ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年09月30日(日) 聖日礼拝メッセージ

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」 ヨハネ15:15

「友として」

 最後の晩餐でのイエス様の弟子たちへの語りかけが、13章から続いています。この15章では、有名な「主はぶどうの木」の話が語られています。イエス様につながってこそ、本当に実の結ぶ人生を送ることができるということです。なぜなら、永遠の命という実を結ぶことが究極の幸いだからです。その幸いを得る者こそが、この地上でも豊かな実を結ぶ人生を歩むことができるのです。そのつながるべきお方は、私たちのことを友と呼んでくださいました。それが、今日の聖句です。
 太宰治の「走れメロス」という有名な小説があります。末尾には、この小説がギリシャ神話やドイツ作家の影響下にあると記されていますが、実際には聖書からの影響、直接的にはイエス様の十字架の影響が色濃く出ているとも言われているようです。メロスが友のもとへ戻る期限は三日間、そして殺される刑は磔(はりつけ)、メロスが着せられたマントはイエス様がはおわされたものと同じ緋色、イエス様は民衆の声で殺され、メロスは民衆の声で許されたなどなど、多くの共通点があります。いずれにせよ、その物語を読むと、人間の友情と信じることの大切さ、そして難しさなどを読み取ることが出来ます。
メロスは走るその中で、橋が決壊していたり山賊に襲われたりという苦難を通り、一度は走ることをあきらめようとします(その後は再び走り出して友人を救うのですが)。しかしイエス様は、決して私たちを見捨てず、裏切らず、あきらめようとしない、真の友です。もちろんイエス様は神であり、気高い、聖なるお方でありますが、それと同時に友であると宣言してくださいました。なんという驚き、なんという恵み、なんという愛なのでしょう。世界中に色々な神々と呼ばれるものが存在しますが、友と呼んでくださる神は、このお方ただお一人なのです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年09月23日(日) 聖日家族礼拝

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」ヨハネ14:6
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」 ヨハネ14:18

「道、真理、命」

 ヨハネによる福音書の特徴のひとつは、対話に重点を置いているということです。最後の晩餐の様子は全章から記されていますが、本章にも続けて語られており、それはイエス様から弟子たちへの語りかけとなっています。
 イエス様は、エゴー・エイミー(I am)という言い方でご自身を表現しておられる箇所がありますが、ここでは「道」「真理」「命」だとおっしゃいました。イエス様こそが、永遠の命へと通じる真の道だということです。十字架と復活というこのお方が通られた道を私たちが仰ぎ見て、その真実に触れる時、永遠の命への道が開かれるのだということでしょう。天に昇られた主は、再び来られ、この地を永遠に支配なさる王の王、主の主、まことの神なのです。
 これらの言葉は、これから自分を裏切ろうとする弟子たちに向かって語られたものです。これは木曜の出来事、そしてこの直後にイエス様は捉えられ、徹夜の裁判を受け、金曜には十字架にかかられます。それらこれから起こる出来事の中で、直接の裏切りはユダがしたものですが、一番弟子であるペテロは三回もイエス様を知らないと言いますし、全ての弟子がイエス様を見捨てて逃げ去りました。十字架のもとにヨハネは行きますが、その前には他の弟子たちと同様に逃げ去ったのです。これから自分を裏切る、見捨てて逃げ去る者たちを前にして、イエス様はそれが分かっていて、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」とおっしゃいました。なんという愛でしょう。
 ビル・ウィルソンという牧師先生がおられます。この方は、NYのスラム街で児童伝道に使命を持って活動しておられることで有名です。それはこの先生ご自身が、13歳で親に捨てられ、孤児になり、その中で信仰を持つことによって生かされたという経験があるからだそうです。
 たとえ肉親が見捨て、全ての人に見捨てられたような孤独感を持つことがあっても、イエス様は決してあなたを見捨てることはありません。あなたがイエス様を捨てる時があっても、イエス様はあなたを見捨てないのです。このお方の真理の道を歩み続け、永遠へと導かれて行こうではありませんか。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年09月16日(日) 聖日礼拝

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ヨハネ13:34

「愛し合う」

 本章からは、イエス様の十字架の前日、つまり木曜の最後の晩餐の時の会話や出来事が記されています。そしてこの13章には、イエス様の究極の愛のひとつの形が示されています。それは、これから自分を裏切るユダ、ペテロなど、弟子たちの足を洗うという出来事です。
 パレスチナ地方は乾燥しており、ホコリっぽい、赤茶けた大地が広がっています。そこを素足でサンダルのようなものを履いてみんな歩いていたわけですから、その足はとても汚れていました。そしてその弟子たちの足を、神であるイエス様御自身が洗われました。召使がするようなことを、神であるお方が率先してなさったのです。しかも、数時間後には自分を裏切る者たちの足を・・・。本章の1節には、この弟子たちを最後まで愛し抜かれたと記されていますが、それを具体的に示したのがこの出来事でした。
 阪神淡路大震災の後、被災地を政治家たちが訪れました。私がテレビを見ていると、そこには当時の首相が、ヘルメットをかぶり、作業服を着て、安全靴を履いて、体育館に避難している方々のところへ入っていく姿が映し出されていました。避難所とはいえ、そこは生活をしている場です。しかし当時の首相は、正に土足でそこに入り、あたりを歩き回って終わりました。数日後、天皇陛下ご夫妻が同じような体育館にお見舞いをなさっている姿が放映されました。その姿は、首相の時のそれとは全く違っていました。ご夫妻で普段着を来て、体育間に入る時は靴を脱いで、一人一人のところで膝を折ってかがみ、手をとりながらお話をなさっていました。訪問を受けた人々は、感動のあまり涙を流していました。天皇陛下が靴を脱いで、一人一人の目線で話をしてくれたということが嬉しかったということでした。数日前の首相の姿とはあまりに対照的だったため、私はこの二つの映像を強烈に覚えています。
 イエス様は、神であるのに、私たちと同じ世界へと降りて来られました。しかも、同じ目線に立っただけでなく、裏切り者の下にまでくだってくださったお方です。その愛は、私たちにも示されました。神を神としない私たちのために、十字架で命を投げ出してくださったのです。このお方の愛を受け止めた者は、その愛を実践する生き方へと変えられることでしょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年09月09日(日) 聖書礼拝

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 ヨハネ12:24

「一粒の麦」

 麦は、日本人にとっても欠かせない食材ですね。麦茶、麦飯、麦そば、麦パン、麦チョコなどなど、これらは日系スーパーに出かければどこででも目に入るものです。そんな食卓を豊かにする麦製品ですが、もともとは小さな一粒の麦が畑に蒔かれるところから全てが始まっています。
 この聖句は、イエス様が十字架を前にして言われたものです。生き返ったラザロの兄弟マリアは、葬りの準備としてイエス様の足に香油を塗りました。そして日曜日、イエス様はエルサレムに入城し、人々は「ホザナ」と叫びながらイエス様をお迎えしました。この金曜日に、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は、神様が人となって地上に来られたお方です。そのお方が地上に蒔かれ、十字架で死んだことによって、永遠の救いという大きな実が結ばれました。こうして私たちは、天国への希望に入れられたのです。お方が死んだからこそ、救いの出来事は完成したのです。
 イエス様は私たちのために、一粒の麦になってくださいました。ですから私たちもまた、一粒の麦となろうではありませんか。私たちは、家族の中に、親戚の中に、会社に、友人知人の中に、そしてこのベイエリアに、日本人社会の中に蒔かれた種です。その種が種としての役割を果たす、つまり蒔かれた場所において芽を出す役割を果たしたならば、それは必ず豊かな実を結びます。それは個人個人の役割であり、地域の中での教会が持つ役割でもあるでしょう。
 種は、蒔かれなければ、そして芽を出さなければ、役立ちません。役立たないどころか、いつか腐ってしまいます。信仰とは、それと同じようなものです。自分の中にだけ主の恵みを溜め込んでいたら、それは主の御旨にかなった生き方とは言えません。あなたが遣わされた場所、蒔かれたそのところで目を出し、役目を果たす時、その芽はやがて豊かな実を結ぶことでしょう。もちろん、育ててくださるのは神様ですから、力んで疲れることはありません。主にゆだねることが大切です。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年09月02日(日) 聖日礼拝

「イエスは涙を流された。」 ヨハネ11:25

「イエスの涙」

この箇所はギリシャ語原本では三つの語から成っており、聖書の節の中ではもっとも短いものだと言われています。しかしその短い言葉の中に、実に深い恵みが表されています。
イエス様と最も親しかったマルタとマリアとラザロという家族ですが、そのうちのラザロが深刻な病にかかってしまいます。そこで姉妹はイエス様に助けを求めますが、その間にラザロは死んでしまいます。イエス様が与える永遠の命については姉妹は理解していましたが、この地上での奇蹟をイエス様はなしてくださいました。そのことが、11章には書かれています。
結果的にイエス様はラザロを生き返らせたのですが、その前、つまり死んだラザロの墓の前に立ったとき、イエス様は涙を流されました。その涙の意味は、親しい者が死んだという悲しみです。神が人となり、人として生きた、そのお方がイエス様です。ですからイエス様は、人間の中にある悲しみを味わってくださったのです。だからイエス様は、私たちの悲しみも痛みも分かっていてくださいます。このようなお方が私たちの神なのです、何と素晴らしいことなのでしょう。
この涙の意味は、もう一つあります。それは、罪のゆえに死を経験しなければならない人間への悲しみの涙です。人は神様を心に宿すことをせず、罪を犯しています。ですから人は、いつか死ななければなりません。それは罪の結果です。しかしイエス様は、永遠の滅びの身代わりとして十字架で死んで、三日目に復活し、永遠の御国へと私たちを導いてくださるお方です。ですから私たちは、イエス様を信じるだけで救われます。イエス様の涙によって、私たちは救われているのです。
身内を亡くした経験は、誰にだってあるでしょう。しかし知ってください、イエス様が共にいてくださるということを。このお方はあなたの救い主、永遠の命を与える神なのです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行



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