ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2008年05月25日(日) メモリアルサンデー 特別講師;細見剛正牧師

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」 ヘブル12:1〜2


メッセージ題 「主イエスを仰ぎ見つつ」 

 明日はメモリアルデーです。この教会の廊下には、歴代の牧師先生の写真が飾られていますね。私にとっては、懐かしい先生方です。私たちは、このような信仰の先輩方に囲まれています。そのことを思いつつ、また人生という長距離マラソンを踏まえつつ、この聖書の箇所を見て行きましょう。
「こういうわけで」とは、どういうわけでしょう。信仰によって力強く生きた人々のことが前の章に書かれていますが、お互いに走っている人生というレースを、先人たちの歩みから学びたいと思います。そういう信仰の先輩たちに、私たちは囲まれているのです。
 次に言われていることは、まとわりつく重荷を捨て去ろうということです。走るために色々と身に着けていたら、走りづらいだけです。私たちには様々な悩み事があります。しかしそれらは、主が負ってくださるというのです。ですから、主におゆだねして参りましょう。
 そして更に言われていることは、まつわりつく罪ということです。泳ぎの達人でも、服を着て靴を履いていたら、荒波で泳ぎ切ることは出来ません。罪とはそういうものです。「自分は大丈夫」と思っている時、また成功した時などは要注意です。
 そして目標が大切だと、この聖句ははっきりと述べています。やがて私たちは主イエスにお目にかかる、その時を私たちは目指し、走っています。目標のないマラソンは、ただ空しいだけです。イエス様を見据えつつ、お互いに豊かな人生を歩んでいきましょう。
 更にここにあるのは、忍耐ということです。信仰の歩みは、一日や二日で結果が出るわけではありません。忍耐を持って走り続けるということです。
 最後のポイントは、この競技には素晴らしいコーチがおられるということです。それを覚えて欲しいと思います。手ほどきをし、仕上げをしてくださるイエス様が私たちの人生にはおられます。何と感謝なことなのでしょう。
 マラソンを走っていても、ゴールにたどり着かない人もたくさんいます。しかし私たちは、人生のゴールを目指し、そしてそこに確実にたどり着きましょう。私は洗礼を受けた時、牧師先生に「あなたを信用して洗礼を授けるのではありませんよ。神様を信頼しているのです」と言われました。確かに私は頼りない者で、神学校でもそれほど良い生徒ではありませんでした。でもゴールを目指しつつ、ここまで歩んで来ました。お互いに主を見上げつつ、信仰の歩みをして参りましょう。

ストージ長老教会協力教会
牧師 細見 剛正 牧師




2008年05月18日(日) 聖日礼拝

「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」 出14:14


メッセージ題 「黙していなさい」 

 イスラエルの民はモーセに率いられ、エジプトを脱出しました。そして神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを見守り、臨在を示してくださいました。
 一行は紅海に着き、ひと段落しました。しかし何とファラオを先頭としたエジプト軍が追いかけてくるではありませんか。イスラエルの民はすっかり意気消沈して、「モーセよ、エジプトに墓がないからお前は我々を荒野に連れ出したのか」と怒りをあらわにするのでした。
 つい今しがた、神様への感謝の儀式をささげたイスラエルの民であったはずです。しかし人間とは、そういうものなのでしょう。確かに私の人生を振り返ってみても、感謝の言葉よりも不平不満が多いような気がします。
 ところがモーセは、「神が戦われるのだ、黙っていなさい」と言い、紅海に手を差し伸べました。そうすると水が別れ、海底は陸地となり、イスラエルの民はそこを渡って逃げていくことができたのでした。有名な「十戒」の映画の印象的なシーンですね。そしてエジプト軍は後を追っていくのですが、そのときには水が戻って来て、エジプト軍とファラオは海にのまれてしまいました。エジプトで発見されたファラオのミイラの中に、塩分が多く含まれたものがあったそうです。それはこのファラオだろうと言われています。
 私の娘が小さかった頃、私は学校へ送っていっても心配で、教室まで一緒に行ったものです。娘が少し大きくなりますと、それを迷惑がるようになり、「もういいよ、あっちに行っててよ」と生意気なことを言うようになりました。それでも心配なものですから、物陰にかくれながら娘の様子を見ていたものです。
 それは娘が幼く、弱く、未熟だから心配なのです。しかし神様は、全能なるお方です。任せておいて、心配はいりません。もちろん、だからといって私たちが何もしなくて良いということではありません。自分の足で紅海を渡り、約束の地を目指していく努力と選択が必要です。その上で、最終的な信頼といいますか、人生の土台を神様に置いていくならば、その人の生涯は豊かなもの、確かなものとされるでしょう。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年05月11日(日) 母の日家族礼拝

「将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。」 出13:14


メッセージ題 「力強い御手」 

 今日は母の日です。母の日は1908年、アンナ・ジャービスという女性によって始められました。アンナは亡き母を記念し、教会に母の好きだったカーネーションを飾りました。このことを聞いた百貨店王ジョン・ワナメーカーがこれを自店で展開し、やがてアメリカ中へと広がりました。日本では森永製菓が昭和12年にこれを広げる運動を展開しました。アンナ、ジョン、そして森永社長の太一郎氏は、みなクリスチャンです。母の日が教会から始まったことは日本では案外知られていませんが、それは聖書の教えに基づいて始められ、続けられているのです。
 アンナが基本にした聖句は、「あなたの父と母を敬え。」(出20:12)です。これはモーセの十戒の中の言葉で、そのモーセ自身は誰よりも母親の愛に感謝して生きた人物だと言えると思います。というのは、モーセは本当は赤子の時に死んでいたはずでした。それが母の愛と神の配慮により、川に流され、そしてファラオの王女に拾われ、こうして大きな働きをする人物として成長したのです。もしあの母の情熱、大きな愛がなければ、モーセは死んでいたのです。ですからこの聖書の言葉は、モーセ自身がよくよく味わったものではないかと思うのです。
 神は10の奇跡をもって、イスラエルの民をエジプトの奴隷より解放してくださいました。そのために用いられたモーセは、神に守られ、そして母の愛によって生かされた人物です。今日は母の日、私たちの神は私たちを愛し、私たちに最高の母親を与えてくださいました。ですから私たちは、神に感謝をささげ、母に“ありがとう”を改めて送りましょう。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年05月04日(日) 聖日礼拝

「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」 出3:12


メッセージ題 「神が共にいる」 

 モーセは不思議な神の導きにより、エジプトで王女の子供として育てられました。そして40年、ある日モーセは、同胞のイスラエルの民がエジプト人に虐待されているところを見てしまいます。怒ったモーセは、思わずエジプト人を殺してしまい、誰にも見られないように死体を隠します。翌日、今度は同胞同士がケンカをしている場面を目撃し、仲裁に入ります。ところが「お前は、あのエジプト人と同様に私をも殺すのか!?」と言い寄られ、前日の事件がばれていることを知ります。そしてモーセはエジプトを逃亡し、荒野へと身を隠し、そこで40年過ごすこととなるのでした。
 その荒野でのある日のこと、ホレブ山でモーセは不思議に燃える芝を見ます。近づくと、そこは神の聖域でした。足から履物を脱ぐように声がしていよいよ神に近づき、モーセはその聖なる場所で神の臨在に触れるのでした。
 ここでモーセにとって、驚くべきことが告げられます。苦役を強いられている200万人のイスラエルの民を率いて、エジプトを脱出せよと言われ、しかもそのリーダーとしてモーセが立てられるというのです。
 あまりの壮大な計画を知らされ、「自分のような者ができるはずがありません・・・」と、モーセは激しく拒みました。しかし神は、今日の聖句を示され、必ず共にいるという約束と勝利の宣言をなさったのでした。この後の歴史はよく知られている通り、確かに神のおっしゃった通りになるのでした。
 モーセがエジプトで育った40年は、帝王学を徹底的に学ぶ40年でした。そして荒野の40年は、イスラエルの民を率いるのに必要不可欠な荒野の生活を習得する40年でした。意味のない、また不必要にさえ思える人生の出来事でさえ、神にとってはみな最善に用いられていきます。それは私たちの人生にとっても同様です。
 私は神学生時代、子供を前にしてでさえ、話しをすることが苦手でした。公園にいる子供たちを集めてイエス様のお話しをするという実習があるのですが、その時にも何も話しをすることができず、子供にバカにされ、石を投げられたこともあります。そこで私は、「手作りで紙芝居を作ったら、子供は聞いてくれるかも知れない」と思い、次から早速実践しました。確かに子供は興味を示してくれるようになり、それが私の自信となって、今に続いています。この経験が無ければ、私が現在ペニンスラ教会でしているような紙芝居はなかったでしょう。
 神様には無駄はありません。その出来事の最中には私たちにはその意味が分からないかも知れませんが、神様はすべてご存知です。神様は共にいて、私たちの人生を確かに導いてくださるお方なのです。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行



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