ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年07月29日(日) 聖日家族礼拝

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」 ヨハネ6:35

「いのちのパン」

ここで「私が〜です」という表現は、ギリシャ語では「エゴー・エイミー」と言い、英語では「I am」ということでしょう。本書では度々使われているもので、イエス様はそう言いながら、ご自身を色々な形で表現しています。ここでは、イエス様は「いのちのパン」だと、ご自身を表現しておられます。私たちはお腹がすけばパンを食べ、満ち足ります。そのように、心を満たすのはイエス様だというのです。パンは、いつしか消化され、またお腹がすいてしまいます。しかしイエス様というパンは、その人のうちで消化され、栄養となり、血となり肉となって生かすのですが、一時だけのものではないのです。
本章には、五千人の給食の記事と、それに続いて海上歩行の記事があります。五千人の給食とは、たった五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満たしたという奇蹟です。海上歩行とは、荒れ狂う波の上をイエス様が歩いて来られたという奇蹟です。弟子たちは、五千人の給食の出来事において、素晴らしい神様の御業を体験しました。しかし間もなくのこと、自分たちを襲った嵐の前には、すっかり神様を忘れ、恐れに支配されてしまいました。そこにイエス様が波の上を歩いて登場し、溺れるペテロを助け、波を静められたのでした。
あれほどの神様の恵みを体験したのに、困難があれば、人は神様から背を背けてしまう存在です。また逆に、神様を必要としなくなるほどの幸せが手に入れば、人は神様を忘れてしまいます。人間は実に身勝手であるわけですが、それでもイエス様の愛は変わらない、堕ちて流れ去っていくような私たちに手を伸ばしていてくださるというのです。ですから私たちはイエス様に目を向けて、差し伸べられたその手を握り返そうではありませんか。
私は修養会ごとに、子供たちのためにテーマソングを作詞作曲しています。今年は「イエス様だけを見て歩こう」という歌を作りました。その歌をうたう子供たちを見て、一人の青年スタッフが感動し、私のその恵みを証してくれました。イエス様だけを見て歩むことの大切さ、変わらずに愛してくださるお方を改めて知った彼女の証を読んで、私もまた感動を新たにしました。
みなさん、イエス様を見て歩むなら、イエス様はその人を満たします。いのちのパンであるイエス様を受け入れる者は、決して飢えず、渇くことはありません。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会
牧師 榊原宣行




2007年07月22日(日) 聖日特別礼拝 講師;佐藤彰牧師

「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』 その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」 創世記2:15〜18

「人間の原点」

 この聖書の箇所には、四つの人間の原点が示されています。第一は、「自然」ということです(15節)。私の知人で心の病を負っていて、「水平線を見ていただけで、次第にいやされてきた」とか、「家庭菜園をして土いじりをしたことが、いやしのきっかけになった」という方がいます。アダムの語源は「土」ですが、正に人は土を触り、自然と共に生きてこそ、本当の生き方をすることが出来るようになるのです。
 第二には、「仕事をする」ということです。15節に、「耕せ」「守れ」とあります。これは仕事をせよ、つまり、自分のなすべきことをする、使命に立つということです。この地上の歩みは、順番待ちをする病院の待合室ではありません。天国からお呼びがかかるのをじっと待っていればいいという、それではあまりにも生き生きとしていません。あなたには、あなたにしか出来ない神様の使命があります。
 第三は、「自由」ということです(16節)。神様は、人間をロボットのようにつくったのではありません。エデンの園の何を食べても良い、何をしても良いと、自由を与えられたのです。つまり人は、この人生を楽しく生きるべきだということです。神様が与えられた自然を尊び、人生を耕すならば、もっともっとその人の人生は楽しめるはずです。
 第四は、「家庭」です(18節)。家庭は神様からの賜物で、その家庭を大切にしてこそ、本当の平和があります。
四つの人間の原点を挙げましたが、どれも現代社会はずいぶんそこからずれています。自然は破壊され、人は目的を失い、人生を楽しむことなく、家庭は崩壊しています。この四つの原点を生きるために必要なのは17節、つまり神を第一にして生きるということです。神様を自らの主としてこそ、人は本当の生き方をすることができるようになるのです。
私の娘は、保健室の先生を目指し、今はそこで働いています。大学入試の時、また卒業後の公務員試験の時に、動機を記す必要があったのですが、そこには、「神様や親や教会の人たちに愛されて育ち、ある時に教会のキャンプで恵みを受け、その愛に応える生き方をしたいと思った」と書こうとしました。親としては、「これではあまりにキリスト教すぎて、一般には受け入れられないだろう」と思い、キリスト教用語の箇所は一般的な用語に書き直すように進言しました。しかし彼女は、ありのままのことを書きたいと主張し、ゆずらなかったのです。そしてその結果、多少は「保健室で布教するのか?」とか、「新興宗教の人が来たらどうするのか?」などと質問されたそうですが、たいした問題もなく、無事に大学も公務員試験もパスしました。
みなさん、神様中心と決めたら、ひたすらその道を歩み続けましょう。この世の知恵に頼って生きるとか、アレコレひねって生きるのではなく、自然の中で、自分の使命に立ち、自由に、家庭を大切にしながら、神を仰いで生きようではありませんか。

特別講師 佐藤彰牧師




2007年07月15日(日) 「起きて歩け」

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」 ヨハネ5:8

 ベテスダの池、それは今で言うところの間欠泉、その周りに大勢の人が集まっていました。そこに入ればいやしの効果があったということから、われ先にとそこで水が吹き出るのを待ち望んでいたのです。そこに、38年もの長きにわたって病を患っている人がたたずんでいました。並んでいてもいつも先を越され、今日もいつものようにそこにたたずんでいたのでした。イエス様は彼に出会い、「治りたいのか?」と尋ねられたのです。治りたいに決まっています。でも、あえてイエス様はそういう質問をされました。それは、彼の意志、言い換えれば信仰を確かめたのです。そしてイエス様は上記の聖句を述べられ、彼はいやされ、立ち上がりました。
 信仰のない所に、業は起こりません。適当な思いで祈っても、それが応えられるはずがないでしょう。しかしそれは、何でも願えば思い通りになるという意味ではありません。子供が親に、熱心に求めれば、親はそれが必要かどうかを見極め、与えるでしょう。そのように、神様は私たちの必要に応じて、最善をなしてくださるお方なのです。
 私は久しぶりに日本へ一時帰国し、一昨日戻りました。皆さんのお祈りと、留守を守ってくださったことに感謝します。久しぶりの日本でしたから、すっかり浦島太郎になったような気持ちでした。道路はよく整備され、電車やバスは網の目のように完備され、便利なお店は立ち並び、何でも思い通りになるのが日本の社会です。私はアメリカ生活が長くなりましたので、こんな便利さを忘れていましたが、今回久しぶりに帰国して、改めて日本の豊かさをしみじみ思いました。しかし、だからといって、日本人はみな生き生きとしているでしょうか? 中高生ばかりでなく、中高年や老齢の方々、そして政治家や芸能人までが自殺しています。皆、不安をかかえて生きているのです。ベテスダの池の男は、生きていましたが、霊的に死んだ者でした。多くの日本人もまた、生きているのに、霊的に死んでいます。だから主は今日も叫んでいます、「起きて歩け!」と・・・。
 クリスチャンであっても、苦しみや悩みや痛みを負います。また、罪を犯すこともあります。でも主は、そんなあなたにも、「起きて歩きなさい、大丈夫、いつでも立ち上がって再出発できるんだ」とおっしゃっているのだと私は確信しています。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行




2007年07月08日(日) 主にゆだねて生きる

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」 ヨブ1:21

*本日のペニンスラ教会の礼拝には宣行牧師は不在だったため、日本の坂戸ホーリネス教会の講壇で本日語られた宣行牧師のメッセージを掲載します。

 ヨブは、神様の前に正しい人でした。サタンは神様に、そしてヨブに挑戦し、財産や持てるもの全てを奪います。しかしヨブは、この聖句を述べ、神様に従い続けました。
 この坂戸教会の主任牧師であられる郷家先生は、神学校時代の先輩です。郷家先生との一番の思い出は、毎週木曜日に公園へ伝道実習に行ったことです。三人一組となって公園へ行き、子供たちに伝道するのですが、新入生の私は、先輩の郷家先生に習って、何とか頑張ろうとしました。しかし、どうやって子供たちに神様のことを伝えたら良いのか分かりません。「子供たちにさえ福音を語ることが出来ないなら、私は牧師になど到底なれるはずがない・・・」と、自信をすっかり喪失し、神学校を辞めたいと思い、夜逃げをしてしまったのです。ところが逃げる途中にある人に見つかって引き戻されました。その人は、涙を流して私のために祈ってくださいました。それから、私は祈ることをはじめました。毎朝、早天祈祷会よりも1時間早く、朝5時に起きて祈り続け、やがて必要な力が与えられ、子供たちに、そして大人に対しても、メッセージを語れるように変えられたのです。
 この時の私の苦しみは、二度と経験したくはありませんが、無くてはならないものでした。それがあったからこそ、祈ることを覚え、神様に頼ることを学んだのです。苦しみは、後になって意味が分かることがあると、それもまた教えられたことでした。しかし、ヨブの場合は、必ずしも解決が与えられたわけではなく、納得いく答えが告げられたわけでもありませんでした。でもヨブは、神様の臨在に触れるということによって、勝利が与えられ、生きていきました。私たちもまた、後になって理由が分かることもあれば、結局最後まで意味が分からない出来事もあるでしょう。そうであったとしても、永遠の世界へ目を向けるならば、必ず明日を生きる力が与えられていくはずです。神様はあなたに明日を、そして未来を、永遠の世界を約束しておられます。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行




2007年07月01日(日) 「サマリヤの女」

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」 ヨハネ4:13〜14

 サマリヤとは、北イスラエルの末裔の人々の居住区です。ある日イエス様は、そこを通られて、一人の女性と出会いました。南ユダの末裔であるイスラエルの人々(現在のイスラエル、ユダヤ人)は、サマリヤなどは通りません。彼らは互いに敬遠しあい、特にユダヤ人たちはサマリヤの人たちを軽蔑していたからです。これは旧約時代の出来事から続いていることで、話すと長くなりますので割愛しますが、いずれにしてもそういう相容れぬ関係だったわけです。ところがイエス様は、主の栄光の業を現すために、あえてサマリヤを通られました。
 サマリヤの女は、渇いていました。それは肉体の渇きではなく、心の飢え渇きです。彼女は昼間、井戸の水を汲みに来ました。パレスチナは乾燥した場所で、日中にそのような行動はしません。彼女が昼間にそのようなことをした理由は、誰にも会いたくなかったからです。イエス様との会話で、5人の夫が過去にはあり、現在同棲している相手もいるということがわかります。そのように、彼女は自らの心の渇きを満たすために、快楽やこの世的な安心感を求め続けました。一時的にそれは彼女を満たしたでしょうが、すぐになくなり、また次に求めるということを繰り返してきたわけです。
 これは2000年も前の話ですが、今も全く同じです。人は心を満たそうとして、富に、名声に、異性や快楽にそれを求めます。しかしそれは、すぐに乾いてしまうものなのです。しかし、イエス様が与える救いの水は、決して渇きません。そればかりか、泉となって永遠のいのちへと導くのです。その泉を得るために私たちがすべきこと、それはキリストを仰ぐということだけです。そんな都合の良い話があるのか・・・と思う必要はありません。神はそれほどに私たちを愛しているのですから。
 以前私がNYに行った時、宿の主人が、「サムライっていう人から電話があって、来週泊まりたいっていうんだよ」と笑って言うのです。「え?サムライさんですか?そんな人、いるんですか?」と私が聞きなおすと、「そうなんだ、私も不信に思って何度も聞き返したけど、サムライだと言い張るんだよ」と笑うのです。でも実はその人はサムライではなく、サム村井さんという日系人でした。とんだ勘違いに、二人で大笑いしたことでした。
 今日のイエス様のみことばは、勘違いなどではありません。事実であり、真実であり、唯一の救いの道なのです。もしかしたら、クリスチャンであっても、「私はダメだ」「こんなことでは救われていまい」などと自信をなくしているかも知れません。でも、心配しないでください。イエス様が「救う」と言った約束は、絶対なのです。主が与える泉は、今までも、今も、これからも、満ち満ちてあなたの心をうるおし続け、永遠へと導きます。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行



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