつ――」

あたしの言葉を繰り返す相手を振り切るように、無理矢理立ち上がった。

「どこ行くの?」

「帰るの」

あたしは足に力を入れて、出来るだけ毅然として相手を見下ろし、それから背を向けた。

「あのさ、」

数歩歩き出してから聞こえた、引き止めるような声には振り返らなかった。エントランスに入り、エレベーターのボタンを押した。このマンションはオートロックではない。けれど、追いかけてくるような気配はなかった。

何処かで救急車のサイレンが鳴っていた。早く早くと急きたてるような音と赤い光。あたしはこの音を聞くと、他人も生きているのだと実感する。いつもどこかで、誰かに何かが起こっている。あたしが生きる時間を、誰かも過ごしている。

そういうことだ。


2009年03月20日(金)



 アクアリウム3

いつ出て来たのか、と思う間もなく、店員はカゴの中の物をレジに通していった。慣れた手つき。繊細そうな指先。顔を見なくても、若い男だと思った。どうでも良い事だけれど。

「あ」

少しだけ驚いたような声に、僅かに目線を上げた。
目の前に立つのは、やっぱり若い男で、白色の安っぽいライトが作り出す光に、髪が金に透けて見えて。

あまり高くない位置からの視線が、あたしを真っ直ぐに捉えた。見返した相手の顔は、全く見覚えがなかった。

色見の薄い相手の目が、不躾な視線を遣してくる。見ず知らずの他人にじろじろと見られて、不愉快だった。何よ。そう思ったけれど、それを口にする前に、自分が今どういう状態なのかを漸く思い出した。「…っ、」慌てて俯き頬を拭う。冷えた肌が、かさつく。最悪。急いだせいで、目まで擦ってしまった。

妙な気まずさに、溜め息が漏れそうになった。けれど俯いたあたしをよそに、店員は何事もなかったかのようにレジを動かした。

一度止まってしまった無機質な機械音が再び鳴り出す。濡れて擦った目はきっと酷い事になっているに違いなかった。手の甲を見れば、べたりと付いたマスカラとシャドウが滑稽だった。

早く帰りたかった。顔を洗って、全部落としてしまいたかった。

店員は何も言わなかった。そりゃあそうだ。あたしだって深夜に一人泣いてる人間なんか、関わりたいとは思わない。

有線は小さく音量を絞られていて、やけに遠く感じた。胸を占めた感傷が甦る。あたしは、一体何を寂しがっているのだろうか。
無関心は心地良くて、時に優しい。それなのに、涙は曖昧なルールを破ってしまったような気がした。

一度も顔を上げる事無く、支払いを済ませる。差し出された袋を半ばもぎ取るようにして、背を向けた。早く帰りたかった。

「ありがとうございましたー、またお越し下さいませ」

もう何事もなかったような声音に、何故だかほっとした。決まりきったおざなりな台詞に押し出されるようにして開いた自動扉の向こうに出てしまえば、また薄闇があたしの身体を包みこんだ。






高々数十分しか空けていなかった部屋は、妙に冷え切って静かだった。リモコンを手にして、適当な曲をかける。それから缶を一つ手にして、残りは冷蔵庫に放り込む。冷蔵庫を閉じる音が、軽々しい。吐く息はやけに重く、けれど白々しかった。

化粧を落として、冷たい水で顔を洗った。何度も何度も、そうした。

テーブルに置きっぱなしになっていた鏡を見下ろせば、鎖骨に朱く薄っすらと付いた痕が目に入った。澤村が戯れに付けた物だろう。愛してもいない女への独占欲のような行為は、虚しくないのだろうか。そう考えて、はたと気付く。違う。虚しいのは澤村ではなくて、あたしのほうなのだ、と。

そう思えば急にその朱が嫌らしいものに思えて、爪先で強く引っ掻いた。
こんなことされるのは、好きじゃない。ビールも好きじゃない。独りも好きじゃない。


煙草を呑むのも、酒を飲むのも、澤村に教えてもらった。

元々そんなに強いわけでもなかった。店で働いている時でも、アルコールはほとんど軽く口づけるだけで、飲み干した回数なんて数える程でしかない。けれど、この夜は不思議と次々と喉を通っていきそれを良いことに体に流し込んでゆく。

三本目の缶を持つ指に、力が篭もった。一人で飲むなんて、滅多にしない。くだらないテレビをBGMに、琥珀色の液体を嚥下していく。半ば強制的に。酔えば忘れてしまえる。

『今日あいつの誕生日なんだ』

その言葉と、澤村の鞄の中に入っていた、小さな包み。苛々する。キスマークにも、今のこの状況にも。独りになりたくない。なのにあたしはそれを選ぶ。矛盾した気持ちが、まぜこぜの絵の具みたいに胸の中を占拠する。

じめついた思考。くだらない。全部吹き飛ぶくらい、わからなくなってしまうくらい、酔ってしまいたかった。



空になった空き缶をゴミ入れに入れようとしたところで止まった。溢れかけた缶。

ああ、そうだ。空き缶を出しておかなきゃならなかったんだ。明日――正確に言えば今日だ――は、缶の日だった。前回は忘れて出せず仕舞いで、その分も未だキッチン脇を占拠している。今月はさすがにそれは困る。澤村は、だらしのない女は嫌いだから――。

朝になったって、きっとあたしは起きないだろう。それだけは酔っ払った頭でもわかりきったことだった。出しておかなきゃ。出さなきゃ。こんな状態でも澤村の嫌う女になりたくないと思うあたしは、どうしようもないくらい彼に溺れてるのだろうか。


収集所はマンション玄関の横にある。こんな時間に出すのも規約違反らしいのだけど、今までそんな規約守った事なんてなかった。

少し足元がふらつく。

幾分肌寒さを感じる夜風も、酔いを醒ますにはいたらない。良い気分にも程遠い。

幾ら飲んでも今日は嫌な日。缶を入れた袋を置いて、フェンスを閉じた。きぃ、という軋みが、今はやけに響く。ああ、うるさい。

たったそれだけのことなのに、何だか凄い重労働なことをした気がする。酔いが回ったせいだろうか。とにかく、元々あたしは、強くないのだ。

足元がおぼついていないことにも、漸く気付いて立ち止まる。重心がとれてない。

少し休みたくて、玄関口に座った。コンクリートの階段の冷気が、薄い衣服越しに這い上がる。

煙草、と思ったけれど、生憎ジャケットのポケットは膨らんではいなかった。そこまでの常習性はないらしい。

澤村の妻は煙草を呑まない。『家では大っぴらに吸えないんだ。だから由理といると楽なんだよな、俺』

そう言われた時は、舞い上がっていた。嬉しいと思う自分がいた。あたしとの居場所は安楽なんだと、思っていた。専用の灰皿。専用のスリッパ。
『楽なんだよ』
その言葉の本当の意味に気付いたのは、随分と後だった。
薄く笑う。安楽なんじゃない。気楽なのだ。軽く付き合っていられるって、ただそれだけのことなのに、一年前のあたしは馬鹿みたいに浮かれて。
でも、気付いてしまっても、あたしの部屋も、あたしの心も澤村に占拠されていた。
紺色の空には、星は一つも見えなかった。

2009年03月15日(日)



 アクアリウム2

ふ、と誰かが息を漏らした。それはあたしだったのかもしれないし、澤村だったのかもしれなかった。どちらにしても、それはとても疲れを感じさせる溜め息で、決して安らぎを生み出すような代物じゃあなかった。

「…帰るの?」

ぐったりとしたベッドの上で、薄っすらと目を開けた。

「ああ、悪いな」

視界の先で服に着替えた澤村が、煙草を吸ってあたしを優しい目で見ていた。澤村はたまに、こんな目をする。

「また、今度泊まりに来るよ」

きっちりとネクタイを締めて、髪を整えた姿は、今しがた女を抱いた男にはとて見えなかった。

「今日は、ゆっくりできないってことね」

「そうしたいんだけど、な。今日はあいつの誕生日なんだよ。早く帰ってやらないとさすがに体裁が悪いだろ」

僅かに顔を顰めて、澤村は煙を吐いた。シーツの端を、知らずに握り締め、あたしは「そう」とだけ答えた。妻の誕生日に他の女と寝て、今更何の体裁を気にするのよ。口の中が、苦くなる。

「どうした?」

不意にどうしようもない気持ちになって、口元を歪めたあたしを澤村が不思議そうな目で見つめた。

「ううん、何でもないわ」

小さく笑って、ベッドの上に起き上がる。そんなあたしに近寄って、澤村がキスをした。突き飛ばせる強さが、あたしにあればいいのに。出来もしない事を考えて、目を閉じる。唾液で濡れた舌が絡む。

他の女の下へ帰る男の、キスの味だった。





一人になった部屋は、慣れていても妙に静けさを強調する。

キッチンとリビングの境目のカウンターにある水槽が、こぽこぽという水を循環させる音をたてた。水草と白銀の熱帯魚が一匹、その中でゆらゆらと漂う。まるで舞っているようだ、と思った。

イキモノなんて、興味はなかった。先月、プレゼントだと言って、突然澤村が持ってくるものだから、断ることなんて出来なかった。澤村からのプレゼントなんて、初めてだった。あたしは、その日は浮かれて物凄く喜んだ。
『大事にするわ』口付けて抱きついたあたしに、『そうしてくれ』と笑ってくれた。物凄く嬉しかった。

揺らめく水の宝石箱。漂うだけのこのイキモノに、あたしは不思議と魅せられてこの部屋で一人でいる時は、よく眺めるようになった。ペットショップへ通うようにもなった。部屋に熱帯魚の為の物が増えた。

煙草に火をつけて、ベッドの傍で脱ぎ捨てた服を拾う。一人分の、散らばった服と下着。空しいなんて今更。でも息苦しいのは直しようもなさそうだった。

それらを身に着けてから、しばらく一服する。喉が乾いた。何か飲もうと思って冷蔵庫を開けたところで、水も酒もない庫内に溜息が漏れた。

「こういう時に限って」

何もないものなんだ、という言葉は飲み込んだ。最近水を買った記憶はなかった。調理は限られた時ぐらいしかしない。この部屋に一人でいる限り、補充を怠れば何もないのは、ごく当たり前のことなのだ。

財布を手にして立ち上がる。

ついでに、ビールも買い足しておかないといけなかった。明日はたぶん、澤村は来るだろう。早く家に帰った翌日は、埋め合わせのようにこの部屋に泊まる。

そして何も気にしていないふりをして、あたしは彼を迎え、また身体を重ねるのだ。…来ないかもしれないけれど。

「……っ」

思わず小さく笑った。姑息だ。自分から傷つく恋愛を選んだくせに、いざとなれば守ろうとする。気にしていない日なんて、本当は一日だってない。考えてから、また嗤う。

浮気を前提とした男。そんなものに、本当に惚れてしまえば終わりだと同じ店に勤めてた子が言ってた。それなら、とうにあたしは終わりを迎えてる。

卑怯なのは澤村。
馬鹿なのは、あたし。

扉を開ければ、紺色の空が真正面に見えた。夜の空は朝より昼より、温かなベールのようで。けれどその寒々とした色合いは、決してポジティブな思考をもたらせてくれない。夜に一人でいるのが、段々と耐えられなくなってゆく。

寂しいだとか。寒いだとか。そんなもの、必要じゃない。必要なのはあたしを温めてくれるあの男だけ。なのにそれだけじゃいけないような妙な気分に追いやってくれるのが、紺色の空だった。

マンションの廊下は、人気がなく静かなものだった。白っぽい照明が、行く先を照らす。当てられる照明は自分だけじゃないのに、それらを均等には感じられない。理不尽で虚無的。何故だかあたしは泣きたいと思った。


静かなエレベーターホールを抜けて、新しく出来たばかりのコンビニへ足を運ぶ。店内は静かで、有線の音楽だけがやけに哀愁を帯びて聞こえた。出来たばかりのくせに陰気くさい。わざとそんなジャンルを選んでかけているんじゃないか、なんて勘繰りたくなるような感傷に舌打ちが出た。

冷蔵の扉を開け水のボトルを放り込み、アイスロックも入れて。重いくらいのビールの缶を入れたカゴを持って、無人のレジカウンターで辺りを見回した。
一人として客も店員も見当たらない。どうせこの時間帯の客は少ないからと、休憩室に引っ込んでるに違いない。客がいないのはこの時間にはままあることで、何も今日に限ったことじゃない。
ただそれだけのことだ。それだけのことなのに、得体のしれない寂寥感があたしを支配した。

奥にいるんでしょう?さぼってないで、さっさと出て来てよ。感傷的になっていた気分も手伝って、急に腹立たしくなって。それから、言葉には表しようもない、どうしようもない気分になった。

別れの歌を奏でる有線。白々しいぐらいの蛍光灯。無関心を貫いた空気。誰もいない空間。あたしを必要としない、場所。

たったひとり。置いてかれてしまった、あたし。

「――つ」

涙は、不意を突いて流れ落ちた。感傷的過ぎる。馬鹿だと思った。これは夜だからだし、細く流れ聞こえる曲の効果だし、そんなものに流されるなんて馬鹿げてる。

でも意思とは無関係に頬を伝う涙は、止めようもなくて。拭うことも忘れて、カウンターの前に呆然とあたしは立ち尽くした。泣いたって何も変わりはしないのに。余計に、惨めさが増すだけじゃないか。

このままじゃ嗚咽に変わってしまうかもしれない。どこか他人事のように考えたあたしの目の前に、「いらっしゃいませ」唐突に人影が映り込んだ。

滲む視界の先にクリアさはなくても、白い壁の前に立つ青い服は、店員の制服だとすぐにわかった。

2009年03月09日(月)



 アクアリウム1

BLUEMOONでは「水槽」というタイトルで掲載。

**********

「由理は今年幾つになるんだっけ」
「え?」

ふと漏らした澤村の呟きに、新しい缶を開けようとしていた手を止めた。

「年だよ、年」

彼の手には開けたばかりのビール缶が、握り締められている。見てるだけで、体温で温くなりそうだった。

澤村は男のくせに――本人に言ったら偏見だと笑われた――体温が高い。
温くなったアルコールに不満を言わない男を初めて知った。

「二十になるの――」

「まだそんなか、若い筈だよな」

遮るように、澤村が笑った。実際、遮ったのかもしれない。

「……まだって。澤村さんはおじさんみたいなこと言うのね」

明日が誕生日だと言うつもりだったのに、相手に知りたい素振りがなさそうだと知って、言わないことにした。僅かにした落胆は、自分の中から追い出す。

「どうした?」
「なんでもない」

ごまかすように笑って見せて、缶の中身を一息で半分飲み干した。苦い。でも妙な息苦しさを潰すには、ちょうど良い苦みだった。

「三十七は、二十歳の女の子からすれば、充分過ぎるくらいおじさんだろう?」

まるで他人事みたいな呑気さで話し続ける。少し眺める。浅黒い肌。高い鷲鼻。どこをとっても、男を感じさせる横顔。
澤村はとても自信家だった。自分が当て嵌まらないと知っていて、あくまで客観的な視点として口にする。

精悍さを失わない容姿は、その内面から滲みだしているのかもしれない。

お金が欲しくて働いていた店の、常連客だった澤村一志と付き合ってもう一年近くなる。

彼には、家庭がある。小さい子供もいるらしい。典型的な浮気相手。それがあたしだった。

『この後、会えるだろう?』

二人きりで初めてかけられた言葉は、強引だけど嫌悪はなかった。
当たり前みたいにホテルに行って、それからずるずると付き合い、あたしは夜を澤村に渡したくて店を辞めた。

澤村は気紛れにやって来る。連絡があったりもするし、唐突な時もある。外で会う事はほとんどない。この部屋で食事をしてお酒を飲んで、それから――…。

「由理」

あたしの名前を呼ぶその声が、とても好きだ。三十代後半の澤村は精力的で、とてもアグレッシヴで。だから若い女が好きなんだと平気で豪語するような、自我の持ち主だった。

友達からは呆れられた。いいように遊ばれてるだけじゃないのって。それでも、遊びも女も知り尽くした澤村のような男に執心されるのは、女として悪い気はしないし、寧ろ快感を覚える。

他の女とも関係を持っている、といつか聞いた。誰かから聞いたのかは忘れたけれど、まだ店に勤めている頃の常連達の誰かだろう。だけどあたしは素知らぬふりをする。あたしは多分、とても都合が良い。でも終わりにしようとは思わない。終わりにしたいとも思わない。

「お前といると、息が出来るようだ。俺の年代になるとさ、何でも責任、責任だろう? 息が詰まるよ正直。職場でも、家庭でも」

とって付けた言葉に、あたしは微笑する。真意を探る必要はない。
そんな事をすれば、息の根を止められるのは、あたしの方だ。

毎日が息苦しくて、水の中でもがいているような気がした。泳げない人魚。最後まで選ばれることのなく、終わる。水泡に帰すかもしれない想い。でも引き替えせないところまで、とうに踏み込んでいた。

「由理」

使い分ける猫撫で声が耳を擽る。そうわかってるのに、嬉しくなる。

「…ん」

「可愛いなお前は。素直で、綺麗で、愛しい。出来るなら外に連れ歩きたいぐらいだ。どうして先に、お前に会えなかったんだろうな…」

粘り着くようなキス。
あたしが吸っている銘柄とは違う、煙草の味。ビールとは違う苦さに眉根が寄った。力強い雄の匂い。理性を崩すような、偽物の愛。

熱くなった舌があたしの咥内を隈なく滑っていき、肌に触れるごつごつした指が堪えようもなく気持ちを昂ぶらせてくれる。

「……つ」

「どの女よりお前がいい。お前じゃないと俺は駄目だ」

所詮は女は割れないイレモノ。どれだけ淫らに男を誘って締め上げられるのか。澤村はその程度の認識しか持っていない。どれだけ愛を囁いても、それらは全てニセモノ。それでもいい。それでも良かった。
極上のイレモノでさえいれば、澤村はあたしに会いに来てくれるのだ。

「さ、わ」

「愛してるよ。由理」

のしかかる重く逞しい身体。女の快楽をまるで無視した乱暴な所作に、あたしの体は悦だけを見せた。

彼の妻は淡泊で子供にかかりきりなのだと言う。

『妻としては愛してるけど、女としては愛せないんだ』

不倫をする男は、皆同じようなことを言う。いつか寝た男も同じような言い訳をしていた。それが理由として成立するか否かではなく、彼等は一様に女に甘受して欲しいのだ。

あたし達が今だけの存在であることを、自ら口にすることなく受け入れさせたいだけ。

女はイレモノ。

「…何を笑ってるんだ?」

揺さ振りながら、澤村が尋ねた。

「は…っ、なに――も」

曖昧に笑って「そうか」とだけ告げる男に、あなたの卑怯さとあたしの馬鹿さ加減を嗤ったのだと言えば、どんな顔をするだろうか。歪めたままの唇が、きつく、吸われる。

「集中してくれよ」

少しだけ苛立ちを含んだ囁きを最後に、あたしは笑うことをやめた。

男の性欲は理性とは全くベツモノなんて、わかってる。その場限りの愛をどれだけ囁けるのかも。澤村が、全部あたしに教えた。

「っ…、あたしのこと、好き…?」

「あぁ、当たり前だろう?何度言えばわかる?」

澤村はあたしを愛していない。何度『愛してる』と聞いても、それだけは変わらない真実だった。

「……つ」

お前はただの、綺麗なイレモノ。薄く目を開いた先に見える澤村の目は、いつもそう告げているように見える。そこから目を逸らすようにして、閉じた。彼の目は彼の言葉より饒舌で、正直だった。だから、怖かった。

強い雄と汗の匂い。優しく頬を撫でる大きな掌が、瞼に触れる。息を何度も吸い込んだ。上下する胸の動悸は、目を閉じていても激しいことがわかる。唇に感じる息と――煙草の香り。いつからか、この匂いに安心するようになった。
まだ彼はあたしの傍にいる。手の届く傍に。


澤村は、あたしを愛してない。そして、見てもいない。

2009年03月08日(日)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加