世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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明治神宮へ行った時のことで、絶対書こうと思っていたのに忘れてしまった ことがあった。 帰り道、西参道を参宮橋方面へ歩いているときに、急に聞き慣れない音が して、びっくりして飛び上がりそうになったのだった。
前にも後ろにも誰も歩いていない。細い砂利道にひとりきり。 道の左手に大きな熊笹が何メートルも続いてはえている場所で、突然の風に その大きな葉が重なり合いながら揺れる音だと気付いたのは数秒の後だった。
カラカラ、というような音だっただろうか。 とにかく植物のたてる音とは思えなくて、冗談ではなく、軽く身構えながら まわりを見回したくらいだ。 熊笹の葉だ、と気付いてからは、しばらく立ち止まってその音に耳を澄ませ た。
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そうそう。今年も御神籤(明治神宮では大御心という)を引いた。 私の命数(占いでいうライフナンバー)は五。なので寝かせて持った六角柱 の木の箱を五回転させてから細長い木の棒を振り出した。 「五とか、五の倍数だったりして」と思った瞬間に、十五番と書かれた棒が 飛び出してきた。 以下、抜粋。
(十五)心 いかならむことある時もうつせみの 人の心よゆたかならなむ
およそ人の一生には、個人の上でも、社会の上でも、思いがけぬ 事件が、大小となく起るものです。そんな時、うろたえさわぐよ うでは駄目です。日常から常に泰然自若として、不動の心を養い ましょう。 (いつも落ちついて、心は広く豊かに持ちましょう)
やっぱり五の倍数だけのことはあるね。 いまやわたくし消去法により、不動の心でいる以外に致し方のない状況なの さ。でも、こういうのって「ほかに仕様がない」状態にならないと悟ることの 難しい心境かも。必要なことだけが起こるってのは本当かもねぇ。
赤字で「今日の参拝の記念に大切に保存しましょう」と書いてあったので、 ポケットダイアリーの透明カバーの折り返しに挟んで、大切に持ち歩いて いる。
午前中、四ツ谷に用事があって出かけた。 JR四ツ谷駅で、ずいぶん様子が変わったな、駅も変わったけど駅の周りも 変わった…と思ったら、市ヶ谷駅と間違えていたのだった。 こういうのにも、最近なれてきましたけどね、ええ。
小一時間で用事が済んだので、思い立って明治神宮へ。 初詣していなかったというのもあるけど神宮の森へ行きたくなったのだっ た。
参宮橋から西参道、そこからあまり人気のない道を通って神宮でお参りし て帰ろうと思ったのだったが… 西参道と北参道にはさまれたエリア、平日はガラガラなのだね。
よく見ると芝生の上で寝転がってのんびりしている人もいるんだけど。 なんて贅沢な空間だと思う? ジョギングも禁止されているとかで、走っている人も皆無だった。
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いったん家へ戻って昼御飯を食べてから、今度は自転車で税務署へ 確定申告に出かける。 こういう、午前中から動いて複数の用事を済ますような行動パターンは 普段の私にはほぼないことなので、軽く興奮してしまった。
北沢税務署へ申告書を提出したあと、羽根木公園で梅見。 こうなると、自分的には完全に「調子にのってる」状態だな。 普段がかなーりひきこもりっぽいからな。 半年分かそれ以上、空き地三昧、公園三昧してしまった。かも。
梅はまだ四分咲きくらい? 今年は寒いから。 枝垂れのおおきな木もあって咲いたらきっと見事だろうと思う。 多分もうみに行くことはないと思うけれど…
2013年02月20日(水) |
「ウディ・アレンの夢と犯罪」 |
しばらく古い映画を続けて観ていたけれど、本日はウディ・アレン、2007年 の作品。 ウディ・アレンにはお馬鹿コメディ路線、シリアスドラマ路線、ラヴアフェア 路線などいくつかの作風がある。「夢と犯罪」はそのうちのどれにあたるの か知らずに観始めたのだが、結局シリアスドラマだった。
主役のイギリス人の兄弟にユアン・マクレガーとコリン・ファレル。 基本的に善良で、大した上昇志向もなくギャンブル好きな弟の悲劇をコリン・ ファレルが好演。
歌人の塚本邦雄は生前、ウディ・アレンのことを「虫唾が走るくらい嫌い」 と言って憚らなかった(確か歌にも詠んでいる)が、「夢と犯罪」の翌年 に作られた「それでも恋するバルセロナ」を観たときには私も、ああこの感 じかと、納得がいったものだ。
「バルセロナ」は途中で嫌になってしまって、たしか最後まで観ずにレンタ ルDVDを返却したのではなかったかと思う。 しかし、今回「夢と犯罪」を観て思ったのは、このひと、どれだけ人間の性 (さが)の彫琢パターンを持っているんだろう、恐らくそのパターンの数だ け傑作映画を作れちゃうんだろうな、ということだった。
「夢と犯罪」はそれくらい、避けがたくありそうな話だったからだ。 シェークスピアなんかの古典劇と同じで、人間である限り誰でもが理解でき る欲望や情、悲しみというテッパンの普遍性だけで作られた物語。
だけど、シリアスなテッパン彫琢だけでは作る本人が飽きてしまう。 それで「ミッドナイト・イン・パリ」みたいな作品が出来てくるのだろう。 「アニー・ホール」の昔からウディ・アレンの映画は結構まめに観てきたつ もりだったけれど、彼の洞察力(人間を見る目)はおそろしいな!と初めて 思ったのだった。
ずっと読みかけになっていた、堀江敏幸「未見坂」を読み終えた。 ずっと本を読まなかったり、久しぶりに読んだらちょっとややこしかったり したけれど、これは安心できる、ほっとする読書だった。
「雪沼とその周辺」て評価が高いようで、でも私は「未見坂」の方が好きか もしれない。「雪沼」には周到に抑えられた、そこはかとないお洒落さ加減 を感じるけれど、「未見坂」にはそういうものがないから。
「未見坂」は池澤夏樹の短編集「きみのための薔薇」に似ていると思うこと がある。私は池澤夏樹の短編集では、あの本が一番好きだ。 派手さがなくて、じんわり読ませるから。池澤臭がほとんど消えてしまった ことで、ますます池澤夏樹が好きになるなんて。パラドキシカル!
あと、だいぶ前に近所の古書店で買ったヘッセの「デミアン」、これも よいしょこらしょと、読了したのだった。 やっぱり、あと三十年早く読まなければいけない作品だったと思った。
読みかけて長く放置してある本がもう一冊。 「オオカミの護符」という関東の山岳信仰に取材したノンフィクションがあ るのだけど、これは寝る前に布団に入ってちょびちょび読んでいる。
布団に入って、電気スタンドの灯りで本を読み始めて、すぐに眠くなってし まうときには、まだ私大丈夫だわと理由もなく安心する。
2013年02月17日(日) |
あわてるこじきになるもんか |
近場の温泉につかって、古い名画を観て、焼きリンゴを食べながらのんきに 暮らしているかのような、世田谷日記。 でも、現実はキビシイ。実際、大変なことになってる。
いまバイトは週二日、ワインの店だけ。デパートの仕事はなくなってしまった。 これではお家賃も払えない。 デパートの仕事に関してはアタマの痛い事態が起きていて、とにかく、慌て ず騒がず法律の力を信じてこいつを片付けるしかないね、と、腹を括った。
起き上がるのも嫌になるくらい鬱々とする日もあるけれど、あわてて、納得 のいかないままバタバタしても、墓穴を掘るだけだと思う。 そもそも、バタバタする体力がないよ。
なので無理せず、自分に嫌なことは強いずに、日々そぉーっと暮らす毎日な のだ。このまま行って、これまでのように辻褄が合うのか、合わせられるの かも分からないけれど。いいんだ。
このまえ、手袋の指先に穴が開いて、今までだったらこれ幸いと、いそいそ 新しい手袋を買いにいくところなんだけど、そうもいかず… 以前は使わない毛糸の手袋だのなんだの、三つも四つもあったんだけどな、 と思いながらタンスの中を探してみた。
そうしたら、あったね!ひとつだけ、薄いベロアの手袋が。 ああーこれ、引越しのときに捨てたかと思ったけどとってあったんだ。 うん、十分十分。あと一カ月この手袋でいける。
いままで散々馬鹿な買い物してきたと思うこともあるけど、そういうのが 役に立つ時がきたみたい。 しかし、こういうのって経験しないと身に沁みないね。 この際だから、うんと沁み込ませとこう(笑)
いくつになっても、どんなことでも新しい経験は刺激があるなーと、変な 感心をしている。キャリィオン。
夜、何か甘いものが食べたくなったけれど、なにもなかったのでリンゴを 焼いて食べることにした。
スライスしたリンゴをバターで焼いて、グラニュー糖をかける。 グラニュー糖は熱ですぐに溶けてしまう。 リンゴが柔らかくなるまで、目を離さずに弱火で焼く。
トーストしたマフィンの上にのせたら、大きさも形もちょうど良かった! さらに上から蜂蜜をかけて、出来上がり。
焼きリンゴ自体もおいしかったけれど、フライパンに出来たキャラメルが また美味! りんご果汁で煮詰めたキャラメル。 木杓子でこそげ取って、舐めました。
途中でしんどくなっていた「abさんご」を少し前に読み終わった。 最後の最後でやられちゃって、なんか感動して終わった、という予想外の 展開。
エピローグとも言うべきわずか十二行に、もっとも弱いところを直撃されて しまったという… 自分でも情けないのだけれど、致し方なし、という結果に。
この小説、私にとってしんどかったのはその文体ではなくテーマ。あるいは 主人公の生き方。あるいは主人公が延々と胸の中に抱え続けてきたもの。 その、救いのなさ。
文藝春秋に載った賞の選評でもっともにべもなかったのが山田詠美ので、 もしかしたら主人公の主張もなにもない、ただされるがままの生き方が理解 できなかったのではないか。 つまり「どこに読むべきものがあるのか?!」と思ったのかもしれない。
難解といわれる文体は、むしろ好きだった。もっと悪い意味で難解な文体は たくさんあるし、abさんごの場合は純粋に文学的で、きれいなものだと 個人的には感じたな。
ところで、タイトルの「abさんご」だけれど、abが選択肢(aかbか) を表しているのは、作品を読めばおのずとわかる。 ならば「さんご」は珊瑚で、無数の選択肢を持った人生の全体像を珊瑚樹に たとえたのではないだろうか。
とうことは、さんごは枝珊瑚でなければならず、テーブル珊瑚では成立しな いということになりますが。どうかな?
↑手持ちのサンゴにはあまりいいのがなかった…
2013年02月11日(月) |
デ・シーカの「昨日・今日・明日」 |
引き続きケーブルテレビから録画した映画鑑賞。 今回はイタリア。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「昨日・今日・明日」。 これはもう、飲めや歌え、唄えや踊れの大傑作!
三話からなるオムニバスで、主演はいずれもマルチェロ・マストロヤンニと ソフィア・ローレンのふたり。 第一話の女主人公の生命力、魅力については長らく噂に聞かされておりまし たが、いやはや、噂以上の素晴らしさ。
第三話のローレンも、一話に比肩する美しさ、バイタリティ、愛すべきキャ ラクターで、「このひと本当に大女優だったんだわ!」と唸らされました。 コメディエンヌとしての才能も素晴らしいものがあったのですね。
そして彼女を引き立てる、ご存じ二枚目にして三枚目のセニョールといえば この人。マストロヤンニ!! いまだに「黒い瞳」「みんな元気」等、後期に主演した傑作映画を思いだす と、まっこと惜しい俳優さんを亡くしたと思う私なのですが、この映画を観 てまたまたその思いを強くしました。
とにかく「トホホなハンサム」を演じたらこの人の右に出る人はいません。 最近だとジョージ・クルーニーが似た雰囲気を持っているけれど…いずれに しても、時代は、もうマストロヤンニ的な生き方を許さないでしょうね。 若いころのマストロヤンニ、もうひとり凄く似ている人がいる、誰だろうと 思ったら、セイン・カミュさんでした(ほんとにクリソツよ!)。
ルイ・マルにしろデ・シーカにしろ、傑作過ぎて観終わった映画を消去する 決心がつかない。困っております。
2013年02月10日(日) |
ルイ・マルの「好奇心」 |
昨年末からケーブルテレビの映画チャンネルでルイ・マル特集をやっていた。 「さよなら子供たち」「鬼火」と観て、実に単純に良い映画だなー、と、 そう思ったのだった。SFXや3Dの影すらみえなかった時代の映画。
「鬼火」では「フランス人にはついていけないわ」と思わなくもなかった けれど、チョイ役のジャンヌ・モローを観て、やっぱり他の女優さんとは 違う!と再認識したりもしました。
今回は、録画したきりになっていた「好奇心」をやっと観たのだけど とにかく、初っ端からチャーリー・パーカーの音楽が格好良くって参って しまった。ルイ・マルといえば「死刑台のエレベーター」のマイルスが有名 だけど、「好奇心」侮るべからず!ですよ。
主人公の男の子はジャズが好きで、冒頭、チャーリー・パーカーのレコード を万引きする。この子は二人のお兄ちゃんに子供扱いされて頭が上がらない のだけれど、音楽の趣味はなかなか良い、ナイーヴな男の子なのだ。
それにしても男の子ばかりの三人兄弟、生意気で乱暴で、男子ってどうして あんなにお馬鹿なの!とあきれかえるのだけれど、この家のお母さんが イタリア系のちょっと色っぽくって、私からみても可愛らしい女の人ときて いる。この可愛らしさって、彼女の正直さからきているものですごく好感が 持てるのですが…(続きは映画をご覧になってね)
この映画の白眉は、あのラストシーンではないかしら。 一種のハッピーエンドではあるのだけど、わざとらしくなくて、私は大好き だった。なるほど、こういうものかもね!とニンマリしてしまった。 忘れっぽくなった私が、繰り返し「エガッタなー」と思い出す、佳作でござ いました。
(HDDにはあと「五月のミル」が入っている。気の向いたときにゆっくり 楽しむとしよう)
以前クーポンサイトで見かけて買っておいた、日帰り温泉の割引券。 世田谷に湧く黒湯の天然温泉だそうだが、そろそろ出かけないと使用期限が 近い。地図で場所を確認して自転車で出かけてみたら、なんと15分ほどで 着いてしまった。
うわーお。天然温泉まで15ふーん!
先日、後頭神経痛で医者にかかったばかり。神経痛に温泉て、合いすぎてて おかしいてか、その前に、まんまおばあちゃんじゃーん!なんですけど。
施設もきれいだし、露天もあるし、サウナも清潔でアッツアツで、さらに もうひとつ塩サウナっていうのもあるし。 露天風呂に浸かっているとき、環八からクルマの音が(山鳴りの如く) 聞こえてくるのは、ま、御愛嬌というところですか。
次回半額チケットもらったから、寒い間はちょくちょく行こうっと。
温泉行く途中に大きな園芸店がある。 素通りできずにムスカリ購入。水仙買ったらムスカリもないと、ね。
ずっと本を読まない、買わない生活だったけれど、久しぶりに書店で本を 買った。 黒田夏子「abさんご」と、吉田健一「思い出すままに」。
「abさんご」は受賞報道のなかで紹介される内容がとても興味深くて。 だって、ガチなんだもん。こんなガッチガチの純文学めずらしいよ。
「abさんご」には初期短編、三篇が併録されていて、これらはいずれも タミエという名前の少女が主人公の連作。 ところが、このタミエが可愛くないのよ。少なくとも私は好きになれない。 書かれたキャラクター云々じゃなくて、自分の嫌いなところを見せられて いるような気がして。
で、そういう気持ちにさせられること自体が、作者の力の証明みたいなもの だとは思うのだけど、いかんせん読んでいて楽しくないの。 感心はしても、こころは躍らない。うーーーん。
そしてその「うーーーん」という感じが「abさんご」を読んでいても 付き纏うのですね、困ったことに。 文体の玲瓏さに対して書かれている内容がちと恨みがましいんじゃないのか、 みたいな。読んでいてつらくなるんだな。心がふくらまないのだ。 まだ半分くらい残っているから、最後まで読まないと断言はできないのだけ れど…
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吉田健一の方は講談社文芸文庫の復刊(生誕百年だそうだ)五冊のうちの 一冊。
字面を眺めただけで紛れもない吉田健一ぶりに安心感を抱くのだが、 さりとて、スラスラ読み進められるわけもなく。 ましてやしばらく読書から遠ざかっていて初心者返りしている身では一頁を 二度も三度も読みながら、いつの間にやら座席で居眠り、という体たらくで ある。
まあ、上等でしょう。居眠りも「吉田健一」なら。
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