| 2007年01月28日(日) |
『向こう岸へ渡ろう』 |
「ある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。』と言われた。」ルカ8:22
ある日イエス様は、弟子たちと船に乗って、ガリラヤ湖を渡りました。ガリラヤ湖は丘に囲まれており、周囲の高原から吹き降ろす冷たい空気と、温かい湖面の空気が触れ合って、突如として嵐が吹き荒れることがあるそうです。イエス様と弟子たちが湖上を渡っている最中に、そんな出来事が起こってしまいました。
弟子たちの多くは、ガリラヤ湖の漁師でした。彼らは、今まで何度となくそういう状況を経験していたと思います。しかし彼らは、おじ惑うばかりでした。イエス様はというと、ぐっすりと寝入っていたというのです。弟子たちはイエス様を大急ぎで起こし、イエス様は波を静められたのでした。
これは、私たちの人生とよく似ています。私たちは、悲しみや苦しみは過去に経験してきました。でも、突如として襲ってくる困難の前に、過去の経験などはどこかへ吹っ飛んでしまうのです。でもイエス様は、私たちに平安をくださいます。もちろん、困難の嵐の中でも寝入っているほどにいられたら良いのですが、私たちはそこまでは出来ないかも知れません。それでも、そこを乗り越え、明日を生きる力が与えられます。なぜなら、この船旅には、イエス様が共におられるのですから。そして、見えない向こう岸へ漠然と私たちは渡るのではなく、イエス様が待っておられる確かに存在する永遠の世界を目指すのですから。
目が見えず、耳を聞こえず、口も利けないヘレン・ケラーさんは、優しいクリスチャンの家庭教師サリヴァン先生によって教えを受け、やがて彼女自身が人を助ける者へと変えられました。その彼女は、「悲しみと苦痛はやがて人のために尽くす心、という美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。心をやさしく持ち、堪えぬくことを学びましょう。強い心でいきるために。」と言っています。同じようなことは私たちは言えないかも知れませんが、「さあ、向こう岸へ渡ろう」とおっしゃってくださるお方と共に、永遠を目指し、この地上を歩み続けようではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」 ルカ5:20
ルカによる福音書を通して、イエス様の公生涯を毎週見ていこうと思います。今日は、イエス様がなされた奇蹟の一つを見てみましょう。
イエス様は、中風の病の人を癒されました。聖書の記事によると、彼自身はかなり重症だったようで、四人の友達が床のまま運んできたということです。その様子をイエス様はごらんになり、この病人の病を癒し、救いを与えました。
まず私たちがここで学びたいことは、私たち既に救われた者には、とりなしの役目があるということです。病の人は、彼自身の信仰や求めで救われたのではありません。友の信仰によって、彼は救いを得たのです。私たちと私たちの家族、また友人たちの関係も、同じだと思います。イエス様は、私たちの信仰の祈りによって、家族を、そして友人を救いへと導いてくださるのです。とりなしの力は、それだけ大きなものです。そして、イエス様の約束は絶対です。このことは、家族や友達の救いを祈り、願う一人一人にとって、素晴らしい希望の約束ではありませんか? もちろん、私たちの責任が重大だというプレッシャーもないではありませんが、それ以上に、私たちが救いを得たなら、その信仰によって周囲も救いへと導かれるという、そういう恵みを神様は与えていてくださるのです。
そしてもう一つ学びたいことは、四人が協力をして、一人の人を救いの場へと連れて行ったということです。人は、一人では小さな力しかありません。誰かを助けようと思っても、また教会の奉仕をしようと思っても、なかなか思うようにはいきません。でも協力しあうなら、大きなことが出来るはずです。信仰という絆によって結ばれているお互いが、祈り、励ましあうならば、神様はこの関係を通して、素晴らしい業を必ずやなしてくださることでしょう。期待して、主を仰いで進み行こうではありませんか。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」 ルカ5:4
ルカによる福音書を通して、イエス様の生涯を毎週見ることにしていますが、今日は公生涯(30〜33歳)の最初の時期の出来事です。イエス様には12人の弟子がいましたが、そのうちの最初の弟子であるペテロ(シモン)たちと出会うという、そして彼らがイエス様に従うという、その場面がここに記されています。
ペテロたちは、漁師でした。その夜、彼らは漁をしますが、何も獲れません。ガッカリして湖畔で網を洗っているところへ、イエス様が現れました。ペテロはイエス様とは面識があったのですが(ルカ4:38)、まだ従うところまで至っていませんでした。そんな状態でイエス様がおっしゃった言葉が、今日の聖書のみことばです。イエス様は大工の息子、ペテロは漁師。つまり、素人がプロにアドヴァイスしているのですから、本来なら変な様子なはずです。しかしペテロはイエス様が只者ではないことが分かっていましたから、みことばの通りに行動し、そして彼らは大漁を経験します。こうしてペテロたちは弟子としてイエス様に従うことを決心するのでした。
まだイエス様を信じていない方にとって、信仰を持つということは大きな決断です。でも、今年は沖へ出でて、恵みの経験をあなたのものにしませんか? また、既に救いを経験している人も、もう一歩恵みの沖へと漕ぎ出し、もっと主の愛に応える生き方へとシフトしていきませんか? 沖へ漕ぎ出すのは、勇気がいることです。でも、その行動をあなたが決断しなければ、何も起こりません。
今年から、アナハイム教会へ任命された松平先生は、私たちの教会の出身です。松平先生は、ビジネスマンだった時代に神様のコーリングを受け、祈り続けて、時が至って牧師への道を歩みだしました。それは大きな決断だったことでしょう。しかし主はその道を開き続け、今日に至らせてくださったのです。
誰しもが牧師になる必要はありません。むしろ、牧師を支える人たちが必要です。礼拝に出席すること、また出席する人たちを励ますこと、奉仕、慰めの言葉をかける、賜物を発揮する・・・例を挙げたらきりがないのですが、ともかく恵みの沖へ深みへ漕ぎ出す2007年とお互いになることができたら、なんと素晴らしいことでしょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」 ルカ2:52
2006年のクリスマスには、イエス様のご降誕の記事からメッセージをいたしました。そして2007年は、イエス様のその後の生涯について触れていきたいと思いますし、この度はルカによる福音書によってそれをしていこうと考えています。
今日の聖書箇所は、イエス様が公生涯(こうしょうがい)に入る前の貴重な記事です。公生涯とは、福音書の大半を占めているイエス様の公の活動のことで、30歳から33歳までの約3年間を指しています。これはそれよりも前の12歳の時のことで、聖書にその時期のことはなんとこれしか書いてありません。しかも、お父さんヨセフはこの記事を最後に登場しなくなります(早死にしたと考えられています)。その少年期、イエス様はどのような生活を送っていたのでしょうか? 細かいことを聖書から知ることは出来ませんが、確かに言えることがあります。それは、知恵に満ち、神様と人々から愛されていていたということです。
知恵とは、単なる賢さではありません。『箴言』などもテーマにしている通り、それは神様を第一にするということ、聖書の教えに従って生きるということを指しています。そのような人は、神様を愛し、神様から愛される人です。そしてその愛の中に生きる時、本当の意味で人を愛し、人に愛される生き方が可能になるのです。
日本を離れて長くなると、今年の干支などピンと来なくなってしまいますが、今年はイノシシの年だそうですね。イノシシと言えば、山里を襲うという事件が相次いでいるそうです。何で今更イノシシが山里を襲うかというと、原因はやはり人間側にあるようです。人間はかつて、畜産の目的で、イノシシと豚を掛け合わせ、イノブタを作りました。そのイノブタが野生化し、イノシシと交わり、豚の多産性を持ったイノシシが次々と生まれ、繁殖しすぎたイノシシはエサを求めて山里を襲っているということです。
人間は、そして日本人はかつてないほどに豊かになりましたが、その豊かさによって色々な弊害も出ているようです。その最も大きな一つが、心の問題でしょう。誰もが本当の愛を求め、探していますが、なかなか見つけることが出来ません。しかし聖書は、ここに愛があると叫んでいます。この神の愛によって人が生きるならば、神様を賛美し、歌いつつ歩む豊かな人生が開けます。そしてお互いに認め合い、赦しあい、愛し合う、喜びの歌が地上に響き渡るでしょう。
ペニンスラ・フリーメソジスト教会 日語部牧師 榊原 宣行
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