ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2008年03月30日(日) 聖日礼拝

「「それからヤコブは誓願を立てて言った。『神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。』」創世記28:20〜22


メッセージ題 「ヤコブのはしご」 

 イースター時期を過ごしておりましたので、メッセージもそれにあわせておりましたが、再び創世記へと舞台を戻すことにいたします。
 アブラハムの息子イサクは、リベカと結婚しました。そしてイサクとリベカには、双子の兄弟が生まれます。長男はエサウ、次男がヤコブでした。双子とはいえ、家督は長男が継ぐわけです。ですからアブラハムから受け継がれた神の特別な祝福もまた、長男が受け継ぐものです。ところがヤコブはそれを奪い取ってしまいます。巧みな話術と行動、そしてそれを後押しする母リベカの偏愛などによって、ヤコブは長子の権利を得てしまうのでした。もちろんそれはヤコブの一方的なものではなく、神の祝福を軽んじたエサウ、そしてリベカと同じく偏愛をエサウに注いだイサクもまたこれらの出来事のそれぞれの原因となりました。
 こうした出来事の中で、怒り狂うエサウを避けてヤコブは逃亡します。こんな形で家を出て、孤独を味わい、生命の危険にさらされた荒野にて、ヤコブは夢を見ます。それは、天と地をつなぐはしごを天使が行き来するという夢でした。そしてその中で神は、「あなたを決して見捨てない」とおっしゃったのでした。
 これはヤコブの救いの経験です。ヤコブは自己中心に生き、家族を失い、神を見失っていました。しかし神は天から地、つまり神の国からヤコブへとはしごをつなぎ、恵みを注いでくださっていたのです。「神がおられる、そして愛していてくださる」ということを知ったヤコブは、そこを神の家と名付け、感謝の礼拝をささげたのでした。
 私もかつて、家を捨て、神を捨て、自由奔放に生きて、多くの人たちを傷つけてきました。しかしそんな自暴自棄の生活の中でイエス様を知り、信仰を持ち、その愛の中に生かされてきました。だから私は神の家である教会において、礼拝をささげます。
主は天からイエス様というはしごをかけ、あなたと神の国をつないでくださいます。そしてあなたに、「私が共にいるよ、決して見捨てないよ、永遠の国はあなたのものだよ、愛しているよ」と、今も語りかけておられるのです。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年03月23日(日) イースター家族礼拝

「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」 マルコ16:4


メッセージ題 「復活の絶大なる力」 

 イエス様は金曜日に十字架で死なれましたが、三日目の朝、つまりこの日曜日に復活されました。それを記念し、祝うのがイースターです。死者の復活などありえないと多くの人は思い、弟子たちか、もしくは敵が遺体を隠しただとか、実は死んでいなかったとか、幻を見ただとかいうことで説明しようとするわけですが、いずれもこじつけでしかありません。なぜなら、イエス様の逮捕の時に逃げ出した弟子たちが、その後は宣教に命をかけています。嘘や幻では、それらのことは一切説明がつきません。キリストは確かによみがえられました。そして今も生きて、永遠の国へと私たちを導いてくださるのです。
 イスラエルの墓とは、ほら穴のようなところです。そこには、重い石のフタがしてあります。ところが復活の朝、それは取り除けられ、遺体はそこには無かったというのです。復活の主は、目の前の重たい石を転がして、絶大なる力をお示しになられたのでした。
 私が神学生になったばかりの頃は、何も出来ない自分に悩んでいました。子供たちを前にしてでさえ、立ちすくんで話ができなくなってしまうのです。私は苦しみ、毎朝5時から一人で祈り続けました。真っ暗な礼拝堂に正座し、床をたたきながら、涙を流して祈り続けました。そして少しずつですが、神様は私を整えてくださり、子供の前で、そして大人の前でも、メッセージを語ることが出来るようになりました。やがて私を通して救われる人、洗礼へと導かれる人を起こしてくださり、牧師への道を開いてくださいました。それから15年が経ちましたが、主の真実が変わることはありませんでした。
 祈れば何でも聞かれるということを言いたいのではありません。しかし、復活の主は、その絶大なる力をもって、あなたの前に立ちはだかる大きな石をも取り除けてくださるお方です。このお方に信頼し、永遠を目指して歩み続けようではありませんか。主はあなたの人生に、素晴らしいことを成してくださるはずです。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年03月16日(日) パームサンデー

「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」 マルコ11:2〜3


メッセージ題 「ロバの子のように」 

 創世記からのメッセージを続けて参りましたが、受難週からイースターと続きますので、その箇所から本日とGood Fridayとイースターはお話しをしたいと思います。
 さて今日は、パームサンデー(棕櫚の聖日)です。それは、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城し、人々が棕櫚の葉をもって「ホザナ(今救ってください)」と叫びながら歓迎したという、そのことを記念したものです。そしてこの金曜が十字架の日、日曜は復活のイースターと続きます。
イエス様は、あえて子ロバを選び、その背に乗って入城されました。それは旧約聖書の預言の通りなのですが、およそメシアと呼ぶにはふさわしい登場の方法ではありませんね。
 ロバとは、馬とは違い、とてもノロノロしている感じです。しかし、馬は狩りや戦争に使われてきたのに対して、ロバは農耕などの平和のために用いられてきました。そのことが象徴しているように、イエス様は平和の王として子ロバに乗って十字架へと、そして復活へと進まれていったのでした。
私たち一人一人は、子ロバです。小さな子ロバ、馬のように大きな力は持っていないかも知れません。しかし、イエス様の平和のために用いられることが出来るのです。子ロバには、子ロバにしか出来ない主のお役目があります。
 私たちの人生の目的とは、いったい何でしょう? もちろん人生とはその人にそれぞれ与えられている自由なものですから、自分のために有意義に使うべきです。家族と楽しく過ごし、趣味や仕事に熱中することも素敵なことです。しかし人生の目的が明確でなければ、それらも一つの過程に過ぎなくなってしまいます。人生の目的とは、神様のために生きるということです。神様のために生きるなら、仕事や趣味、そして家庭やそれぞれの生活が、もっともっと豊かにされます。そして、永遠の命という新しい価値観に生かされるのです。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年03月09日(日) 聖日礼拝

「主はその夜、彼に現われて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」 創世記26:24


メッセージ題 「イサクの井戸」 

祝福の源になったアブラハムに与えられた一人息子のイサク、そのイサクのことに関する記事は、聖書にはそれほど多くはありません。しかし少ない記事の中に、彼の人柄といいますか、信仰の姿勢がはっきりと描き出されています。
イサクはペリシテ人の住む地域で生活をしておりました。そこで神様はイサクを大いに祝福し、収穫を与え、家畜を増し、しもべも多く与えたのです。それを見たペリシテ人たちはイサクをねたみ、父アブラハムの時代からの井戸をふさいでしまいます。イサクは黙ってそこを去り、別の井戸を掘りますがそこを取られてしまい、また別の井戸を掘るのですが何とそれも取られてしまいます。そしてさらに別の場所で井戸を掘り、ようやくそれが自分のものとなるわけです。この様子を見てペリシテの王は、和解を申し出てくるのでした。
イサクは子供の頃から、柔和な性格だったようです。父アブラハムにモリヤの山で犠牲にされかかっても、抵抗した様子はありませんでした。しかし私は、イサクは単なる柔和とか、平和主義者だとか、そういうことではないと思います。彼は神様と常に共に歩み、そしてそこから流れ出る恵みによって、他者との平和を築いていった人ではないだろうかと、そのように思うのです。
私の神学生時代のお話しです。神学校は、全寮制でした。毎朝、寮や学び舎を掃除します。備え付けのゴミ箱には、きちんとゴミ袋を取り付けます。ある朝私が掃除をしていると、一人の神学生がゴミ箱にゴミを投げ入れていました。よく見ると、そのゴミ箱には、ゴミ袋が取り付けてありません。ゴミ袋が取り付けられていないなら、きちんと取り付けてからゴミを捨てなければならないわけです。しかし彼はそれを怠っていたのでした。私はその様子を見て頭にきて、つい声を荒げて注意をしてしまいました。すると彼はすぐに、「ごめんね、ボクが悪かったよ」と頭を下げたのです。私は正しいことを言ったのですが、かえって彼に教えられた思いがしました。私は正しくとも、上から下を見るような思いで彼に声をあげました。ところが彼は、へりくだって私との間に平和を築いたのです。
主にある柔和さとは、こういうことではないかと思います。神様と和解し、他者と和解して生きるイサクは、アブラハムの祝福を受け継ぐ者となりました。私たちもまた、神様の祝福を受け継ぐ者とさせていただこうではありませんか。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行




2008年03月02日(日) 聖日礼拝

「彼はまた言った。『主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。』すると主は仰せられた。『滅ぼすまい。その十人のために。』」 創世記18:32


メッセージ題 「信仰者の祈り」 

 ユダヤ人の父祖であり、信仰の祝福の源であるアブラハムについて見ています。今日はその周辺と言いますか、甥(おい)のロトについて見てみましょう。
 ロトは、ソドムという町に住んでいました。ソドムとゴモラと言えば、罪を象徴する名称になっています。その通り、ソドムの町は荒廃していました。ロトはそれでも正しく生きようと葛藤していたようですが、それでも町に馴染んでしまったようなところもあったようです。
ある時神様は、この町を滅ぼそうとおっしゃいました。それを聞かされたアブラハムは、「50人、いや45人でも・・・、いえ40人、30人、20人・・・もしも10人の正しい人がいたら、思いとどまってくださいますか?」と、とりなしの願いを捧げました。神様はその10人のために町を救うと約束されたのですが、結局は10人の正しい人がソドムにはいなかったのです。神の使いが町に入ると、人々は彼らを犯そうとします。その神の使いを守ろうと、ロトは娘を身代わりに差し出そうとします。神の使いを守ろうとする思いは正しいのですが、娘を犠牲にするという発想は間違っています。そういうロト自体が、あまり事態の深刻さを実感していないようで、「町が滅びたら自分の財産はどうするの?」みたいな心配をしてみたりしますし、娘婿(むこ)は言うことを聞かないし、奥さんは滅び行く町を惜しんで振り返り塩の柱になってしまいました。娘たちも逃げた先での神の守りを確信できず、父親に酒を飲ませて自分たちの子供を作らせてしまいます。もうヒッチャカメッチャカという感じですね。
こんなロトでありましたが、それでも神様は彼のほんの小さな信仰に応えてくださいました。また、背後のアブラハムの祈りに応えてくださったのです。祈りは尊いものです。とりなしの祈り、そして信仰者の祈りには、大いなる力があります。たとえ小さな祈りでも、神様は必ず応えてくださるお方です。

ペニンスラ フリーメソジスト教会
牧師 榊原 宣行



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