ぺニンスラフリーメソジスト教会 牧師メッセージ

2007年02月25日(日) 『一匹の羊を求めて』

「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」 ルカ15:7

神様の愛、救い、恵み、天国を指し示すたとえ話が、いくつか聖書に書かれています。今日のテーマである99匹の羊と失われた1匹の羊のたとえ話も、そのうちの一つで、イエス様が語られたものの中でも有名なものでしょう。100匹の羊のうち、1匹がいなくなったら、「1匹くらいいいか」とは思わないで、その1匹のために命を投げ出しても捜し求めるのだと、良い羊飼いとはそういうものなのだと書かれています。

聖書では、神様が羊飼い、人は羊として、度々語られています。羊は、実に弱い存在で、自分だけでは生きていけません。「Sheep」は複数形でも「s」を付けませんが、それは群れでいることが当たり前だからという説があります。他には「fish」もそうですね。なるほど、一匹狼ならぬ一匹羊っていうのは見たことがありません。ですが、人間は自分勝手に生きようと思えば、そうして生きることが可能です。羊とはだいぶ違うような感じもします。でも、羊飼いなる神様のもとを離れて生きることは、本当に生きているということになるのでしょうか? この地上の生涯はそれで何とかできたとしても、永遠の命を得ることはできません。そういう意味では、羊飼いなる神様から離れて、人は生きることは決して出来ないのです。神様から離れて生きる自分勝手な人間を、神様はとことん愛して、捜し求めておられると、聖書はそのように語っています。

私が子供の頃のエピソードなのですが、ある日両親に連れられて、駅前のデパートに出かけた時のことです。私は父の手を握っていたはずだったのですが、雑踏の中で、どう間違えたのか、いつの間にか他人の手を握って歩いていました。その人も驚きましたが、私も驚き、必死に両親を探して店中を歩き回りました。両親も必死で探してくれたようで、どれくらい時が流れたでしょう、やがて私を見つけ出してくれました。

神様は、神様の元を離れたあなたを捜し求めています。神様は、あなたを愛し、共に歩み、永遠へと導こうとしておられます。だから、神様の元を離れてはいけません。神様の手を握り締め、どこまでもついて行くなら、私たちの未来は確かにされるのです。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行



2007年02月18日(日) 『無くてならぬもの』

「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」 ルカ10:42

今日の聖句は、イエス様がマリヤとマルタという姉妹の家に訪れた時の会話から引用しました。この時、姉のマルタはイエス様の接待に一生懸命でした。ところが妹のマリヤは、ただイエス様の話に耳を傾けているだけでした。マルタはマリヤに対して苛立ちますが、そこでイエス様がこの言葉をおっしゃったのでした。

私は以前、この箇所があまり好きではありませんでした。一生懸命やったマルタがいさめられ、要領の良いマリヤがほめられている感じがしたからです。でもよく読み込んだ結果、マルタのしたことは否定されているわけではなく、マルタとマリヤのそれぞれの心のあり方に対しての教えがなされているという、そのことに私はようやく気付きました。マルタのしたことは、素晴らしいことです。イエス様に対して奉仕することは、とても尊いことなのです。ですが、その人の目が肝心のイエス様から離れてしまった時に、疲れが生じ、イライラが爆発してしまうのでしょう。ですからイエス様は、「いつでも私を見ているんだよ」とおっしゃったのではないかと思うのです。

私たちは、疲れてくるとイエス様から目を離してしまいがちになります。また、自分の思い通りにならない時、大きな苦難に突き当たった時なども、イエス様から目を離してしまうでしょう。本当はそういう時こそイエス様を見上げる時なのですが、それがなかなか出来ません。そういう現実は、私も体験しているところです。だからこそ、聖書にこの記事があるのだと思います。「いいかい、分かっているようなことだけど、繰り返すよ。ピンチの時にこそ、私を見上げなさい。疲れているからこそ、私を見つめるんだよ」と、イエス様は今日も語りかけておられるのではないでしょうか。主の十字架と復活を見上げ、主の愛を受けて歩み続けましょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行



2007年02月11日(日) 『あなたも行って同じようにしなさい』

「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」 ルカ10:27

聖書は、神様を愛することを教えています。それと同時に、自分を愛し、他者を愛することを教えています。つまり、神様を愛するなら、自分を本当に愛することが出来るようになり、そしてその愛によって他者を愛することが出来るようになると教えているのです。

これは、イエス様を試そうとしてきた宗教者との会話の中の聖句です。そしてイエス様は、一つのたとえ話をなさいました。行き倒れの旅人がおり、そこへ宗教者たちが通りかかりますが、彼らは旅人を助けようとせず、行ってしまいます。ところが次に通ったサマリヤ人はこの旅人を助け、介抱し、宿を用意し、全快するまで面倒を見ようというのです。宗教者とは、神に仕える役目を負っていますから、本来まっさきにこの旅人を助けるべき存在です。でもよく考えてみると、当時の山道などは夜盗や野獣がうごめく恐ろしい場所です。そこで他人を見殺しにしたとしても、誰も責めることなど出来ません。そんな状況なのですが、それでもサマリヤ人は旅人を助けました。更に驚くべきことは、サマリヤ人とユダヤ人は犬猿の仲・・・というよりは、旧約聖書を読めばわかる通り、サマリヤ人はユダヤ人から忌み嫌われていた人種だったのです。その人が危険をかえりみずユダヤ人の旅人を助けたのですから、その愛たるや驚くほど大きなものでした。

ここで私は、「イエス様がおっしゃりたいことは、自分を無にして他者を愛せよということではないだろう」、と思うのです。なぜなら、自分を愛してこそ、本当の意味で他者を愛せるようになると思うからです。もちろんそれは、自己中心的な自己愛のことではありません。自分を守ろうとする人は多いのですが、本当の意味で自分を愛してあげたら、きっと他者をも愛する気持ちが湧き上がってくるのだろうと思うのです。あなたは神様から愛されています。その愛の中で、自分を愛してください。そうすればやがて、他者との和解、愛し合う関係を築いていくことが始まるでしょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行



2007年02月04日(日) 『日々十字架を負うて』

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」ルカ9:23

十字架を負うというと、苦しみを負って生きなさいという、難行苦行を強いているようなイメージを持ってしまいがちです。しかし、本当にそうなのでしょうか? そこで前後の記事に目を留めてみることにしましょう。

9章の前半には、五つのパンと二匹の魚の記事があります。イエス様の手に握られたものによって、全ての人が満足したという出来事です。それに象徴されるように、イエス様が私たちに与えるものは、愛と恵みの糧です。また、9章後半には、変貌山と呼ばれる出来事があります。これは、イエス様が旧約を代表するモーセとエリヤと、これからなされる十字架の救いについて話をしているという記事です。このように、愛と恵みを与えるために、自らが十字架を背負ってくださったお方が、難行苦行の十字架を強いるようなことをおっしゃるとは思えません。

十字架とは、救いの出来事であり、神の愛と恵みが徹底的に表された場所です。ですからその十字架を負うということは、救いの恵みをしっかりと背負って生きるということではないでしょうか。イエス様を第一として生きる者には、永遠の命が約束されるという、それがここで言われていることだと思います。もちろん、私たちはまるで十字架を背負っているような苦しみや悲しみを負ってしまうことがあります。また、消し去ることの出来ない罪を犯してしまうこともあります。しかし、主が用意しておられる永遠の国には癒しがあり、赦しがあります。そのことを受け止め、お互いの人生を歩み続けましょう。

ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師
榊原 宣行


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