「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」 ミカ書5:2
「降誕の預言」
ミカという預言者は、紀元前700年前後に活躍した人物です。彼が語った“預言”とは、一般的に言われる“予言”とは違い、予知したのではなく、神の言葉を預かって語ったものです。彼はキリストが生まれる700年も前に、降誕を指し示して神の言葉を語りました。イエス・キリストの降誕は、たまたま神が思い立って行なったものではありません。人知を越えたはるか昔から、神はその時を備え、計画をして事を成してくださったものなのです。 私の家内の父のために、多くの方々がお祈りくださり、感謝申し上げます。義父は、脳梗塞に加え、肺炎を併発し、なかなか大変な状況にありますが、主が最善をなしてくださると信じています。この義父は、数年前にクリスチャンとなりました。なかなか大変な人生を送ってきた人で、破天荒な話もたくさん聞いています。家内が子供の時は、家内もそのことで悩んだこともあったということです。そしてそれがきっかけで家内は自身の心の問題を直視し、キリストに救いを求めてクリスチャンとなったのでした。それからというもの、家内の祈りは父親が救われるということでした。10年以上の祈りが積まれたその時、神様は父親を救いへと導いてくださいました。今年の夏は私たちは家族で一時帰国しましたが、その時ちょうど義父の誕生日を祝うことができました。義父を囲み、義母と私たち家族、そして義妹の家族と共に、聖歌229番「驚くばかりの」を歌い、聖書を読み、祈りをささげました。その時、義父の目には涙が浮かんでいました。そして家内は、「こんなに素晴らしい恵みが起こるなんて、思ってもみなかった・・・」と、何度も泣きながら神様に感謝していました。もちろん、こうなることを願って祈っていたのです。でも、現実にこのようなことが家族の中に起こっていることを目の当たりにして、家内の想像をはるかに越えた主の御業の前にひれ伏したということなのです。 神様の立ててくださる計画は、愛と恵みに満ちた救いの計画です。私たちの願いや思いや祈りをはるかに越えた、素晴らしい計画です。あなたのために立てていてくださる計画に目を向け、恵みを先取りして、主を仰いで、期待して歩んで参りましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
「受けるよりは与える方が幸いである」 使徒20:35
「感謝を示そう」
今日は、日英合同の感謝祭礼拝です。感謝祭とは、アメリカだけのお祝い事ですね。かつてイギリスから渡ってきた人たちが、ネイティブ・アメリカンの方々に助けられながら、このアメリカの地に根付いていったことを記念し、今でも感謝祭が行なわれています。感謝することを忘れないということ、これはとても素晴らしいことだと思います。 この聖句は、イエス様の言葉です。しかし、四つの福音書には出てきません。当時はイエス様の語録のようなものがあったのでしょうし、人々の記憶の中に生き生きとイエス様のお姿もメッセージも残っている時代ですから、このような福音書には記されていないようなイエス様の言葉が引用されたのでしょう。 私たちはイエス様に、十字架による救いという最大のプレゼントをいただきました。永遠の命をいただいた私たちは、もらいっぱなしで良いのでしょうか? 感謝を示す、つまり具体的に感謝に応えることが必要なのだと思うのです。神様に感謝を示すこと、それを具体的にするということは、隣人に対して愛の行動を起こすということではないでしょうか? 困っている人、それは家族かも知れませんね。その人に愛の手を差し出すということ、これが感謝を示すことの第一歩だと思います。 福音書に五つのパンと二匹の魚の有名な記事があります。この食事は、弟子たちによって配られました。12人の弟子たちで、5千人以上の人たちに食事を配布したのです。どうやってそれをしたのでしょう? もしかしたら、他の人たちが協力して、食事を運んだのかも知れませんね。もしも最初にパンと魚が配られた人が、「次は飲み物が欲しいなあ」と要求したら、弟子はまたそれを取りに行かなければなりません。そして「次はサラダ、果物、ケーキ、ゼリー、もっともっと・・・」と次々に要求し続けたら、いつまでたっても後ろの人には食べ物は行き渡らないのです。そうではなく、食物を受けた人は、次には食物を配るようにならなくてはなりません。それが主に仕える、そして人に奉仕するということでしょう。 私たちは神様からたくさんの愛を受けました。今度は、与える幸いを味わおうではありませんか。感謝祭のこの時、お互いが何が具体的に出来るだろうかと考えてみましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。」 ヨハネ21:4
「岸辺に立つ」
やりきれない夜、悲しみの夜、いつまでたっても明けないように思える夜・・・そんなつらい夜を過ごした経験は、誰にでもあるでしょう。ペテロもそんな夜を過ごしていました。彼はイエス様の一番弟子でしたが、十字架を前にしてイエス様を「知らない」と言って三度も裏切ってしまいました。イエス様は三日目に復活されましたが、だからといってペテロの後ろめたさが消えるわけではありません。彼は復活の主を素直に喜べず、心に暗闇を持ったまま、明けない夜を過ごしていたのだと思うのです。 そんな彼は、ある日漁に出ます。ペテロは元漁師ですが、漁師に戻ろうとしたわけではないでしょう。モヤモヤした気持ちを紛らわすため、あるいはイエス様と出合ったあのガリラヤ湖に戻って原点を見つめ直すため、漁に出たのかも知れません。そんなペテロでしたが、一晩漁をしても、何も網にはかかりませんでした。やりきれない夜が、またしても彼を疲れさせたのです。 しかし夜が明けた頃、復活の主イエス様は岸に立っておられました。やりきれない、暗闇だけが支配するように思えた夜は、いつの間にか明けていたのです。そしてそこには、イエス様の愛がありました。こうしてイエス様を見出した彼は、救いの主を心に受け止め、主の愛に生きることを再確認し、その後は命をかけてキリストを宣べ伝える者とされたのでした。 私は若い頃、ちょうど思春期の時代ですが、親不孝を散々重ねたことがありました。今は自分が二人の子を持つ親になりましたので、自分がしたことの罪深さを痛切に感じます。しかしその頃は、ただ反抗するだけの青春時代でした。しばらく家出をしたこともあります。長い家出に疲れ、お金も底をつき、家に帰ってみると、母が家の前に立っているではありませんか。「今から帰る」と電話したわけでもないのに、立っているのです。そうです、母は毎日私の帰りを家の前で待っていたのです。これが親の愛なのだと、今では心から感謝しています。 私がすぐに良い人間にならなくても、家に戻っただけで母は充分でした。イエス様にとって私たちもまた、同じようなことだと思います。裏切り、罪深い私たちを、それでも「そこにいるだけでいいのだ」と言って愛し、赦し、受け入れてくださるという、これが主の愛であり、赦しの恵みなのでしょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」 ヨハネ20:29
「見えないものの確かさ」
夫婦は何でつながっているのでしょう?親子は?友人関係は?それらは何か紙で書いた誓約書があるからつながっているわけではなく、見えないけれど、確かな信頼関係で結ばれているからこそ、自然と愛し合って生きているのだと思います。キリストと私たちの関係も、見えないけれど、確かな信仰によって結ばれているのです。 イエス様は十字架で死なれましたが、三日目に復活されました。そして復活の日の日曜の夕方、弟子たちにその姿を現されました。しかしその場に、弟子の一人であるトマスがたまたま居合わせなかったのです。ですから彼は、キリストの復活を疑いました。そんな彼の前にイエス様は再び現れ、この聖句をおっしゃったわけです。 「トマスのように疑わないで」などとよくクリスチャンの間では昔から言われたりするのですが、私は正直言うと、そんなにトマスが悪者だとは思えません。なぜなら、一般的に考えるとトマスの考え方が普通だと思うからです。そしてそれを考慮しつつもなお、私たちはイエス様がおっしゃった言葉を心に受け止めなくてはなりません。 2000年前、神は人となってこの地上に来られました。それがイエス様です。その神であるイエス様を見た人たちは、みな彼を信じたでしょうか?いいえ、多くの人は彼を信じず、十字架にはりつけにしました。旧約の時代、出エジプトの奇蹟を見た人は、全員神様を信じて従いましたか?エリヤの奇蹟を見た人は?バビロン捕囚からの解放を体験した人たちは?・・・そう考えると、見たから信じ続けるわけではないということがわかります。それが人間の現実なのです。自分勝手であり、ご都合主義でありと、これが人間というものなのでしょう。だからこそイエス様は、見ないで信じることの尊さ、見えないものの確かさをおっしゃったのではないでしょうか?聖なる神の霊が注がれているこの時代、細き神の声である聖書のみことばに耳をすますならば、確かなものが見えてくるはずです。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 牧師 榊原宣行
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