ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2008年04月27日(日) 聖日家族礼拝

「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」 出エジプト2:10


メッセージ題 「引き上げる手」 

 ヤコブ一家がエジプトに住むようになったことは、先週お話しした通りです。それから300年後のことが、この出エジプト記には書かれています。
 ヤコブには12人の子供がおり、それぞれの家族がおりました。やがてそれがどんどん増えて、一つの民族となります。300年経ったこの時代は、ヨセフが大臣として労したことなど忘れ去られた時代です。この時代のエジプトにとってイスラエルの民は、ただ単に脅威の対象でしかありませんでした。エジプトをのっとる勢いに恐れたファラオ(王)は、彼らを迫害し、重労働を強います。しかし彼らは増え広がる一方です。助産婦に命じて男児が生まれたら殺すように命じますが、助産婦は真の神を畏れてそれをしませんでした(ゆえに神は助産婦を祝福します)。とうとうファラオは、生まれ出る男児をナイル川に投げ捨てよと命じます。
 この時に生まれたのが、後のモーセです。男児が生まれたことを母親は隠しますが、3ヶ月ともなると泣き声があがり、隠し切れません。悩んだ母親は、赤子を籠に入れてナイル川の茂みにそっと置きます。そこにたまたまやってきたのが、何とファラオの王女でした。王女は赤子に気付き、可愛そうに思って彼を育てることにします。実は赤子の姉がそっとそばでそれを見ていて、すかさず「乳が出るイスラエル人を紹介します」といって、実母を連れてくるのです。
 こんな不思議な偶然があるでしょうか?これはすべて、神様の引き上げる手が伸ばされた結果でした。偶然が重なった出来事のように思えますし、赤子には何の力もありませんでしたが、神様は確かに手を伸ばしてくださったのです。
 私はアメリカ生活で、どれだけ周囲の方々に助けられてきたことでしょう。もちろん妻にも、そして子供たちにも助けられて生きてきました。それは背後にある神様によって、出会わせていただいた人々です。神様は地上において、色々な手を与えてくださいます。あなたは一人ではありません。神様がおられます。そして神様がそなえた人々に囲まれています。
 そして今度は、あなたも誰かを引き上げる手になることができます。神様はあなたを必要としています。あなたの必要としている人がいるのです。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年04月20日(日) 聖日礼拝

「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」 創世記50:20


メッセージ題 「歴史を導きたもう神」 

 ヤコブの息子は12人、先週はそのうちのユダの話をしました。今日は11番目の息子ヨセフについてのお話しです。
 12人兄弟のうち、ヤコブが最も愛した妻ラケルの子は11番目のヨセフと12番目のベニヤミンでした。その理由、そして老齢になって生まれた子ということもあり、この2人には特別な愛情が注がれたようです。上の兄たちは、当然それが気に食わないわけですね。
 ただでさえそういう状況なのに、ヨセフ自身もまた高ぶった思いがあったようです。ある日ヨセフは、兄たちが自分にひざまずくという夢を2度も見ます。よせばいいのにそれを兄たちに言ってしまったものですから、兄たちは怒り狂い、ヨセフを荒野に呼び出し、旅の商人に売り飛ばしてしまうのでした。
 商人はエジプトの役人ポテパルにヨセフを売り、ヨセフは神様の恵みを受けてそこで過ごします。それを認めたポテパルはヨセフを信用するのですが、妻の逆ギレにあい、ヨセフは投獄されてしまいます。そこにはエジプトの王の家来も投獄され、それを通してヨセフは解放され、エジプトの王の夢を解き明かすこととなります。エジプトの王の夢は、豊作の後に飢饉が来るというものでした。それを解き明かしたヨセフの背後に真の神様がおられ、王もそれを認め、やがてヨセフはエジプトの大臣に就任し、これらの作業を指示する立場に就くこととなりました。
 飢饉の中でヨセフの兄たちは、エジプトを頼ってやってきます。そこでまさかの対面をするのですが、兄たちは気付くはずもありません。ヨセフは知らぬ顔をしながら、兄たちが現在どんな心を持っているのか確かめます。そして兄たちが悔い改めて新たな思いを持っていることを知ると、ヨセフは名乗り出て、涙の再会を果たし、家族全員をエジプトに呼び寄せて、幸せに暮らしました。
 やがて父ヤコブが死にます。兄たちは、それをきっかけにヨセフが復讐するのではないかと恐れます。しかしヨセフは、神様に全て任せて生きてきたことを告げたのでした。それが今日の聖句です。
 先日、一人の青年が洗礼を受けました。彼は、意気揚々とアメリカに数年前にやって来たのですが、とんでもない出来事にあい、絶望していました。しかし教会に来るようになり、キリストを知り、信仰に入りました。
 神様は歴史を導いておられます。ヨセフ自身、まさかこのような展開になるとは予想もできなかったことでしょう。しかし主は背後で、確かに恵みの御手をのべていてくださるのです。私たちには最善が何なのか分からないかも知れませんが、神様は最善以上の最善をなしてくださるお方です。そのことを信じ、ゆだねて歩み続けましょう。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年04月13日(日) 聖日礼拝

「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、『神われらと共にいます』という意味である。」 マタイ1:23


メッセージ題 「インマヌエルの神」 

突然新約聖書に移ったかのような感じがしますが、実はそうではありません。このマタイ1章にはイエス様の系図が記されているわけですが、それと創世記のお話しとは深い関わりがありますので、今日はこの聖書の箇所を選びました。
イエス様の系図には、ユダとタマルという男女が出ています。この2人の子孫に、イエス様がおられます。しかしこの2人は、夫婦ではありません。ユダはヤコブの子です(ヤコブはアブラハムの孫)。そしてタマルとは、ユダの嫁なのです。
ユダには三人の息子がおり、長男の嫁がタマルでした。ところが長男が死んでしまいまして、当時の律法に基づき、タマルは次男の嫁となります。しかし次男もまた死んでしまいましたので、タマルは三男の嫁にならなければなりません。でもユダは、三男も死んでしまうことを恐れ、タマルに与えることはしませんでした。死んだ二人の息子は、実は神様への罪ゆえに死んだのです。それをユダは知っていたのですが、それでもタマルに対して正しいことをしようとはしませんでした。そこでタマルは、遊女を装ってユダに近づき、そうとは知らないユダはタマルと関係を持ってしまうのです。そして生まれた子供から系図は続き、イエス様はその中に生まれてくださったのでした。しかもユダとは、今のイスラエル民族の流れを作った部族でもあります。
イスラエルの本流であり、救い主イエス様の系図の中にいるユダとタマルは、実はこんなにも罪深い存在でした。それにも関わらず、聖書は堂々とこの2人を重要な系図の中に記しています。それはこの系図は、この世の現実そのものであり、私たちそのものだからです。
私が若い頃、渋谷で深夜のアルバイトをしていたことがあります。ある日のこと、そのアルバイトの休憩時間に私は歩道橋の上から、真夜中の渋谷の街をぼーっと眺めていました。自動車も人もすっかり少なくなった時間帯、静まり返った渋谷の大通りでしたが、突然「ザザザザー」という音と共に、黒い大きな影が大通りを横切ったではありませんか。驚いてそれを良く見てみると、何とそれはネズミの大群だったのです。昼間にはきらびやかな姿を見せる渋谷の街ですが、実はこんなネズミが住み着いていたのです。
その渋谷の街は、罪深い私の心の中だとつくづく思いました。表側はそれなりの人間に見えても、内側には黒いものが潜んでいます。しかしイエス様は、そんな私の心に生まれてくださいます。そしてインマヌエル、つまり共に生きてくださるのです。なんという驚くべき恵みなのでしょう。このお方は、あなたの心にも生まれてくださいました。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年04月06日(日) 聖日礼拝

「ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」創世記32:30(新共同訳31節)


メッセージ題 「ペヌエルの経験」 

 エサウのもとから逃げたヤコブの逃亡先は、母ラケルの兄ラバンのもとでした。その地において、ラバンの次女ラケルとの結婚を申し出たヤコブでしたが、何も持たないヤコブは、七年間の労働を義務付けられます。ラケルを愛していたヤコブには、その七年間は数日のようでした。そして結婚のその日、連れてこられたのは実は姉のレアだったのです。だまされたヤコブですが、「姉より先に妹を嫁がせるわけにはいかない」と今更ながらにラバンに言われ、仕方なく一週間後に改めてラケルも妻とします。そして更に七年間の労働を義務付けられてしまうのでした。
 こうしてだまされながら、また二人の妻との間の争いに巻き込まれながら20年過ごしたヤコブは、脱走の決意をします。しかしそれを見破られ、結果的にはラバンと和解するのですが、ともかく大変な逃亡先での日々をヤコブは過ごしたことでした。
 しかしヤコブはここで、20年前の現実を突き付けられます。それはつまり、兄エサウとの再会です。ヤコブは恐怖で震え上がり、自分の群れを二手に分けて、もしも先発隊が撃たれても自分が生き残れるようにと画策します。
 そしてこの夜、不思議な出来事が起こります。神の使いがヤコブと格闘するという、そんな不思議な出来事が起こったのです。この格闘で、ヤコブはもものつがいをはずされます。この出来事は、自分の力で生きてきたヤコブが、自分ではどうしようもできない人生の現実にぶち当たり、その中で神を見出し、神によって自我が打ち砕かれ、自分で立つのではなく神によって立って生きるということを思い知る、その経験でした。「はしご」の出来事で神を知ったヤコブでしたが、更に深いこの経験によってヤコブは神によって生きる者とされたのです。
 こうしてヤコブは、「イスラエル」と名付けられました。「イスラ=争う」「エル=神」という意味なのですが、これはつまり、「神はヤコブの自我を取り去り、ヤコブは神によって弱さに勝利した」というものです。イスラエル国家の名前は、アブラハムやイサクではなく、ヤコブから名付けられました。自我丸出しのヤコブを神様は憐れみ、恵みをもって愛を注いでくださいました。この神が、あなたの神なのです。
 私も自我丸出しの人間で、クリスチャンでありながらも、自力で何とか生きようとした時期もありました。しかし自力ではどうすることもできない現実を突き付けられ、深い祈りへと導かれたことがあります。これは私のペヌエルの経験でした。それは貴重な経験です。深い神様との交わりを経験する人は、実に幸いな人であると思います。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行



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