| 2007年04月29日(日) |
『十字架の七言 3』 2007年4月29日 |
「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』。それからこの弟子に言われた、『ごらんなさい。これはあなたの母です』。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。」ヨハネ19:26〜27
イエス様の十字架上での三言目は、母マリアへの愛と慈しみの言葉でした。「婦人よ」という呼びかけは、日本語に訳しているので何かよそよそしい感じがするのですが、これは一般的な呼びかけの言葉だそうです。 聖書には、30歳になるまでのイエス様の家庭のことは、ほとんど書かれていません。映画「パッション」に出てきた親子のエピソードは、作り話です。でも、あのような温かい人間としての親子関係が、きっとあったはずです。イエス様は神でしたが、人としてこの地上に来られたお方だからです。こうしてイエス様は、十字架で死に行く息子を前にした母親に向かい、最後に精一杯の愛を示されたのでした。 聖書は、神様を愛することを教えています。そして、神様に愛されていることを伝えています。ですが、その愛をこの地上において私たちが具体化すべきこともまた教えています。神様を愛し、神様に愛されていることを喜ぶ者は、お互いに愛し合うという道を歩むべきなのです。 マザー・テレサは、「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」と、初来日した時におっしゃいました。世界を見渡したら、日本をはじめ、アメリカも、どこもかしこも、愛に飢え、愛を必要としている場所だらけです。私たちに何が出来るでしょうか? あなたは神様から愛されています。愛されていることを喜ぶ時、その愛を分け与えることが出来るようになるでしょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
| 2007年04月22日(日) |
『十字架の七言 2』 |
イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」 ルカ23:43
先週から、十字架上でのイエス様の言葉からメッセージをしていますが、今日は二間目となります。この言葉は、「主を信じる者は誰でもいつでも救われる」という意味での、究極の宣言ではないかと思います。
ゴルゴダの丘には、三本の十字架が立っていました。一つはもちろんイエス様の、そしてもう二つは死刑囚のものです。この死刑囚は、死罪に相応する犯罪人でした。そのうちの一人が、イエス様を「キリスト」と呼び、口を開きました。「キリスト」とは「メシア」「油注がれた者」、つまり「救い主」という意味なのですが、彼は本当はそんなことを信じて言ったわけではありません。兵卒や宗教者や民衆と同じく、嘲笑の意味でそれを口にし、その内容は「あんたがキリストだっていうなら、自分を救ってみたらいいだろう。そして、この俺を救ってくれ」という汚れと自己中心に満ちたものでした。ところがもう一人の死刑囚がそれを聞き、「神を畏れないのか? 俺たちが死刑になるのは当然だが、このお方は無実なのだ。」と言ったのです。しかも彼は、「キリスト」という称号ではなく、「イエス」という固有名詞で呼びました。そこに、死の最後のギリギリのところで彼の持った信仰、そして謙虚さが表されていると言えるでしょう。こうして彼は、永遠の救い、パラダイス、楽園へと入れられたのでした。
神を神としないことが、聖書で言うところの「罪」です。その罪は、決して赦されるものではありません。しかし、イエス様は身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そのイエス様を受け入れる者は、どんな人であっても、今がどんな状態であっても、過去にどんなことがあった人であっても、必ず救われます。これが聖書の約束であり、神の愛なのです。そのことを受け止めながら、もう一度主の前に感謝しつつ、歩もうではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
| 2007年04月15日(日) |
『十字架の七言 1』 |
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」 ルカ23:34
先週は主イエス・キリストの復活を祝うイースターでした。私たちの礼拝では、今週から7回にわたり、もう一度十字架の主をふりかえり、十字架上での七つの言葉を順番に開いていきたいと思っています。
今日は、十字架上での第一の言葉を読みました。これは、十字架に磔(はりつけ)にした兵士にだけではなく、嫉妬に狂った宗教者たち、裏切った弟子たち、そして自己中心によって罪に陥った民衆に向かって語った言葉だといえるでしょう。そればかりでなく、神を退けて生きてきた私たちに対しても語られた言葉です。神を神としないで生きることは、恐ろしい罪です。しかしイエス様はその赦しを祈ってくださり、身代わりとして十字架で死なれました。こうして私たちは、神の赦しを得るに至りました。
この十字架上の祈りを、別の人が祈ったという記録が聖書にはあります。それは使徒行伝に登場するステパノで、最初の殉教者となった人物です。彼は、キリストの十字架と復活の福音を伝えたために迫害され、石で打たれました。絶命のさなか、ステパノが祈った祈りが、この祈りだったのです。自らを誤解し、迫害する者のために、果たしてこういう祈りが出来るでしょうか? 私には難しい・・・と、自分自身を見つめたら、正直に告白しなければなりません。しかしイエス様は、罪に汚れた私のために、そう祈ってくださいました。だから私も、少しでも主イエス様の御思いを自らのものとしたいと願わされるものです。主が私を愛されたように、他者を愛したいと願います。主が私を赦してくださったように、私も他者を許したいのです。そんな祈りを、今日も主の前に献げさせていただきましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」 ルカ24:32
イエス様は十字架にかかって死なれましたが、三日目に復活しました。それは信仰の目を開かなければ、信じることは出来ないかも知れません。実際、弟子たちすら信じることが出来なかったのです。エマオへ向かう途上の二人の弟子は、イエス様が復活したという知らせは受けていましたが、実際にまだ見てはいませんでした。ですからその知らせを認めることが出来ず、戸惑っていたのです。そしてイエス様が目の前に現れても、それがイエス様だとは気付かなかったのです。そんな二人でしたが、聖書を、そしてキリストの救いを熱心に語るその人と接している中で、ふとその人がイエス様であることに気付きました。こうして今までのことを思い起こした二人が語った言葉が、今日の聖句です。
主は今も生きておられます。十字架で私たちの罪を背負って死なれましたが、復活し、私たちに永遠の命を与えてくださるのです。だから私たちには、希望があります。悲しみ、苦しみ、痛み、嘆き・・・この地上は苦悩に満ちていますが、復活の主に目を向けましょう。癒しはそこから与えられ、完全な癒しは永遠の御国にて与えられます。
私は弟を交通事故で亡くしましたが、それから30年が経ちました。そして今年、あの事故を目撃したという弟の友人から、突然父のところへ連絡がありました。弟は自転車事故で亡くなったのですが、その友人は、弟の後ろを走っていたというのです。彼は30年間、「自分が生きてしまって後ろめたい」と思い、その気持ちを隠しながら生きてきたというのです。そしてこの30年の節目に、思い切って父のところへ初めて連絡をくださいました。父は彼に出会い、「30年後の息子に出会えたようで嬉しかった」と言っておりました。
実は私も、「俺が死んでいて、弟が生きていればよかったのに」と、30年間思い続けてきました。「弟だったら俺みたいに親不孝をしなかっただろうし・・・」などと考えて、罪の重荷を負い続けてきました。しかし30年後、この友人と父との出会いを通し、私自身も癒しを受けた思いです。上手く言葉には出来ませんが、ともかく神様が不思議な業を起こしてくださったとしか言いようがありません。
主と共に歩むなら、神様は大きな恵みを必ず注いでくださいます。誰が30年後の恵みを予想したでしょう? それどころか、永遠の御国では、完全な癒しが与えられるのです。このお方を思うなら、お互いの心は燃えるでしょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 ルカ22:42
今日は「パーム・サンデー」、日本語で言えば「棕櫚の聖日」です。イエス様は十字架で死なれる前の日曜日、子ロバに乗ってエルサレムに入城されました。その時人々は、棕櫚の葉を手に取りながらイエス様を大歓迎しました。それを記念するのが「パーム・サンデー」で、この金曜は十字架の「グッド・フライデー」、次の日曜は復活を祝う「イースター」と続きます。
2000年前、宗教家たちはねたみのためにイエス様を殺しました。そして弟子たちは、私利私欲にまみれてイエス様を裏切りました。そして民衆は、自らの勝手な考えでイエス様に救世主の期待をし、その欲求が満たされないとわかると、日曜に大歓迎したはずのイエス様を金曜には十字架へと追い込みました。これが聖書の言うところの罪です。罪とは、何かを盗むとか、ウソをつくとか、そういうことの根源にあるもの、つまり原罪です。神様を主として心に受け止めない、自己中心的な生き方を、聖書は罪と言っているのです。この罪が、イエス様を十字架につけました。そしてその罪は、私たちの中にもあるわけですから、私たちは誰もが罪びとであり、その罪人のためにイエス様は身代わりとなって十字架で死んでくださったのでした。
この聖書のみことばは、イエス様が木曜日の晩に祈ったものです。イエス様をしてこのように祈らせるほどに、私たちの罪は重く、汚れているということです。それでもイエス様は、私たちの罪も、重荷も、痛みも、つらさも、悲しみも苦しみも背負って、十字架で死んでくださいました。そしてその勝利によって、私たちには永遠の命が与えられました。このお方の愛を受け、私たちは主を見上げて進み行こうではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
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