ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年08月26日(日) 聖日家族礼拝

「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」 ヨハネ10:11

「良い羊飼い」

 イエス様は、7節でご自身のことを「羊の門」、そして9節では「門」だと紹介しておられます。羊は弱く、迷いやすい存在です。人間の保護なくしては、生きていけません。そのように、私たちは神様なくしては永遠の命を受けることは出来ないのです。そしてその私たちは、門であるイエス様を通って、救いの道を歩くのです。
 そしてこの10節でイエス様は、自らがその羊を養う良き羊飼いであり、十字架で命を投げ出すほどに愛していてくださるとおっしゃいました。パレスチナは牧草が豊富ではないので、良い羊飼いでなければ羊を養うことはできません。私たちの人生は、イエス様以外で養われることはないのです。
 先週は、AMDGチームの一人のメンバーが証をしてくれました。彼女は、自分の力で生きてきたわけですが、お母様の深刻な病という、自分ではどうすることもできない現実を突き付けられた時、自分の無力さを味わい、神様を求めたということでした。
 日本人の多くは、「宗教を持つのは弱い人間のすることだ」と言いますが、本当に人間はそれほど強い存在なのでしょうか? 政治家が自殺し、人気歌手も自殺するという、それがこの世の現実です。しかし、イエス様は良い牧者です。この方に在る人生を歩むならその人の人生は養われ、永遠の命の憩いの場へと導かれるのです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年08月19日(日) 小金井AMDGチーム

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」 ヨハネ15:5

「キリストにとどまる」

 ぶどうの枝は、木につながっていなければ生きていくことはできず、ましてや実を結ぶことはできません。それはちょうど、電気製品のコンセントがアウトレットにつながっていなければ、何も動くことができないような、そんな状態のようです。コンセントがアウトレットの近くにあっても、絶対に電気は通りません。たとえ1ミリだけ離れていたとしても、決して電気製品は動くことはないのです。そのように、人は神様から離れては生きていくことはできません。
 私たちの小金井教会は、54年前にミリカン先生という宣教師によって始められました。初期にミリカン先生といっしょに労した方の証言によると、ミリカン先生は毎朝早く起きて、泣きながら祈っておられたそうです。その祈りによって神様とつながる姿が、私たちの教会の原点だと言えるでしょう。こうして神様は今も、私たちの教会を通して多くの実を結び続けていてくださいます。
 これは、一人一人の人生においても同じです。キリストにとどまること、それを忘れないでください。私たちはお互いに別々の場所に住み、生活していますが、キリストにとどまり、神の家族として生きていきましょう。そして永遠の世界を目指していきましょう。

ADMGチーム 小金井フリーメソジスト教会 副牧師 野尻道人




2007年08月12日(日) 聖日家族礼拝

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』」 ヨハネ9:3

「主の栄光を現わすために」

 イエス様と弟子たちが歩いていると、生まれつき目が見えない人を見かけられました。そこで弟子たちは、目が見えない理由は、彼自身の罪か、もしくは親の罪が原因なのかと質問します。旧約聖書の「ヨブ記」を読んでも、同じようなことが書かれています。友人たちは、ヨブの病は因果応報だと攻め立てるのです。しかしイエス様の回答は、この聖句の通りでした。
 星野富弘さんの「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」という有名な詩があります。首から下が全部麻痺した状態で、富弘さんはイエス・キリストを知りました。そして、命よりも大事なもの、すなわちキリストに在る人生の豊かさを知ったのです。そのような生き方をする富弘さんの生涯を通して、主の栄光の業は現され、その姿に多くの人が感動しています。「神のわざがこの人に現れる」とは、このようなことを言うのでしょう。
 今も昔も日本では、占い師と言われる人がテレビや何かで、「あなたが不運なのは、先祖のタタリです」とか、「バチが当たったのです」というようなことを、まことしやかにしゃべっています。そして多くの人はそれに影響され、恐る恐る生きていかなければなりません。しかし私たちの主は、人生に恐怖を与えるお方ではありません。それとは全く逆で、その人の人生に栄光の業を現してくださるのです。苦難の理由は、結局この人生では回答を得ることが出来ないかも知れません。でも、主は必ずその人の人生に光を与えてくださるのです。聖書はそれを語っているのですから、私たちお互いはそれを信じ、受け止め、十字架と復活を仰いで参りましょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年08月05日(日) 「いのちの光」 聖日家族礼拝

「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」 ヨハネ8:12

「いのちの光」

 この聖句は、“仮庵(かりいお)の祭”の中で言われたものです。その祭りとは、収穫祭とも言われ、収穫を感謝する祭りです。それと同時に、かつてエジプトで囚われの身であったユダヤ人が神様によって救出された、そのことを記念する祭りとして大切にされているものです。エジプトを脱出した民は、荒野で仮の小屋に住み、旅を続けました。そういう苦難を思い出し、救い主である神様の恵みを忘れないように、この祭りは祝われていたのです。その最中、イエス様は「私こそがまことの光です」とおっしゃいました。出エジプトの時、神様は昼は雲の柱、夜は火の柱となって、常に彼らを導きました。そのように、イエス様こそが永遠の世界への導き手として、私たちを照らし出すのです。
 この聖句の前には、姦淫の女の出来事がありました。姦淫の罪を犯した女が、公衆の面前に連れてこられました。そして宗教者たちはイエス様に向かって、この女をどうしたら良いと思うか迫ったのです。もしイエス様が許せば、ユダヤの律法を破るのか(=旧約聖書を退ける=神に背く)と責め立てるつもりでしたし、もし律法に従って殺せと言えば、「愛がない」だとか、また「ローマの規律に背いて勝手に裁くのか、反逆罪だ」と罵ろうとしたのです。どちらに転んでも責めを負うような状態の中、イエス様のおっしゃった回答は意外なものでした。それは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」というものでした。罪の無い人間などいるはずもなく、人生を長く生きて罪を多く経験したであろう老人たちから去っていき、誰もいなくなってしまいました。
 人々の心には、女の醜さと汚さ、またイエス様に対する憎しみや嫉妬だけが支配していました。しかしイエス様は、その女がなぜそのようにしか生きられないのか、その悲しみや痛み、心の叫びに耳を傾けておられたのです。イエス様が女に言った「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」という言葉の「行きなさい」には、原語では「生きて行きなさい」という意味があるそうです。女の毎日は、食べて寝て生きていましたが、本当の意味で生きているとは言えない状態だったでしょう。しかしイエス様は、彼女に光を与え、生きることができるようにしてくださったのです。イエス様は私たちの汚さも、醜さも、弱さも、全て知っていてくださり、それを赦し、愛し、光を与え、永遠の命へと導いてくださるのです。主の十字架と復活を仰ぎ、生きていきましょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行



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