ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年12月30日(日) 年末感謝礼拝

「日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。」 詩篇113:3


メッセージ題 「今日まで守られ」

 「2007年を色に例えたら」というようなアンケートをある会社がとったところ、三位はブルーでした。「希望のある色だな」と思ったのですがそうではなく、「ブルーな気持ち(不安)」という意味だそうです。二位は赤で、これは情熱的だという意味ではなく、「真っ赤な嘘」だとか、「日本と世界の赤信号」だというのです。そして一位は灰色で、これは「先行き不透明、お先真っ暗」だとか「白黒はっきりしない」などという意味だそうです。
 どれにしても、希望のない、不安や不満を象徴しています。これが日本の現実であり、世界の事実だと思うのです。しかし聖書が示す神は、世界を統べ治めるお方です。このお方に在る生き方は、希望と喜びと愛に満ちています。
 ある人は、「神が愛なら、なぜ世界はこんなに不幸なのか?」と言います。しかしよく考えてみると、ブルーな気持ちにさせ、真っ赤な嘘で塗り固め、お先真っ暗な情勢を作り出しているのは人間自身なのではないでしょうか。それを神のせいにしていること、これが人間の心の現実です。
 もちろん、不条理な出来事、何故だか分からないような悲しみや痛みが、私たちの人生には起こってきます。特に親しい人を天に送った方は、そういう思いをなさったことでしょう。私の家内も父親を天に送りましたので、そんな悲しい思いをしたばかりです。しかし、神様は永遠の世界を備えていてくださいます。私たちがまずすべきことは、このお方に感謝と賛美をささげることです。今日まで守られ、永遠を備えたもう愛なる救いの神に向かって、感謝の思いを抱き、希望を持って2008年を迎えましょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年12月23日(日) クリスマス礼拝

「彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」 ルカ2:6〜7


メッセージ題 「心に主イエスを」

 マリアは処女であり、結婚前であるのに、子供を宿しました。それは救い主イエスであり、聖霊によって身ごもったのです。マリア自身このことは驚きでありましたが、夫になるはずのヨセフにとっても大事件でした。しかし二人は信仰によってこれを受け止め、清い体のままで夫婦となり、イエス様はそのような二人の子供としてお生まれくださいました。
 その夜、宿屋は満員でした。ベツレヘムは小さな町です。身重のマリアを連れてナザレからベツレヘムに旅していた彼らは、他の人のように身軽ではありません。そんな彼らが宿を探した時には、もう既に遅かったと、こういうことなのでしょう。
 しかし、一つだけ空いているところがありました。それは、家畜小屋です。正確には、聖書には「家畜小屋」だという記述はありません。今日の聖句にあるように、寝かせた場所が飼葉桶であったため、「それが置いてある場所=家畜小屋」ということになるわけです。いずれにせよ、人が泊まるような場所、人間の赤ちゃんが寝るような場所ではない、そんなところに救い主はお生まれくださいました。
 その家畜小屋とは、まるで私たちの心のようです。パレスチナの家畜小屋とは、西洋や日本のような木造りの温かみのある小屋ではありません。洞穴のような石造りの、換気の悪い、冷たい、暗い場所・・・それが家畜小屋であり、石で出来た冷たい汚い場所が飼葉桶なのです。神を退け、自分勝手に生きる人間の心は、家畜小屋より汚いかも知れません。でもそんな場所に、救い主はお生まれになりました。
 これはキリスト教会に伝わる有名な話しです。ある教会で、子供たちによる降誕劇が行なわれたそうです。その時、一人の知恵遅れの子供の配役に悩んだ教師が、「一言なら大丈夫だろう」ということで、宿泊を断る宿屋の主人の役に抜擢したということです。当日彼は、「ダメだよ、部屋はいっぱいです」というセリフを無事に言い終え、周囲はほっとしていました。ところが彼は、さびしそうに去っていくマリアとヨセフの後姿を見て、たまらずに「待って!僕の部屋が空いてるよっ!!」と叫んだというのです。みんなビックリしましたが、あまりに美しいその心にうたれ、拍手大喝采で、今までで一番素晴らしいクリスマス会になったということです。
 イエス様は、神であるのに人となって、家畜小屋にお生まれくださいました。私の心に、あなたの心にお生まれになったのです。そんなイエス様を心から締め出したりせず、喜んでお互いの心にお迎えしようではありませんか。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年12月16日(日) 聖日礼拝 第三アドベント

「見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」 マタイ2:9


「導きに従った人々」

 このアドベントの時期、私は東方の博士にスポットを当てて、お話を続けています。今日は、博士たちが見た輝く星について考えてみましょう。
 博士たちが見た星は、いったいどういう星だったのでしょう。その時期だけ、特別に輝いていたことは確かだと思いますが、それが博士たちを導き、家の上でとどまるということは、どういう風に解釈したら良いのか、よく分からないような感じです。というのは、星というのははるか彼方で輝いているわけで、鳥か虫のようにその辺を飛びまわっているわけではないのです。ですから、飛び回っている何かについていって、その飛んでいるものがとまったところがたまたまイエス様の家だったと、そういうことではないわけです。それでじゃ、これはいったいどういう意味かというと、分かるような分からないような、そんな感じです。
 もう一つ不思議なことは、この星は、博士にだけ見えていたわけではないということです。星は、夜に目を空に向けた人なら、誰にでも見ることができます。その星は特別に輝いていたわけですから、多くの人がそれを見たことでしょう。しかし、それが救い主を指し示すものだということは、異邦人の彼らしか理解することは出来ませんでした。
 これらのことは、信仰によってしか理解することは不可能だと言えるでしょう。確かに星は、不特定多数の人が見たはずです。そして、星というのは一個人を導くような存在ではないはずです。その星が、確かに彼らを導き、ベツレヘムのマリアとヨセフのものへと連れて行き、救い主イエス様を礼拝するという特権に与らせたわけです。これは、信仰によって神を仰いだ者に与えられた奇蹟です。星を見た者に与えられたものではなく、信仰をもって神を仰いだ者だけに与えられた恵みだったのです。
 このアドベントの時、救いを告げ知らせる星は、全ての人の上で輝いています。その星を見るか見ないか、心に信仰を持って受け入れるかどうか、それは個人個人に任されています。救い主の降誕を告げ知らせる輝く星を、今朝、あなたの心に迎えてください。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年12月09日(日) 聖日礼拝 第二アドベント

「『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」 マタイ2:9


「救いを知った人々」

 先々週はミカ書からメッセージをしましたが、今日の箇所は、それを引用した新約の聖句を開きました。
 東方の博士たちは、輝く星に導かれ、誕生されたイエス様を拝みにイスラエルにやってきました。そこでまず、ユダヤの王ヘロデに謁見します。ヘロデはそれによって、自分以外の王が誕生したのだと勘違いをしていまいます。そして恐れ惑った彼は、不安を抱き、ベツレヘムに住む二歳以下の男児を皆殺しにしてしまうのです。
 救い主の誕生を知った博士とヘロデ、しかしその反応は全く逆のものでした。博士たちは、自分の財産も身分も投げ打って、救い主を礼拝することに命をかけました。ところがヘロデは、自分の立場を守ることだけしか考えず、恐ろしい罪を犯してしまうのです。博士にも、そしてヘロデにも、救い主の誕生を告げ知らせるという神様の恵みは同じように注がれたはずでした。問題は、その恵みを受け取るか、それとも拒むかという、人間側の選択にかかっているのです。神様の恵みは、誰にでも等しく注がれています。それを受け取るか拒むか、それはその人に任されているということなのでしょう。
 義父の葬儀のために、10日間ほど日本へ戻ってきました。こちらに戻る2日前、私が以前牧会していた横浜教会の信徒の方が亡くなったという知らせが入りました。葬儀は私がアメリカに戻る前の日だというので、何とか都合をつけて参列しました。横浜教会の主任牧師であられる藤巻先生がご配慮くださり、私にメッセージをさせてくださり、家内には賛美を歌わせてくださいました。召された姉妹は、本当に素晴らしい信仰を持ち、教会に尽くしてくださった方なので、その方の葬儀でこのようにご用が出来たことは、悲しみの中にも感謝なことでした。この姉妹は、毎週毎週、礼拝のあとは教会の庭の清掃を一人でしてくださった方でした。私は姉妹が集めた枯れ木や落ち葉を、炉で燃やす役目でした。今ではダイオキシンの問題で、勝手に炉で燃やしたりは出来ないようですが、当時はそんなことを毎週礼拝のあとにやっていたのです。猛暑の中でも、小雪が降る中でも、淡々と姉妹はその奉仕を続けてくださいました。彼女の人生は、人間目には決して恵まれたものではありません。若くしてご主人をなくし、女手一つで息子さんを育てました。ですから経済的に苦労し、色々大変なこともあったようです。しかし彼女の葬儀は、本当に素晴らしいものでした。そういう事情でしたから、葬儀の費用は教会の有志が負担しました。そしてその葬儀には、教会中の人々が参列していました。彼女の信仰暦は約50年でしたが、最高の人生を歩み、天に凱旋したことを思う、そんな葬儀だったのです。
 イエス・キリストの救いを素直に受け入れる者は幸いです。人生には困難がありますが、それに勝って恵みが注がれるのです。ヘロデのように神を拒絶するのではなく、東方の博士のような信仰を持って歩みたいものです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年12月02日(日) 聖日礼拝 ―第一アドベント―

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 マタイ2:2


「救い主を見た人々」

 先週は、ミカの預言の箇所からメッセージをしました。その預言の言葉の通り、救い主を求めて東からやってきたのは、博士たちです。東とは、バビロンだともペルシャだとも言われます。いずれにせよ、イスラエルからは遠く離れた地です。そして博士という職業自体、占星術だとも言われていますから、異邦人中の異邦人という人々なのでしょう。しかし神様の恵みは、求める者に確かに与えられるのです。もちろんこれは、占いを肯定するお話しではありません。そうではありませんが、神様の恵みと愛の注ぎは、へりくだって主を求める者に惜しみなく与えられるということなのです。
 私はアメリカに来て、7年半になります。渡米してから数年は、心細い日々の連続でした。あるクリスマスの夜、近所のグローサリーに買い物に行くと、そこで救世軍(サルベーションアーミー)の方々がクリスマスキャロルを演奏しておられました。お世辞にも上手とは言えない演奏でしたが、私はその前で立ち尽くしてしまいました。何だか涙が出て仕方なかったのです。今になって思い返すと、緊張して過ごしていることに疲れ、がむしゃらに走ってきた自分に気付き、ふと立ち止まって、我を振り返ったのだと思います。正直言いますと、ちょうど今年のクリスマスもそんな気持ちです。家内の父が倒れ、家内は急きょ日本へ行き、毎日看病しています。遠く離れたアメリカにいる私は、ICUでの闘病を続ける義父に対しても、緊張しながら毎日を過ごす家内にも、何もしてやることが出来ません。娘たちだって、本当はさびしいだろうに何も文句を言わずに、協力してくれており、その姿がけなげで申し訳なく思います。そんな、何とも言えないつらさが、今の私の中にはあります。牧師はもっと力強く見せた方がいいのかも知れませんが、私はそんな強がりを言えるタイプじゃありません。これが本音なのです。
 しかし皆さん、私はだからこそ、主イエス・キリストの降誕を心から待ち望みます。博士たちは、イエス様を待ち望み、求め、救いの光を得ました。私もまた、イエス様を求め、救いの光をいただくのですその救いの輝きは、あなたにも与えられます。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行



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