「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」 ルカ19:9〜10
今日の聖書箇所の背景であるザアカイとイエス様のエピソードは、聖書の中でも最も有名なものの一つでしょう。取税人であったザアカイは、ある時イエス様見たさに出かけますが、背が低かったために人の山にさえぎられて、何も見えません。そこでいちじく桑の木によじ登ってイエス様を見ようとしたところに、イエス様の方から声をかけられたというのです。そしてイエス様は彼の家に行き、この聖句をおっしゃったのでした。取税人は、当時ユダヤを支配していたローマに仕える卑しい者、つまり売国奴のように思われていましたし、不正に取り立てることもままあったようで、罪びとの代名詞のように言われていました。ですからその場にいた人々は、ザアカイの家にイエス様が行くと聞いた時には驚きました。それでもイエス様はザアカイを愛し、救いを家にもたらしたのでした。家族が同じ神様を主として歩むことは、何と尊い恵みなのでしょう。神様は、一人の人が救われたなら、家族にも最善を成してくださるお方ですから、主にお任せして祈りましょう。 先日の21日で、私の前任者であられた梅北伸雄牧師が召されてから丸7年になります。7年前、教会では梅北先生が癒されるようにと祈り続けましたが、主の御旨はそうではありませんでした。先生は召される前、役員たちを枕元に招き、「聞かれない祈りもあるということを知った。それでも私は主の召しに喜んで従う」とおっしゃったそうです。そして、教会員の一致、更に美代子夫人と教会員たちへの感謝を述べられたということです。 死を前にしてこのような平安を得ることが出来るということ、これがイエス様の救いを得るということの偉大な力です。この救いがあなたにも、そしてあなたの家族にも、親しいお友達にも与えられるように、お互いに祈りの手をあげ続けて参りましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
| 2007年03月18日(日) |
『ラクダが針の穴を通る?』 |
富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい』・・・イエスは言われた、『人にはできない事も、神にはできる』 ルカ18:25,27
ラクダは、パレスチナ地方で最も大きな動物です。また針の穴は、最も小さなものを象徴しています。「イスラエルには“針の穴”という小さな門があったのだ」と仮説を立てる人もいるようですが、それが正しいのかどうかは証明されていません。もしそれが門なら、ラクダに乗せた荷物を降ろせば、通れるかも知れません。富んでいる者・・・つまり、神様以外のものをたくさん持っている人は、それを降ろせば神の国への門を通れるのでしょうか。でも、本当の針の穴であるなら、背負った荷物を降ろしたくらいでは、ラクダがそこを通ることは不可能です。いずれにしても、ちょっとやそっとでは神の国には入れないと、そういうことが言われているわけですね。 それではいったい誰が神の国に入れるのでしょうか? それは、私たちの頑張りや、多少の真実さなどではありません。一方的な神様の恵みによるのです。人には、天国に入る術はありません。全て、イエス様側からの愛の業なのです。 今日の礼拝で受洗される姉妹は、おじいさんの死を通して、信仰の決意をされたということです。おじいさんが亡くなる直前、私は彼女たちに呼ばれて病室を訪れました。そして聖書を語り、永遠の国の希望を伝えました。それまで死を前にして不安に満ちていたおじいちゃんは、この祈りを終えた後はすっかり平安を得て、そのまま天に召されて行かれました。このおじいちゃんの姿を通して、姉妹は信仰の決断をしたということです。 おじいちゃんの救いは、私が与えたものではなく、医者が与えたものではなく、全て天から与えられたものでした。この地上のものでは、死に打ち勝つことなど出来るはずがありません。でも、人には出来ませんが、神様には出来ないことはありません。全能なる主を仰ぎ、主に信頼して、お互いに歩み続けようではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
| 2007年03月11日(日) |
『小さな忠実、大きな恵み』 |
「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」 ルカ16:10
今日の聖句は、一般的な教訓としても意味があるように思えますが、それだけではありません。「小事」とは、この地上の生き方のことです。そして「大事」とは、永遠の御国を指しています。つまり、この地上の歩みが、天国へと続いているのだということです。 16章には、ラザロと金持ちについての譬え話が語られています。貧しいラザロは生前は報われない日々を過ごしていますし、金持ちは幸せを手にしているかのように思えます。しかしある日、二人とも亡くなります。そしてラザロは天国へ、逆に金持ちは滅びへとくだってしまうというのです。 これは、名声や富を得ることを戒めた宗教的な訓示ではありません。宗教とは、ストイックな生活を強制するものと理解されがちですが、聖書はそんなことは言っていません。この地上でどのような生き方をするのか、そしてそれが天国の恵みへとつながっていくのだということを教えています。もちろん、節制ある生活を望んですることは自らのためになりますので、それは否定しません。でもそういうことではなく、聖書は、神様を第一として地上を生きる者に開かれる恵みについて語っているのです。この金持ちは、その与えられた豊かさを自らのためだけに使いました。しかし、神を中心として生き、他者に手を差し伸べてこそ、その豊かさには意味があるということです。 最近、日本で「Power for Living」という本が話題になっています。これはアメリカの「アーサーS.デモス財団」という保険会社が無料配布しているもので、多くの人が福音に触れて欲しいと願った故アーサー・デモス氏の意志を受け継いで行われたものです。この本の宣伝が新聞やテレビで大々的に行われたそうですから、私もこれが大きな福音の前進になるようにと願わされたことでした。 人間は、豊かさを目指し、向上心をもって生きることは大切です。でも、それが何に土台を置いているのかが重要です。神様を中心として生きる忠実な歩みは、やがて与えられる大きな天国という恵みへのカギとなっています。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
| 2007年03月04日(日) |
『失われた息子を求めて』 |
「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」 ルカ15:32
先週は同じ15章から、失われた羊を捜し求める羊飼いの姿を通して、神様の愛をお話しいたしました。そして今日は、さまよい歩く放蕩息子を愛し、受け止める父親の譬えです。
2人の兄弟のうち、弟は父の遺産を前借して家を出て、放蕩三昧。とことん堕ちた彼でしたが、父は彼を愛し続け、帰ってきた息子を抱きとめ、大喜びをしたのでした。これは神様と私たち人間の姿を表しています。人間は、神様から離れて生きています。でも神様は、私たちが戻ってくるのを待っておられるのです。あなたがどんな姿であっても、主の愛は変りません。十字架の主の愛は、無限に注がれ続けているのです。
この譬えには、更に続きがあります。そこに描かれているのは、帰ってきた弟を喜ばない兄の姿です。兄は弟と違って一生懸命父親に仕え続けたのですから、それは無理もありません。でも、主人が喜んでいるのですから、それを共に喜ぶことこそが、本当の家族の姿なのでしょう。
この兄の姿は、当時のパリサイ人のことを指しているようです。ですが、今の私たちにも当てはまると思います。ローマ12:15には、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」と書かれています。それはちょっと考えただけでは、大して難しいことには思えないかも知れません。ですが人というものは、悲しむ人に対しては案外同情できても、喜んでいる人に対してはジェラシーを持つのではないでしょうか? 自分より低いと見れば優越感を持ち、自分より高いと思えば劣等感、そしてジェラシーを持ってしまうという、これが人間の本性、罪の姿、現実なのではないでしょうか? だからイエス様は、このような譬え話を通して、キリストの愛を喜び、実践することの尊さを教えているのだと思うのです。私たちは今朝、注がれている主の愛に感謝し、その愛を喜ぶお互いとなれるようにと祈りましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
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