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BIOのお店で見かけたフラジョレ(Flageolets)という乾燥豆。若草色に春気分が高揚して購入。どんな味なの?どうやって食べるんだろう?Wikipediaによればフランスが原産の豆で熟成しきる前に摘んで日陰で乾燥させてこの若草色を保ったものだそうだ。半日水に浸けてから潰したにんにくとセージと茹でて味見したら、白インゲン豆と大して変わらない味。半分はそのまま塩と胡椒してスープにして、あとの半分は玉ねぎとクミンシードと炒める。味はやっぱりふつうの白インゲン豆だけど(違いがワカる人にはワカるのかもしれないが)、白餡みたいにして若草色の餡を作ったらきれいかも。それでふわっと白い生地で包んで蒸して、お饅頭だ。想像してとろけた。次回は絶対それだ、そう決めた。
ランチにフラジョレのスープを煮て、フォカッチャとスコーンを焼く。豆を火にかけ、フォカッチャの生地を発酵させてる間に買い物へ出る。店の前で並んで、やっと入店したものの棚はけっこう空っぽ。会計はまためちゃくちゃで直して返金してもらう。思ったより時間を食って、フォカッチャの生地が過発酵してるのを心配しながら走って帰る。この国で暮らしてるとシンプルなことが非常に複雑で非効率で余計な体力を使う。しかし、こうしてやっと口に入る食事の美味しいことよ。デザートは秋に沢山瓶詰めした栗の渋皮煮で作ったロールケーキ。勤勉な働き蟻の労働は、こんな店の棚に食料が乏しい日に報われるのだった。BIOの店で買う豆や小麦粉、、庭のローズマリー、山で拾う栗、近所の人が分けてくれるBIOの飼料を食べて歩き回ってる鶏の卵、なんて贅沢なんだろう。非効率と引き換えにここには良い食べ物が沢山ある。全てが工場でパックされて、プラスチックの容器に詰められて、バーコードがついてたら会計も簡単。裸の青果をキロ売りなんてしてるから、間違いが多いっていうのもある。でも高効率を環境破壊と引き換えにしてるとしたら、それは褒められないね。
南イタリアの食料をめぐる暴挙のニュース、心が痛い。先進国イタリアで。たった数週間経済がストップしただけで、今日のパンにも事欠く人達がいる。コート・ダジュールのレストランで、どれだけの人が皿に半分の食事を残しながらデザートを頼む?ピッツァは真ん中だけつついて耳は捨てる?ボトルで頼んだワインは半分だけ飲んで去る?そこから一日車を走らせれば着いてしまうようなところで、その日食べるのに困ってる人達がいる。計画性なくお金を使ってしまう人達なのかもしれないし、そもそも日々食べるのだけで精一杯な人達なのかもしれない。背景はわからないけど。これからどうしていくんだろう。政府は?フランスだってどうなるのかわからない。わたしとリュカは燃費のいい体を目指して、少食を心がけてる。
来週からもう2週間外出禁止。半月前のこの町の人々。グローブだけを着用し、お金を触り、ついでに自分の額掻く。マスクを着用するも、サングラスみたいに頭に引っ掛けてたり、顎に引っ掛けてたり、黙ってる時はちゃんと口にかけてるのに、喋る時に口から外して唾液を撒き散らす。とにかく着用する意味あるの?と突っ込みたくなったが、最近は少し板についてきたみたい。野ブタを狩り、通りで捌き、悪臭を撒き散らしてる階下の野蛮人ハンターまでマスクしてるの見た時は、世界の終焉のような気になったが。
それにしても、外出禁止と法律で定められなければ、良識ある行動をできない社会というのは少し悲しい。本来はひとりひとりが貞節をもって行動できればこんなやりかたをしなくてもよかったのではないかな。1ヶ月やそこら外出禁止と言われて、その後解禁になったらすぐにマスク外して外に飛び出して集う人続出して、また後戻りしちゃうんじゃないかと想像してしまう。
"Tolkien"を観る。"The Lord of the Rings"みたいな映画は苦手だけど、その原作者の生涯というリアリティには興味ある。戦場で傷を負った兵士のロナルドが過去を回想する。階級社会だという20世紀のイギリスで、貧しい孤児のドナルドが知性を共有することでお金持ちの息子達と築いた生涯の友情。一緒に育ったエディスとの生涯の恋。リリー・コリンズの演技よかったな。一歩間違えると貧乏くさく見えてしまう細い体躯にパッとしない顔色、だけどその一歩を着実に踏みとどまらせる優美で品位のある身のこなし。婚約を本当はロナルドに止めて欲しかったのに、突き放された時のあの頼りなく折れてしまいそうな表情、わたしの胸を痛く突き刺した。英語圏じゃない国を旅行中のイギリス人が、英語ができない人々に向かって早口でべらべら言うのをよく見かける。そういう光景はすごく傲慢に見えて、"イギリス本場の英語は美しい"という意見に賛成したことがなかったのだが、この映画を観て初めて共感した。言葉だけでなく情景全てが美しかった。幼いロナルドを残して逝ってしまった母親は"Let's just say there's treasure"と言った。その後人生に困難が立ちはだかっても、ドナルドは着実に宝物を見つけていく。そしてそのドナルドが見つけた宝物の美しさに、わたしは心を奪われた。
オンラインで購入した猫と人間の食料が配達される。朝一、猫の食料の配達の人(GLS)からリュカのケータイに電話がある。予定より1時間早い。
「いつも早いか遅いかで、書かれてる時間内に来たことない」
とまだ寝ていたリュカは嫌々起き上がる。10分後に到着。家の前までもってきてくれるわけではないので、通りに降りる。若いドライバーのお兄さんがトラックの後ろのドアを開く。中を覗いて卒倒しそうになる。どの箱も上下逆さまとか、横向きとかに置かれて、スカスカだからトラックの振動と共にトラックの荷台で踊らされることになるんだろう。先日慎重に2重に梱包されたセラミックの皿が見事に割れて届いたのもこれ見て納得。お兄さんはわたし達の荷物を横向きに地面に置いてにっこり笑って去ってった。
そして午後、今度は人間の食料が来る(これもGLS)。ドライバーからリュカのケータイに電話がある。
「そっちの方向から来るなら、そのままメイン通りを進んで薬局を左に見て、更に50mくらい進んで大きなゴミ捨て場を左手に見たら、その小さな路地を入って」
こんな簡単な説明が理解できず、リュカに5回も同じこと言わせる。大体、配送会社なのにナビとか装備されてないトラックで来てるの?自分のスマホとかもあるよね?うちは大通りから一本入れば着くのに結局5回説明してもたどり着けずリュカが大通りまで歩いて探しに行く始末。その上、リュカを見つけたその大通りで大きなダンボール2つをそこに置いて去ってったから、リュカは家とその場を往復して荷物を運ぶ羽目に。
外出禁止でオンラインの注文も増えてるのかもしれないし、そんな中仕事にでて配達してくれることは感謝するけど、あまりにものプロ意識の低さに本当にがっかりする。日本では隅々まで磨きがかけられた惚れ惚れするようなプロの仕事をよく目にした。時間通りにやってきて、さっと荷物をおろし、笑顔でお辞儀をして颯爽と去ってくあの日本の配送会社の人達、それが標準で当たり前みたいに受け取ってたけど、今思い出すと本当に眩しいな。サービスする側のストレスは知ってる。時間内にいくつの家を回らなきゃいけないのか、プレッシャーだろうなって。家族との時間を犠牲にして仕事にのめり込んでっていうんじゃなくて、時間内にきっちり自分の役割をこなして、あぁ自分今日もよくやった!ってビールで乾杯して心地よい眠りにつけるような仕事をする。この国には学歴は高いのに、それに見合った職業に就くことが難しくて、ショップの店員やレストランのウェイトレスとかになって明らかに不貞腐れてて"わたしの能力に見合った仕事じゃない"という態度をとる人などどこにでもいる。職業やタイトルだけで人を区別(差別ともいう)するという社会の風潮も良くない。大切なのはその人がどんな風にそれに取り組んでどんな成果を出してるかじゃないの?なんて思うのは日本的なのかな。日本食恋しいでしょ、日本の家族恋しいでしょって聞かれるけど、一番恋しいのはプロ意識を持って働いてる人達かな。
外出禁止から一週間。朝にゴミ出しと買い物、午後に少しのウォーキング。淡々と過ごしてる。クロちゃんはいつもどおりあちこちで遊んでる。猫は書類携帯せず悠々外出できていいな。
近所の知人の鶏の卵を頂いて、家に戻る途中、小さな路地で踏みつけらて死んでいる小さな鳥を見る。鳥というよりトゥイティーみたいに黄色くてヒヨコみたい。頭上を見上げたけど巣は見当たらない。どうしてこんなところで?心がどんより淀む。厚紙で掬って、ベンチの脇の草むらに寝かせて"もう誰にも踏みつけられないから、ここでゆっくり眠ってね"と心の中で声をかけて木くずで覆った。家のすぐ裏で桜みたいな花(桃か梅だろうな)を見て急に母に会いたくなって泣きそうになった。
アスパラガスが出回り始める。人間界の雲行きが怪しくなっても、自然はちゃんと春を運んできてくれる。ありがたい。春のお祝い。わたしの一番好きな食べ方は、半熟のゆで卵をたっぷりのオリーブオイルと塩、胡椒で和えたのを蒸したアスパラガスにディップするもの。リュカは春巻きの皮を巻きつけて揚げ焼きにしたのに抹茶塩という居酒屋風が一番だというが。
ここ数日連チャンで日本のミステリー・サスペンス映画を3本観た。
「愚行録」
「ユリゴコロ」
「マスカーレードホテル」
どれも小説ベースで、小説は読んでないのだけど、本当に構成がよく出来てて面白かった。ハリウッドのは出来損ないでも易易と日本にやってくるのに、こういう邦画があまり世界にでることがないのは残念。
この町の店はどこもかしこもまともに仕事ができない。商品に価格がついていない、陳列された商品の価格とレジに入力された価格が違う、レジの秤が壊れてる(即ちキロ単位で売られる野菜や果物の価格が違ってくる)、バスケットごと計算してる、数種類ある野菜の名前が把握できてない、タグとそこに置かれた商品が別物、釣り銭が正しくないなど。毎日レシートにちゃんと目を通し、訂正してもらう。店も店だが、こんな営業を続けてられるのは客も客だからだ。だれもレシートをチェックしたりはしない。相当大きなミスがない限り、誰も気付かず終わる。毎日1ユーロこうやってお金を失ってったら1年でいくら、10年で?なんて計算するわたしは、商業主義の国から来た異邦人丸出しなのである。毎日"トマト1個で400gってありえないでしょ、バスケットの重量は抜いてね"、とか"PROMOって書かれてるのにレジ価格が定価だよ"、とか、"釣り銭がUSドルだよ"、とかそんなことを申し立てて後ろに長い行列を作っているのである。店の人々は明らかに面倒くさそうにする人もいるが、客から提示価格以上取ったりするのは罪だから、いやいや計算し直して返金する。あちらが謝ることはない。なぜなら何人もが働いてる少し大きめの店では、みんな"間違ったのは自分じゃない"という心構えだからで、責任感など持っていない。個人商店の八百屋のお兄さんだけは、ある日突然涙目で謝罪した。
「毎日のようにあなたは来てくれて、毎日のように僕は計算ミス。本当にごめんなさい。でもね、信じて。僕が計算ミスするのはなぜかあなたの時だけなんだよ」
「でしょうね、だってわたし以外にレシートちゃんと見る人いないでしょ」
「・・・」
大きな町ならこの店がダメならあの店ってやれるけど、ここじゃ選べない。ここで結婚するということは、こういうちゃんとできない店とも結婚したようなもの。ダメ夫と気付いてももう良い面だけ見て暮らしてかなきゃならないような。でも幸いそのダメ夫は心根は素直で決して悪い人間ではないのだ。希望は捨てるもんじゃない。うんざりするけどそう自分に言い聞かせる。
スーパーではこんなんで顔を覚えられてるので、わたしをレジに認めるとレジの人は緊張の面持ちになり野菜の価格を確認に行き、出てきたレシートに一度目を通してから"うん、大丈夫よ"とか呟きながら渡したりするようになった。わたしがレシートに目を通して、"Merci. Bonne journée"とニッコリすると胸を撫で下ろす。そうやってミスの頻度は3回に1回くらいだったのが、10回に1回くらいに減った。
外出禁止になった初日、店員全員がゴム手袋をしていた。でもマスクなし。ゴム手袋をした手であちこち触り、ついでに自分の鼻をちょっと拭ったり、頬を掻いたりしててもうめちゃくちゃ。でも3日後の今日は全員マスクも着けてた。やっと誰かが、手袋だけでは意味をなさないと気付いたんだろうな。子供の頃から風邪をひいたらマスクして他人にうつさないようにするのを当たり前として育った身からすると、まるで猫や犬にマスクを着用させたみたいに妙にぎこちないフランス人達の様子が愛らしくも思えてくるのだった。
隣人のドミニクは宇宙の話や愛の詩を書いたりするのが好きな典型的ロマンチストなラテン男。こういう人の脳は"現実"を直視することを拒む傾向にある。2月のわたし達の会話。
「わたしコロナが流行りだしてから外でなにかに触ったりするのがちょっとこわいのよね」
「大丈夫だよ。君は若いし罹っても死なないよ」
「わたしは死なないよ、多分。でも人にうつしてその人を死なせる可能性はあるのよ。それに何より、わたしは人生の大切な時間を不調で無駄にしたくなんかないのよ」
「・・・」
「あなた医療の現場で沢山の患者と接触して、イタリアに帰ってお母さんにキスしたりしてないでしょうね」
「え?してるよ。だってマンマとキスしないなんて・・・」
「でもあなたのお母さんは手術から戻って退院したばかりだし、何より高齢者なのよ。コロナ感染させたら危険じゃない」
「僕は感染してないよ。だってこの通り元気だし」
「感染したって潜伏期間があるのだから、今感染してるかしてないかなんてわからないでしょ!」
「・・・。でもメディアは煽りすぎだと思うな。人々に恐怖心を抱かせようとしてる」
「イタリア人はもう少し恐怖心もったほうがいいと思うわ」
それから1ヶ月後、3月。イタリアは日本の32倍の感染者と125倍の死者を出して国は経済を完全停止して、国境を閉鎖した。ラテンの国には触れ合ってキスすることが真の愛と信じて、それで死ぬなら本望なんてワケのわからないこという人がいる。いや、あなた自身だけがそう信じて死ぬならいいけど、周囲の生きたい人も殺しかねないということも考慮してね。フランスもイタリアと同じ状況になって、さすがにわたしがマスクして歩いてるのを誰も嘲笑しなくなった。それどころか、人々は自身がマスクやグローブを着用しはじめた。
このラテン3国では経済を全てストップさせて国を閉鎖することは人々の意識を変化させるのに大いに役立ったと思う。そうでもしなければ、この楽観的な人々は大事な人が死んでしまうまで今まで通りの触れ合いを止めないだろう。可哀想だけど、今は触れ合う時ではないのだ。
「触れ合うのが愛だなんて今はそんなバカなこと言わないで。触れ合わないのが愛という時もあるのよ」
1ヶ月前、わたしのことを神経質な日本人だと嘲笑してたドミニクもさすがに項垂れていて、わざわざわたしの目の前までやってきて消毒液で手を洗ってたりする(自分の家でやってくれ)。
「ウィルスがフランス国内をまわっているのではなく、人がウィルスを運んでいるのです」
とマクロン大統領。人々の意識を変えなければ解決は望めないだろう。
経済がストップして国中が静かになった。貯金というアイディアのない人々、お金の心配などはあるだろうけど、人々は家に籠もって本を読み、楽器を演奏しはじめた。イタリアでは小麦粉の売上が80%もあがった。買い占めだけが理由ではないだろう。普段は共働きで、家に帰って乾燥パスタを茹でて、ボトルに詰められて売られてるパスタソースをかけて食べてた人達が自家製のパンを焼いたり、生パスタを打ったりする時間をもったんだろう。離婚するカップルも増えそうだし、良いことばかりじゃないだろうけど、地球も人もこの機会に休息して、忙しい時は考えられないことをじっくり見つめ直すのもいいでしょう。
昨日家の近所あちこちに貼ってあった猫探しの貼り紙消えてた。見つかったんだね、きっと。よかった、よかった。
(「愛がなんだ」はすごく良い映画だった。愛すること、愛されることの受け止め方についてすごく考えさせれれた)
フランス全土今日から外出禁止。最低2週間、その後は状況によりけり。生活に必要な外出の際は理由を記入してサインした書類を携帯していなければ罰金が課される。また書類作成か。フランス的。目的は・・・選択肢のボックスにチェックを入れるようにできている。スポーツでの外出は人と接触せず一人で行うもののみ許可されるみたい。ジョギングやウォーキングのことだろう。でもこれってわたしのウォーキングコースみたいな人に会わない山の中ならいいけど、都会に住んでる人がみんなこんなことやりはじめたら、通りは人が密集するではないか。町の人口数とかの制限つけたほうよかったんじゃない?外出控えろって昨日も既に言われてたのに、近所の広場では子供が走り回り、その親達が駄弁ってて、おじさん達がペタンクを楽しんでいたんだから、人々の良識なんか当てにできない。
裏通りで20代くらいの女の子が寄ってきた。
「白い猫見ませんでしたか」
見てない。ごめんね。
"C'est pas grave(大したことじゃないわ)"と言って去ってったけど、いや、すっごい辛いでしょ。彼女は人に聞いてまわって、あちこちに写真入りの貼り紙をしてる。滅多にないけど、さっきまでその辺で遊んでたクロちゃんがたまにすっと消えてることがある。わたしは心配で不安で心臓が潰れそうになる。その時の気持ちを思い出すとそれだけで目に涙が溜まる。彼女の姿が自分の姿と重なってとても他人事とは思えなかった。ちゃんと見つかるといいのだけど。
2020年03月13日(金) |
Ribollita di cavolo nero |
マルシェで見かけた変わった葉っぱの野菜。おじさんに聞いてみる。
「カヴォロネロっていって、ペーストにしたりするといいよ」
あっ、知ってる!トスカーナ料理の本で見た。手に入ったら作ってみたいスープがあったんだよな、と買ってくる。まずは味見、と葉だけを茎から外して茹でてみる。なかなか柔なくならない。日本人的には葉物はさっと"湯通し"するっていうくらい短時間で仕上げたくなるけど、イタリア料理ではぐつぐつくったくったになるまで煮たりするのが多い。栄養素がお湯に全部溶けていっちゃいそうでいい気がしないけど、やってみると意外にも甘くなっていい感じに仕上がるものも多々ある。5分くらい煮て切り上げた。オリーブオイルと塩、胡椒を少々和えて、クロスティーニに乗せてオリーブオイルをたっぷりかける。ん?みんなちょっと苦いというけど、全然苦味は感じない。フダンソウっぽい味と食感。ケールの家族だというし栄養満点なのに違いない。そういう味がする。なかなか気に入った。
そしてやっぱりトスカーナの郷土料理リボッリータ、これは絶対作らなきゃ。色んなレシピを見つけたけど、結局比較的シンプルなこのレシピにトライすることに。白インゲン豆を半日水に浸して柔かく煮る。イタリアでソフリットと呼ばれてる香味の三闘神野菜、にんじん、玉ねぎ、セロリ、カヴォロネロとほうれん草、サヴォイキャベツ(なかったんで白菜使用)の茎を炒める。葉も加え、ひたひたの野菜スープ(わたしはただの水)を加えて15分煮る。スープの中の野菜1/3と白インゲン豆の半分をミキサーにかけてペースト状にしてスープに戻す。豆の煮汁と固形の豆も加えて45分煮込む。ココットにパンを入れ(トーストしていれた)スープをかけ、最後にオリーブオイルを垂らしていただく。飛び上がるような、とか、舌がとろける、とかそういう派手な表現の似合わない味。食べてるうちにじわりじわりとその良さが伝わってきて、食べ終わる頃にはすっかり心も体もあたたまっているような素朴で滋味。今回はいつものパン・ド・カンパーニュを使ったけど、トスカーナの塩が入ってない(だからよく膨らまないのかな)固いパンもあったらもっとよかっただろうな。しかし、この8人分と書かれたレシピの半量で作ったけど、それでもこのスープメインで食べてわたしとリュカの量では10人分くらいある。恐るべしイタリアの胃袋!
2020年03月10日(火) |
自家製ウスターソース |
ウスターソースを煮てみた。材料は、玉ねぎ、にんじん、セロリ、トマト、ホワイトマッシュルーム、昆布、にんにく、しょうが、りんご、醤油、砂糖、塩、りんご酢、赤ワインヴィネガー、クローブ、カルダモン、黒胡椒、白胡椒、花椒、ローリエ、エストラゴン、シナモン、オレガノ、セージ、ローズマリー、そんなところか。4時間かけて煮る。煮上がったのはカレーみたい。これをミキサーにかける。ひとくち味見。うーん、かなりそれっぽくできてるではないか!!醤油はKikkoという安いペルー産のを使う。その昔、ペルーに渡った日本人によって作られて広まったのかと安易に想像させるネーミング。しかし、味はキッコーマンとはかなり違って、どちらかというと中国の薄口醤油みたいなさらっとした味。餃子とか食べるにはいいけど、和風の煮物なんかには使えない。こういうソースなら問題ない。最後にざるで濾す。1500mlほどのソースが完成。さらにこのざるに残ったカスもとっておいてカレーとか炒めものとかに混ぜると美味しいらしい。見た目も赤味噌のようでそそるではないか。早速南瓜のカレーに混ぜてみる。さすが色んな出汁がでてるだけあってコクがでて美味い。中華麺のあんかけにも使う。やっぱり美味い。オイスターソースは化学調味料が使われてるものが多いのであまり買ったことがないのだが、このソースに砂糖を足してもう少し甘くしたらオイスターソース代わりにもなりそう。フランス産の甘くて美味しいにんじん、ビオのトマト、大好きな花椒はたっぷり、と自分のオリジナルの味が出来る。ハーブは庭や山で摘む。スパイスは家に常備してる。市販のブルドックソースはアジア食材店で500mlで6ユーロほどする。これなら3倍作れて6ユーロくらいじゃないだろうか。素敵な副産物も出来るし。全てナチュラルで化学調味料も保存料も不使用。何よりプラスチックの容器に詰まっていない。もう買うことはないだろうな。
すぐお隣のイタリアの移動制限の余波はこちらにもじわじわと迫って来ている。イタリアから国境を超えて仕事しにくるリュカの同僚はなんとかやってきたけど、帰れるのかな。毎日状況がころころと変わるから今日出来たからって明日もできるとは限らない。イタリア人でこういうときに備えて貯蓄なんてしてる人はいるんだろうか。自宅待機みたいなことになって働けなかったら今度は経済的困窮で死人がでるんじゃないかと心配してたところ、
「僕はノーチョイス。ジェノヴァに帰って息子に会いたいけど、フランスに留まって働くしかないよ。息子の母親の職場も閉まってて収入ないからさ」
と隣人のドミニク。ってことはあなたにも貯金とかないんでしょ。
「あるよ!もちろん貯金ある。☓☓ユーロ(日本でいう子供のお年玉貯金の額)」
税金が高いにしてもドミニクはけっこう高給とり。っていうかリュカの同僚はみんなそう。それなのにみんな貯金額ほぼゼロ。わたしの指導のもとにちゃんと貯金してるのは我が夫だけ。みんな本当にあるだけ使っちゃって、困ったら政府の補助金とか頼れる人に頼ればいいみたいなスタイル。これでなんとかなってるからやっぱり貯金とかしないんだろう。不思議な人々。まだここの人々のからくりがわたしには解らない。
ランチにラーメンを作る。焼いたポロ葱をたっぷり入れて、ヴェーガンだけど程よくがっつりした味に仕上がって、とても美味しくできた。こんな朝から雨が降ってて寒い日にはことさら。焦がし醤油のスープは・・・玉ねぎのみじん切り(今日はポロ葱の青い部分も入れた)、生姜とにんにくのみじん切りをたっぷりめのサラダ油とごま油でじっくりじっくり弱火で炒める。韓国のキムチ用の唐辛子を入れて更に炒める。醤油、カソナード、酒を入れて火を少し強めて煮詰めるように熱する。ドロっとしてきたら水を加えて10分くらい煮る。塩と醤油と胡椒で味を整える・・・適当に作ったのに上出来。次回は分量をメモしながらやろう。スープも成功だったが、麺もよかった。いちいちアジア食材店まで買いにいけないから、手打ちする。過去に何度かやって、いまいち成功とは言えない出来具合だったが、コツがわかったらもう大丈夫。加水はかなり少なめ(パスタのように50%では入れ過ぎ。コシが弱くなる)、また打った麺を冷蔵庫で最低2晩くらい寝かすこと。それくらいか。それにしても、日本の家庭料理を作ろうとすると、ここでは簡単に市販品を買えないということで、何でも自分で作ることになる。時間はかかるが、結果的には市販品よりずっと美味いものが出来る。先日など焼きそばを作ったが、これが美味いのなんのって。日本ではたまにお祭りとかで食べたりしたが、そういうのは化学調味料まみれで、主食にしたいものではない。ところが、ここで作ろうとすれば麺もソースも全部手作り。みりんという調味料すら自分で作っているのだからそれはそれは美味い。フランスではじめて焼きそばが好きになった。アジア食材店へ行けばそこそこなんでも手に入るけど、はるばる海の向こうから輸送されてくるものに高いお金を出すよりも、近所で生産されてるもので代用したり、手作りしたりでなんとかするほうがよほど健全というものだろう。味噌も豆腐もお麩もなんでも作ってる。ブルターニュ産のガレットに使われる蕎麦粉で打つ手打ち蕎麦なんかは惨敗だけどまだ挑戦するつもり。あとは油揚げが作れたら最高なんだけど。