ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年10月28日(日) 聖日家族礼拝

「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」 
ヨハネ19:17


「勝利の丘へ」

 ピラトの尋問を終え、結局イエス様は十字架刑となることが決定しました。ピラトは、イエス様が無罪と分かっていながら、民衆の圧力に負けて、自分を守るために真実を曲げてしまいました。これが、人間の持つ「罪」です。自分を守るためなら、真実を曲げる、他者を犠牲にする、自分勝手、自分中心・・・これらの心は、神を神としない「原罪」の結果です。この罪を犯しているお互いは、聖なる神の御国に入ることなど出来るはずもなく、滅びを受けなければなりません。しかしイエス様は、その命を投げ出して、滅びの身代わりとなって十字架に死んでくださいました。ですから私たちは救われ、永遠の命を得るに至ったのです。
 以前ラジオで、ある有名な歌手が「赤ちゃんの顔は、左右対称なんだって。でも物心つくようになって、愛想笑いだとか、ウソだとか、そんなことを覚えていくうちに、口元が曲がり、顔が曲がり、左右対称じゃなくなっちゃうんだって。」とコメントしていました。
 それが本当かどうか、私は知りません。でも、なかなか興味深い話しだなと思いました。確かに人間は、純粋さをいつの間にか失い、神様を見失い、常に自分たちの欲望を満たすことを優先し、自分の考えの正しさに酔いしれています。だから互いに傷つけあい、争いあうのでしょう。その原因には「罪」があるのだということ、これは言われて嬉しい話ではありませんが、真実です。これを素直に認め、イエス様の十字架を見上げてこそ、人には救いがあります。そして、永遠の世界が開かれていくのです。
 イエス様は、ドクロと呼ばれた場所へと十字架を背負って歩み行かれました。その一歩一歩は、悲しみと痛みの歩みであり、死への歩みでありました。そしてその一歩一歩は、私たちを赦すための歩みであり、永遠のいやしとなぐさめを与える愛と恵みの歩みでもあったのです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年10月21日(日) 聖日礼拝

「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』」 ヨハネ18:37


「王の王」

 ヨハネによる福音書を順番に見て参りましたが、いよいよ十字架の場面へと近づいてきました。本章には、木曜の夜にイエス様が捕らえられる様子、弟子たちの裏切り、ユダヤ人の裁判、そしてローマによるピラトの裁判が記されています。
 38〜40節には、イエス様に代わってバラバという強盗が許されたと書かれています。バラバについて詳しいことはよく分からないのですが、他の福音書と照らし合わせてみると、ただの強盗ではなく、政治犯だということが分かるようです。政治的な重罪を犯したバラバが、無罪のイエス様の代わりに許されるという、メチャクチャな裁判でした。バラバは、まさか自分が許されるなどとは思ってもみなかったと思います。しかし意外な・・・と言っては変ですが、実際、本当に意外なことに、バラバが許されてしまったのです。
 私たちは、まるでバラバのような存在です。神様を神様とせず、自分勝手に生きてきたわけですから、神様に裁かれ、滅ぼされて当然です。自分で赦しを願い、天国へ入れて欲しいと嘆願しても、それがかなうはずがありません。しかし、神の一人子であるイエス様が自ら名乗り出て、私のために身代わりの十字架を負ってくださいました。だから私は、そしてあなたは赦されたのです。あり得ない出来事が起こってしまった、それが十字架の贖いの出来事なのです。
 王様は、決してこんなことをするべき立場にはありません。しかし私たちの王は、命を投げ出してくださった真の王です。罪びとを上から見下げてふんぞり返っている王ではないのです。私たちの痛みを知り、罪を贖うお方なのです。
 今も活動されていると思いますが、一時期日本中、いや世界にまで名を広めた、「ミッション・バラバ」という方々がおられました。この方々は元ヤクザで、刺青に小指が無いという姿で、「過去の自分は罪の中にどっぷり浸かっていました。でも、今このように生きているのはイエス様の救いのおかげです。親分はイエス様です」と証しして歩いておられました。実際のバラバの生涯については、何も知られていません。しかし、たぶんバラバも、救われた自分のこと、イエス様の身代わりについて考え、それなりの人生を送ったのではないかと思います。いずれにせよ、私たちはイエス様の身代わりによって永遠の救いを得ているのですから、その生き方はおのずと定まって行くのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年10月14日(日) 聖日礼拝

「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」 ヨハネ17:17


「真理のみことば」

 13章から続いてきた最後の晩餐の言葉は、本章の祈りをもって終わります。その中でイエス様は、神様のみことばこそが真理であるとおっしゃいました。この祈りのあと、イエス様は捕らえられていきます。そこでは、最も身近だった弟子たちが裏切りの行為を繰り広げるわけですが、彼らの中には真実を見出すことはできません。そのように、人は状況によって変化し、心は移り変わっていくものです。人は代わり、世の中の常識、そして科学も何もかもすべてが移り変わっていくのですが、聖書のみことば、神様の教えは決して変わることがない、普遍的な真理なのです。
 今度ロスアンゼルスで、「筆子・その愛・天使のピアノ」という映画が公開されるそうですね。製作者サイドでは、当地でもそのように上映されることが熱望されているとのことです。実現したら素晴らしいと思います。主人公の石井筆子さんは、日本で最初に知的障害者教育に取り組んだ人物で、この映画はその人の生涯を描いたものです。彼女は敬虔なクリスチャンで、その生き方を描こうとした映画監督もまた熱心なクリスチャンです。私はこの映画はまだ見ていませんが、制作秘話を追った番組を2〜3拝見しました。そこで、この映画の中の知的障害者役の子供たちのほとんどが、本当の知的障害者であるということを知りました。ですから、撮影ではハプニングの連続だったそうで、それがまたこの映画を味わい深いものにしているようです。私がこの制作秘話を見て、とても印象に残ったエピソードがあります。それは、マサヒロくんという知的障害者の子にまつわるエピソードです。その日の撮影は、施設内で一人の男の子が皆にバカにされるという話です。それはもちろん演技でやるわけですが、マサヒロくんには、どうしてもそれが現実と重なってしまうらしいのです。ですからマサヒロくんは、その演技をしている中で、突然泣き出してしまいました。自分がいじめられる役ではないのに、演じている子がいじめられているのが可愛そうに思ってしまうのです。と、突然マサヒロくんは、演じている子のそばに行き、慰めの言葉をかけ、励ましてあげているのです。こんなピュアな思いに、私はとても感動しました。
 私たちは、いつの間にかそういう純粋な心を失ってしまいました。人の顔色を気にして、状況で物事の是非を判断し、立ち回る・・・。社会人ですから、それは必要なことなのですが、ゆえに人は真実を見失っています。イエス様は、聖書のみことばにこそ真理があるのだとおっしゃいました。神様のおっしゃることは絶対であり、真理です。十字架で命を投げ出してくださったお方のみことばに耳を傾け、心を開いてそれに従うお互いでありたいものです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年10月07日(日) 聖日礼拝

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 ヨハネ16:33

「世に勝つ力」

 「神など信じるのは弱い人間のすることだ」と、強がって言う人が時々います。「そうです、人間は弱い存在なのです」と、私はあえて申し上げたい気持ちです。最近日本の総理大臣が辞任され、健康を害して長期入院したという話が伝えられています。また、モンゴル人の横綱が心の病で療養中というニュースも長い間報じられ続けています。総理大臣であっても、横綱であっても、どんなに強い人であっても、実際は弱い一人の人間でしかありません。それがこの世の力、現実なのではないでしょうか。
 イエス様は、その弱さにも、悩みにも、そして死にも、十字架の上で勝利をとってくださいました。復活し、今も生きて、永遠の命に招いていてくださいます。私たちはこの世では悩みがあり、挫折があります。しかしイエス様は、この世に勝ったお方です。世に勝つ力は、このお方から注がれるのです。
 私が尊敬する著名人に、エディ・タウンゼント(故人)という方がおられます。この方は、ガッツ石松氏など6名の世界チャンピォンを育て上げた名トレーナーとして有名です。エディさんの有名なエピソードに、勝った選手の祝賀会には出席しないのに、負けた選手にはずっと付いていて励まし続けたというものがあります。そして、「ボクシング辞めたアトの人生の方が長いのヨ。」というセリフも有名です。彼自身、現役時代に挫折を経験したからこそ、その選手の人生そのもの、特に挫折からの再出発を大切に考えることが出来たのでしょう。世界チャンピォンを育てたということよりも、そこが名トレーナーと呼ばれたところかも知れません。
 人生に負けを知らない人は、ほとんどいないと思います。挫折、失敗、罪、痛み、苦しみ・・・それを繰り返すのが人生であると、それはイエス様のおっしゃった通りでしょう。しかし私たちは勇気を出すことが出来ます。なぜなら、世に勝ったイエス様が共にいてくださるのですから。このお方と共に歩む時、私たちにも永遠の国から注がれる世に勝つ力が与えられるのです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行



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