「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」 ルカ23:46
この言葉は、イエス様が十字架上で語られた七つ目の言葉、そして最後の言葉です。イエス様は最後の最後まで、父なる神に信頼し、歩み続けられました。イエス様の生涯を振り返ってみますならば、それは父なる神への信頼と従順に満ちていました。嵐の日に小船の中で昼寝しておられたイエス様、十字架の前の晩にゲッセマネで祈られたイエス様の祈り、そして十字架上で見捨てられたことを叫びながらも全てをお任せしたお姿・・・、イエス様の生涯は、父なる神様におゆだねした人生でした。 このイエス様のお姿を模範としながら、私たちも神様を信頼し、お任せして、おゆだねして、人生を歩み続けましょう。しかしそれは、自分の努力が必要ないという意味ではありません。例えば、テスト勉強をしないで、「祈れば勝利が与えられる」などと言うのは見当違いです。自分に与えられた人生をどのように生きるのか、それは個々に任されているのですから、私たちには責任があります。ですが、その土台において、根っこの部分において、神様にゆだねていくことが出来る人は幸いです。 私が牧師になったばかりの頃、一人の子供が平日に教会へ訪ねて来ました。その子は、「宿題をしなかったらお母さんが怒った。だから家に帰れない」と泣きじゃくるのです。私はすぐにその子と一緒に、神様に祈りました。神様に信頼することの大切さ、そして確かさを知ってほしかったのです。それから私はその子といっしょに自宅へ行き、事情を説明して、許してもらいました。神様に信頼しつつ、自らの成すべきことはしたわけですね。 何でも同じようにうまくいくわけではないでしょう。でも、主に信頼した人生には、平安があります。勝利があります。喜び、希望があるのです。イエス様の十字架上の七つ目、そして最後の言葉から、私たちはそのことを受け取ろうではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」 ヨハネ19:30
イエス様が十字架上で話された7つの言葉を順番に見ていますが、今日は6つ目です。前後の文章から言うと、これが最後の言葉のような感じがしますし、そうだという人もいます。いずれにせよ、その命が尽きる直前であることは間違いありません。その時にイエス様は、救いの出来事が完了した、成就したという宣言をなさったのでした。イエス様のなしてくださった救いの業は、完璧だと宣言されました。欠けたる点はありません。パーフェクトな勝利が、2000年前に成されたのです。我らの神は、勝利の主です。イエス様は2000年前、十字架で勝利をとってくださったのです。 先ほどは、子供たちにダビデ少年のお話をいたしました。少年ダビデは、巨人ゴリアテに対して、川原の石一つで勝利しました。その背後には、もちろんダビデの羊飼いとしての経験が生かされたことは間違いありませんが、この勝利は神様によるものだと、それはダビデ自身の言葉にも表されている通りです。主を見上げましょう。そして、勝利を確信し、主にあって歩みましょう。 先週は、日本から次々と信じられないような悲しいニュースが飛び込んできました。子供も若者も、そして大人も誰もが病んでいます。悲しみ、痛み、嘆きの叫びをあげています。私たちもまた、悲しみの涙に明け暮れることがあるでしょう。家族の間で、会社や知人の間で、時には教会でも、様々な問題で悩み苦しみます。しかし、イエス様は勝利の主なのです。このお方を見上げ、そこから勝利をいただこうではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」 ヨハネ19:28
イエス様の十字架上での七つの言葉を見ていますが、今日はその五つ目です。イエス様が言われた言葉は、詩篇69:21の成就でした。これは、肉体的な渇きも当然のこと、それ以上に、神様への渇き、つまり父なる神様を慕い求める言葉だと言われています。 今日は母の日で、子供たちも一緒の家族礼拝です。子供たちには先ほど、「お母さんの顔」というお話をしました。これは昔から伝えられえる有名な話です。そのお母さんは、顔にひどいヤケドの痕があります。小学生になる娘は、そのお母さんの顔が大嫌い。皆が「オバケだ!」と馬鹿にし、いじめるのです。ある日、耐えられなくなったこの娘はお母さんに向かって、「何でお母さんはそんな顔なの!?」と詰め寄ってしまいました。お母さんは仕方なく、昔の話を聞かせたのです。それは、その娘が赤ちゃんだった頃のこと。煮えたぎったスープをかぶりそうになった娘の代わりに、彼女(お母さん)がスープをかぶり、そのせいで顔に大ヤケドの痕があるのだという話でした。赤ん坊だった娘がそれを覚えているはずもなく、また母親も娘を悲しませないようにその話は黙っていたのです。娘ははじめてその事実を聞き、涙を流してお母さんに謝りました。そしてそれ以来、この娘はお母さんの顔が大好きになったということです。 この話は、母親の愛の尊さを教えています。それと同時に、私たちの身代わりとなって十字架に身を投げ出してくださったイエス様を指し示しています。私たちは、この愛なるお方を慕い求めようではありませんか。あなたのために命を投げ出したお方、そのお方に対して渇き、愛し、慕い求めつつ、救いの道を歩み続けましょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」 マタイ27:46
十字架上の七つの言葉を順番に見ていますが、今日は四つ目の言葉です。この四つ目の言葉は、詩篇22篇からの引用です。周囲にいてこれを直に耳にしたユダヤ人たちには、もちろんそれがすぐに分かったことでしょう。この言葉は見捨てられた者の叫び、祈りだったのです。 父なる神様は、一人子なるイエス様を見捨てたのでしょうか? そうです、父と子の豊かな交わりは断ち切られ、神はイエス様をお見捨てになったのです。ですが、神様から見捨てられるのは、罪人である私たちのはずです。神を神とせず、神に背を向けて生きてきた私たちこそが、見捨てられ、この絶望の叫びを口にしなければならなかったはずです。しかし、イエス様はその叫びを身代わりとなって叫び、滅びの呪いを受けて死んでくださいました。ですから私たちは赦され、永遠の命を受けるに至ったのです。 私たちの教会には、子供教会学校があります。日本の教会にそれがあるのは当たり前ですが、アメリカの日系教会ではなかなかそれをすることが難しいので、私たちの教会にそれがあるのは素晴らしい恵みだと思っています。私たちの教会学校には、かつてフォング文代さんという素晴らしい教師がおりました。彼女は数年前、ガンのために地上を去りました。しかし彼女は、死を前にした床にあっても、常に神様を見上げていました。そして亡くなる前日、見舞いに行った私に対して、「私の最大の喜びは、自分の子供たちにイエス様のお話をすることが出来たことでした。そして、もしも私が元気なったとして、一番やりたいことは、教会の子供たちにイエス様のことをお伝えすることです。」とおっしゃったのです。こうして彼女は、その翌日に天国へと召されて参りました。 私はこの出来事を、決して忘れないでしょう。私たちの教会には、そして教会学校には、こんなに素晴らしい方がおられたということを・・・。彼女は、死を恐れず、まことの神様を畏れました。そして、天国への希望と福音の喜びに生きた人でした。皆さん、私たちも様々な苦しみ、痛み、悩み、悲しみ、そして死という究極の敵が人生に立ちはだかってきますが、イエス様は十字架の上で、私たちが叫ばなければならない苦悩の叫びをすでに叫び終え、勝利をとってくださいました。ですから、十字架と復活の主を仰いで明日に向かって、永遠に向かってあなたは生きることが出来るのです。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
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