My life as a cat
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2020年04月29日(水) ジャスミンの花香るある日

買い物に出たら、レジに日本マニアの友人が働いてた。友人といっても20歳そこそこの学生なのだが、彼は落ち着いてて、繊細で、頭がいいので、話していて違和感がない。日本で暮らす資金作りのためにこのスーパーで働いてるのだ。久々に日本語で会話したら気分がよくなった。今度、彼が日本で買ってきてくれた米麹で仕込んだ我が家の味噌と彼の自家製饅頭を交換する約束をして帰ってきた。

午後、いつも通りの散歩。ジャスミンの白い花があちこちに咲き乱れて甘く香ってる。よもぎを摘んで帰って、草だんごを作っておやつにした。リュカは恐る恐るだんごを2つほど食べて、明日まだ生きてたら、もっとこのだんごを食べたいと言った。子供の頃、海水浴へ行くと、曇ったゴーグルを父がその辺から摘んできたよもぎの葉で拭いてくれた。リュカの眼鏡も拭いて見せたら、なんだか眼鏡が香ってる、と喜んでた。

夕飯はモロッコ風。ひよこ豆のフムス、ビーツのフムス、バトボット、焼き茄子のマリネ。

夜の映画は「8年越しの花嫁」を選ぶ。この男の子を見てると、何かを成し遂げようとする時、温かい気持ちを持って冷静でいることがどれだけ大事なことかと気付かされる。病気という壁のはだかる恋愛ドラマで泣いたり喚いたりが多いのはちょっと苦手だけど、この映画は佐藤健さんのひょうひょうとした雰囲気が安心して見てられた。しかし、この人美形ね。最近日本の若い俳優さんは、美形というよりも崩れた感じが流行ってるようで、それも悪くないけど、ちょっと飽きてたんで、久々の正統派美形にハートを掴まれた。


2020年04月27日(月) ヴェーガン・ラクサ

カレーラクサを作った。シンガポールの屋台とかフードコートで食べるやつ美味しかったなぁ。しかしあれは魚介類があれこれ入ってた。野菜だけで近い味を再現したい、と色んなレシピを参考に作ってみた。まずはペースト。エシャロット、にんにく、しょうが、レモンの皮(レモングラスの代用)、ピーナッツ(カシューナッツの代用)、グリーンチリ、コリアンダーパウダー、ターメリック。具はマッシュルーム、インゲンマメ、赤パプリカ(本当は厚揚げとかもやしとか入れたいけど手に入らなかった・・・)。麺は米粉のと緑豆春雨を2種類入れる。ペーストをサラダ油で炒める。野菜スープ、ココナッツミルク、野菜を入れて煮る。隠し味にトマトケチャップ(鰹節が手に入らない時これで代用するといいらしい。すごい発見だ)、醤油、豆板醤、味噌、自家製カレールウを少々。茹でた麺と盛り付けて出来上がり。レモンを絞り、本当はコリアンダーを乗せたかったけど、ないのでミント。ないない尽くしでなんとか出来上がったラクサは、野菜だけとは思えないコクが出てかなりイケた。リュカもかなり喜んで食べてた。シンガポールの食べ物の話になって、美味しいものあれこれ思い出してたらカヤトースト食べたくなった。湿度と熱気むんむんの中で食べる甘ったるいトーストと甘ったるいコーヒーは最高だ。ドリアンシュトルーデルもいいな。あんな国に住んだらわたしはすぐに虫歯だらけの糖尿病患者になってしまいそうだ。次はカヤトーストを食すべくカヤジャム作りにしよう。


2020年04月26日(日) 薬食

韓国で旧正月などのお祝いの席で食されるヤッシックを作ってみた。いつか韓国土産にと頂いたのが美味しくて、カタカナで"ヤッシック"と覚えていたのだが、漢字では"薬食"と書くと知って納得。体に良さそうな食材をあれこれと入れた餅米料理なのだ。基本はヨンジョンさんのレシピで、だけど我が家では高級ナッツのひとつ松の実は相当なことがないかぎりひまわりの種で代用となる(でもこのほうが風味が軽くていいことも多い)。とても美味しくできた。米をミルクで煮るデザートと同じくらい好き嫌いの分かれそうな味。日本でも韓国でも中国でもお祝いの席は餅とか餅米。姿は少々違うものの、起源は同じアイディアにあるのだろうな。でもどんな?








ランチは最近ハマってしょっちゅう食べてるビーツのカレー。ボルシチはヴェーガン仕様で作ってみたけど、いまいち間の抜けた味になっちゃうし、ビーツってどうかしたらすごく美味しい野菜なのに、その食べ方にいつも迷ってたのだが、このカレーはビーツの甘みが活きてて、土臭さも持ち味になってて美味い。にんにく、ココナッツオイル、クローブ、カレーパウダー、チリフレーク、チリ、ココナッツミルク、ライムなんかが入ってる。インゲンはきなこ和え。

"Poverty, Inc"というドキュメンタリー映画を観る。わたしは人生の中で寄付金を出したことはほんの数える程度。機会はいくらでもあったけど、何かが引っかかっていた。理由のひとつは単純に自分の生活を基準に周囲を見まわして、自分と同じ物を持ってない人を哀れんで、施しみたいなニュアンスの"あげる"みたいな行為が傲慢な気がするからだ。またその支援の良し悪しをはっきりと断定できるほどの支援される側の実情を知る術がないからだ。この映画を見て、少しだけ自分の意思を形成できるような情報が得られた。今では貧困支援は影では密かに"貧困産業"とか"新しいコロニアリズム"と囁かれる。欧米諸国とアフリカの関係性はアフリカにとっては不利なことばかりだ。アフリカは自立したい。資源の豊富な国だから自立できれば貧困から抜け出せる。だが欧米諸国は国民から取り上げた税金の使い途のひとつとして例えばNGOとかのあらゆる支援団体に渡すフローができあがってる。NGOがあれば雇用もできる。そこでアフリカが自立してしまったらどうなるのか。雇用はなくなり、その税金は?支援する必要がなくなるというのは支援する側にとって不都合なのだ。ハイチは2010年大震災に見舞われた。その時、沢山の無料の物資が送られてきた。そういう緊急事態では彼らは本当に助けが必要だったのである。ところが、それから何年経っても支援は続く。無料でもらったアメリカ米は格安で市場に出回り、それで地元の農家の作物は売れなくなり、農民は貧困に追いやられる。ケニヤではコットンの栽培が盛んで、かつて市場にはケニヤ・コットンのシャツが出回っていた。ところが、今では欧米諸国が支援の名の下に中古の服を沢山送ってくる。仕入れが無料のこれらの服は市場に格安で出回る。こうしてコットンを作っている農家も貧困に追いやられるという仕組み。

「僕たちが欲しいのは、魚じゃなくて、魚の釣り方を教えてくれること。そして去っていってくれること」

アフリカは、NGOが支援が不要になっても、現地で大きな邸宅に住み、サーヴァントを雇い、高級車に乗り、支援活動を続けることを苦々しく感じてる。

じゃぁ、良い支援とはどういうものか、という話になる。イギリス人のコリガンさんは、ハイチの貧しい都心の地区で孤児院を創った。だが、そこで暮らす子供の殆どは両親がいて、会いにきたりする。ハイチの人々は孤児院を無料の託児所のように受け取ったのだろう。自分は貧しいが、あそこへ連れてけば食事と教育を与えてくれるみたいに。そこでコリガンさんは考えた。この親達は本当は子供と一緒に暮らしたいのだ、そして子供は親と暮らすのが一番だ、じゃぁそれにはどうしたらいいのか。親に仕事があり、収入があればいいのだ。この孤児院では親を雇いアクセサリーを作らせて、彼らに収入があるという仕組みを作った。彼らはその収入で家を買い、親子が家賃の心配をせずずっと居られる安住の地を得る。

この映画では、知識層が"アフリカは貧困じゃない""もう支援は要らない"みたいなことを叫んでた。それは一方では最もな話だ。だが、他のドキュメンタリー映画で見た、常におなかをすかせた本当の貧しい人々のことを思い出す。アフリカの一つの問題は54カ国中資本主義国はたったの16カ国。本当に貧しい人々への支援は、独裁国家の上流で滞って、届くことがないのかもしれない、そう思うとやるせない。

朝の一杯のコーヒー。エチオピア産。農家からわたしの手に渡るまで、6回トレードされてる。だからわたしには適正価格に思えても、農家は買い叩かれてる。わたしが、じゃぁ、余分に1ユーロ支払いましょうってオファーしたって、農家がそれを受け取れるわけじゃない。フェアトレード商品もあるけど、内訳を見なければ高い理由に納得できない。そしてわたしはやっぱり路頭に迷う。


2020年04月25日(土) 呼吸に集中する

「引き寄せの法則」は忠実だ。ここ数日、生理前のちょっとした不調で、心も少し落ち込みがちだった。こんな時こそ、快調な時には気配を感じたらすぐに逃げるだろう負のエネルギーをめらめら感じるような人と関わって、余計具合が悪くなるんだ。こういう人を遠ざけるには、心身共に快調な状態に戻すこと。YOUTUBEを見ながら、生理の浮腫に効果があるというヨガをやってみる。スラリとしてて体が柔軟なキレイな日本人女性が講師。声も柔らかくて物言いも優しい。

「ここで曲げるのがキツければここでもいいですよ〜キツくないところで止めてください。リラックスして〜、呼吸に集中してください」

こんな調子。日本人の女の人ってやっぱり柔らかくて女性的でいいな。

数分で心はすっかり癒やされてきたのだが、何よりこの"呼吸に集中する"という行為は偉大だ。目を閉じて、じっと静かに自分の呼吸に耳を傾けてたら、突然涙が溢れるくらい幸せな気持ちに満たされたのだ。わたしの人生嫌なことだって辛いことだっていっぱいあったけど、こうして生きてて呼吸を続けてるんだって。この世に生み出してくれた両親に感謝して、一時も休むことなく呼吸を続けてくれる自らの肉体に感謝して、この呼吸を阻むものがなかった幸運に感謝して。日々当たり前として過ごしてることの尊さに気付いて心底感激したのだった。

こうして気持ちが幸福に満たされたら、うっかり関わって受け取ってしまった負のエネルギーはすっかり消えてた。

散歩にでる。春、新緑。

そして外出禁止。


2020年04月20日(月) Pizzoccheri classici con la verza

ブルターニュの蕎麦粉でピッツォッケリを作ってみた。

ウィキペディアの説明によれば・・・

ピッツォッケリ(pizzoccheri)は、イタリアのロンバルディア州ヴァルテッリーナ地区の名物であるパスタの一種である。蕎麦粉を使用することが特徴に挙げられる。
概要

ヴァルテッリーナ地区はロンバルディア州の最北端であり、スイスとの国境にあたる山岳地帯にある。寒く、土地が痩せていて、小麦の栽培が困難なこの地方では、小麦の代わりにソバが作られてきた。

ピッツォッケリは、日本の二八蕎麦と同様の蕎麦粉8:小麦粉2から、蕎麦粉2:小麦粉1ぐらいで任意の比率の混合蕎麦粉をこね、のし棒などで伸ばして成形することで作られる。幅10ミリメートル、厚さ1.5ミリメートル、長さ70ミリメートルという短冊状をしているショートパスタと呼ぶには長く、ロングパスタにしては短いサイズが特徴。これは、材料に蕎麦粉を用いているため、長く伸ばせないことに由来する。

茹でたキャベツ、ジャガイモ、ピッツォッケリをチーズとバターのソースで和えることが多い。


のだそうだ。まずはクラシックなやつだろう、とこのレシピで作ってみることに。しかし4人分と書かれたレシピのバターやチーズの分量を見て怖気づく。ロンバルディアの山岳地帯で、暖炉に焚べる薪を集め歩いたり、スキーしたり、クマと戦ったりしてるならこれくらいするりとお腹に収まっちゃうんだろうけど、なにせこちらは外出禁止の身で、家の周りをチョロチョロ動くだけ。でも料理って健康に気をとられるあまりバターやチーズを減らしたりすると、やっぱり味がキマらない。だから1/3の量を作って2人分とすることにした。それでもけっこうすごいけどね・・・。

過去にブルターニュ産の蕎麦粉で蕎麦打ちに挑戦したけど、細麺はプツプツ切れて散々な結果になった。それ以来は岩手のそばかっけ風にしてる。ピッツォッケリも麺にできないからこういう形になったらしい。大きな鍋に水とじゃがいもを入れて、じゃがいもが茹であがるちょっと手前でキャベツを投入。火が通りきる寸前に打ったピッツォッケリを入れて1分くらい。こうして全て一緒に茹で上げる。オーブンで温めておいたお皿にこれとチーズを交互に重ねて入れていく。最後ににんにくとセージで香り付けしたバターをじゅわっと上にかけてオーブンに戻して3分ほど待つ。

ちょうどオーブンでは田舎パンが焼けて、その余熱でできた。うまく段取りできて、余すことなくエネルギーを使い果たせたりすると嬉しい。イタリア料理のレシピにはオーブンの余熱で焼くクッキーとかそういうの普通に載ってる。それを見た時は、ストーブの上でいつもさつまいも焼いてる叔父のこと思い出した。こういう健全な田舎っぽさにはすごくときめくんだ。

さて、初のピッツォッケリのお味は。美味しい、すごく。キャベツとじゃがいもの優しい味、蕎麦粉の滋味、そこにセージとにんにくがアクセントとなってて、チーズとバターが贅沢に香ってる。量もこれに一切れ田舎パンを付けたくらいでわたし達にはちょうどよかった。


2020年04月17日(金) ただ自然と共に生きてく

買い物帰りに見た光景。小さな白い花が咲く草っぱらでひと休み中のおじさんと犬。美しい絵ではないか。写真をぱしゃり。それからしばらく彼らを眺めてたら、色んなことが脳裏に浮かんで涙がでてきた。中国と同様フランスでも、コロナが動物から人間に感染するとかそんな情報を聞きつけて、ペットを捨てる人が多発してる。シェルターは受け入れきれなくて、結局外出禁止の免除項目に"ペットの里親になるため"というのが加わった。

最近気付いたこと。多分わたしがしたいのは「動物愛護」じゃない。人間の動物に対する傍若無人な行動を止めたい。同じことなのかな?リュカは部屋の中にハエが飛んでるのがダメで、見つけるとすごい勢いで捕まえに行く。クロちゃんと大人の男が一緒になって夢中でハエを捕まえようとしてる姿は滑稽だ。ついに手中に捕まえると、窓を開けて、外に放つ。一度、この光景を見た人がリュカに尋ねた。

「どうしてぴしゃりと殺してしまわないの?」

リュカはこう答えた。

「僕は自然には触りたくないから」

それだ。わたしが目指してるのはこういうこと。自然は自然の中で循環していけば自然とうまくいくんじゃないかって思う。人間も自然の一部で、人間が身勝手に自然を破壊して生態系を壊していったら、今度は人間が食糧難や疫病や精神の病で絶滅していくだけ、そうとも考えられる。でも人間は美しい海と山、動物たちと共生することだって選べるんだ。見てるだけで心が洗われるような新緑、叫びたくなるような壮大な花畑、優しい気持ちをくれる動物達。この世は美しいもので溢れてるのに、破滅の道を選ぶ必要なんてないじゃない。

こんなことを考えながら、家にたどり着いてクロちゃんを抱きしめた。


2020年04月16日(木) 手作りマスク

思い立って、端切れの布でマスクを縫ってみた。とても簡単で1時間ほどで2枚できた。マスクの有用性については色んな情報が飛び交ってるけど、わたしの信ずるところでは、どんなマスクでもしたほうがいいということ。2ヶ月前、WHOはマスクは感染した人がする時のみ有効なんてこと言ってた。で、元々マスクをする習慣のないフランス人は、着用しなかった。でも、現時点で自分が感染してないかなんてわからないのだから、感染してるかもという心構えで行動するほうが賢明だ。ところが、外出禁止にまでなる頃、WHOはマスクは必要とかいいはじめた。今では大統領が演説の中でマスクを全国民にあげるとか言ってる。布マスクは目が粗くて効果がないともいう。確かに空気中で飛んでるのは通しちゃうんだろう。しかし、布マスクでもしてれば、飛沫が付着してるかもしれないような物を触った手で、自分の口元を触ることは避けられる。わたしは日頃出来るだけ手を洗わないようにしてきた。手を洗うのは食べる前だけ。食べる前は必ず洗う。これは鉄則。家では石鹸を使わないけど、外出した時は使う。予防注射とかそういうのは恐くて、インフルエンザのも打ったことがないけど、一度もかかったことがないのは、この鉄則のおかげかもしれないと自己分析してる。今は買い物から帰ると、買ったものと自分の手を全て石鹸で洗う。でもやっぱり洗い過ぎになるのが少し心配だ。


2020年04月13日(月) 欧米ミニマリストとスムージー

欧米のミニマリストと自称する人々の生活を紹介した動画を沢山観たのだが、必ず出てくるのはスムージー。欧米ってダイエットでもなんでも、健康と繋がるキーワードは必ずスムージーに行き着くんだ。朝は大きなボトルにスムージーをたっぷり。豆乳、野菜、果実がいっぱい入ってて、とろりとしてて美味しそうだけど、朝スムージーとか無理だな。冷たいもん。ヨーグルトや果物だって嫌なんだ。欧米の朝食でクロワッサンとカフェが来て、そこまではいいんだけど、それにオレンジジュースも来たりするのはよくわからな。どのタイミングでオレンジジュース飲むの?クロワッサンとは絶対合わないし、カフェと果物一緒じゃ歯にシミができちゃう。欧米人に聞いてみたけど、誰もちゃんとした答えをくれない。みんな"なんとなく"でこのオレンジジュースをやり過ごしてるのか。それで午後ならスムージーがいいかって言われたら、それもあんまり。甘い飲み物がそもそも苦手。スムージーなんて夏の強烈に暑い日に、スイカや桃をジューサーにかけるくらい、それ以外飲んだことない。この欧米ミニマリストの夕飯もあんまり火を使った料理はしないのね。オーブン料理はオールドファッションなのかもね。しかし、スムージーが健康でエコフレンドリーか言われたら、そうでもない気がする。アヴォカドは南米から、トロピカルフルーツは赤道近くの国からの輸入だろうし。その土地でその季節に生る旬のものを食すのがいちばん体にも環境にも優しいと思うのだけど。ともあれ、ファストフードばかり口にして、肥満で体調悪くて、働けなくて、政府の補助金もらうもそれは薬代に食いつぶされて、だから低予算でお腹を満たせるファストフードしか食べられなくてっていう悪循環にはまるよりずっといい。大事なのは完璧になることじゃない、意識を向けることなんだろう。

今日は豆じゃがにした。20年くらい前、知人が肉の代わりに生姜と大豆を入れた肉じゃが風を作ってくれて、それが美味しくて、春になると新にんじん、新じゃが、新玉ねぎで作ってる。イタリアのヴェルジニアカーサで手作りされてるカルチョーフィの器に盛り付けて。散歩の途中摘んだ藤の花もフランス人がするようにべニエにして食べた。味も食感もなくて、美味しいものじゃない。春の訪れを食卓の上で感じることが醍醐味なんだろう。

外出禁止も1ヶ月になって、すっかりこのリズムが出来上がってきて、この世間の静けさが心地よいような気すらしてきたのだが、今夜マクロン大統領がまた今後の話をするらしい。

「無駄に長い演説。"これは戦争だ"って何回同じこと言うの」

とか言われてるけど、わたしは安倍総理のほうが心配。マスク2枚よりもうちょっといい策はなかったのか。


2020年04月11日(土) Heal Your Living

このところ朝の起きがけに眺めてる動画。わたし自身はこんなではないけど、ヨヘンさんの暮らしぶりは心地よさそうで、真似したいところが沢山ある。ミニマリスト、サステイナブル、エコ・フレンドリー、完璧にこなせないけど、これは生活の中の大きなテーマだ。フランスは今年からプラスチック製品に税をかけるようになった。使い捨てのプラスチックの皿やカップやカトラリーも禁止。カフェの自動販売機のカップも紙製に変わってた。ストローも紙なんだそうだ。ファストフード店でもドリンクのカップの蓋はもうくれないらしい。日本は数年前中国にプラスチックゴミを送るのを拒まれてからマレーシアに送ってたが、昨年末だったか、マレーシアからも拒否されて送り返されてた。こういうところで母国の名前が挙がるのはぐさっと刺さるものだ。現代の先進国の暮らしは、うっかりするとすぐに物に埋もれて、自分の口に入れるものや手に取るものに無関心になっていく。心の方向はヨヘンさんと同じ。しかし、朝はカフェ(カフェイン)が欲しいし、浜辺でヨガもしたくないわたしのような人は、よろよろとカフェを淹れて、パソコンの前に座って、こういう動画に少しだけそのヒーリング気分を分けてもらうくらいがちょうどいいみたい。

ひとつ、すごく好きな言葉があった。

「これじゃなきゃとかあれがなきゃとか思わないで、いつも何かで代替えできないかって考える」

フランスに来てから和食を食べることは少なくなった。いちばん好きなのはやっぱり和食だけど、だからってこれじゃなきゃって頑なにそれにしがみついたりしたくない。たまに和食を作るっていっても、調味料も食材も代替えばかり。でも、それでいいかって思ってる。いつだったか覚えてないけど、ある日そういう執着は持たないことに決めたんだ。目の前にあるものをじっと見つめてれば、だんだんそれが愛しいものになっていくもの。あったらいいなと思うものはいっぱいあるけど、なかったらそれでもいいかっていう軽い心持ちで生きていきたいな。
















フラジョレ(Flageolets)の餡を作って、饅頭にした。若草饅頭と勝手に命名。バターとかクリームとかチョコレートたっぷりもいいけど、やっぱり和菓子だね。ほっとする。今日は急に初夏みたいに暑くなったから夜はざるそば。和菓子に蕎麦、こんな日はなんだか嬉しい。


2020年04月08日(水) マイ・エンディングノート

毎日沢山の人がウィルスにおかされてこの世を去ってく。人生の最後に、隔離された状態で、家族の手も握れず、去っていくのだろうか。そんなことを想像すると切ない気持ちになる。しかし、そんな風に死んでいく人のほうが多いのかもしれない。いつ、どこで、どんな風に最後を迎えるかはわからない。半年前に書いた遺言の手紙を見直した。「遺書」、「遺言書」、というと堅苦しいとか、暗いイメージがつきまとうらしいので、「エンディングノート」と呼ぼう。法的効力など持たない一枚の便箋に書いたたった数行のメッセージ。

わたしの遺灰はマントンの海、西オーストラリアのCOMOのスワンリバー、アルバニーの南極海、千葉の勝浦の海に撒いてください

猫の面倒を見てください

フランス語の絵日記は夫のリュカに捧げます

今までありがとう
幸せでいてください



封筒に入れて黒い漆塗りの文箱に入れてある。この文箱には人生の中の小さな宝物が詰められてる。どこかへ避難する時にはこの箱とクロちゃんを抱えて逃げると決めてる。リュカには

「生きてるうちは絶対開けてはいけない。開けていいのはわたしが死んだ時だけ」

と言ってある。

「もし君が生きてるうちに開けたらどうなるの?」

「あなた死ぬよ(これは本当である。見たらひっくり返っちゃうようなリュカの知らないわたしの人生が詰まってる)」

「恐い!僕絶対開けないよ」

クロちゃんは、わたしがシャワーを浴びてる間、バスルームのドアのすぐ裏の棚に置かれてるこの箱の上に座って待ってる。一度脚を滑らせて、落として箱の隅を割った。

遺灰は海なんかに撒くのはあまりよくないとも聞くが、リュカはそういうことはちゃんと調べてからやる人だから、駄目といったら塩一振りくらいにしとくんだろう。わたしは自分の愛した海に還りたい。そしてリュカにも旅してその海を見て欲しい。そういう思いを込めた。フランス語の絵日記は、リュカが欲しいというので彼にあげることになってる。そして最後にありがとうというお礼を言えるかわからないから、それも書いといた。書き終えた時には完璧のように思えたが、母とLINE通話しててふと思う。この手紙を見るのはリュカと想定してるけど、そうじゃなかったらどうなるんだ。。。

「あんまり変なこと書き残されても困るんですけど!」

母はいつでも根拠なくわたしより長生きする前提で話す。しかし確かに恐くて飛行機に乗れない母の手に渡った日には、迷惑極まりないな。

「お年寄りなんかはコロナにかかると危ないからね」

「他人事みたいに言ってるけど、自分もお年寄りだからね」

「あっ!そうだった!」

母と話してたら段々不安になってきた。このエンディングノート、母の手に渡る可能性も考えて書き直すべきか?妹なら問題ない。父だったら。。。最悪も最悪。猫も手紙も捨てられそうだ。


2020年04月04日(土) 理想の結婚相手

料理について調べてて偶然たどり着いたフランス人男性と結婚してる日本人女性の日記。旦那の悪口と、その日作った料理写真の日記。そんな話読んだらどんな写真映えする料理でも食欲が失せる。悪趣味だわぁ、でも当人はこれでストレス発散してるのかもねっ、と通り過ぎようとしてふと見えた。沢山のイイね!人気なの、こういうの?コメントもいっぱい。

「日本人は病んでるのかしら。こんな日記が大人気なのよ」

リュカに話す。

「イイね!もコメントも同じような人達から送られてるんじゃない?」

コメントしてる人の名前をクリックして、その人達の日記に飛んで仰け反る。リュカの言った通り。フランス人旦那の悪口同盟なのだった。旦那さん達は酷い人みたいにまつりあげられてるけど、冷静に見て、書いてる人にも問題あるんじゃないかって思ったり。関係のこじれたカップルの一方だけからの話は鵜呑みにしないことにしてる。大体、こんな酷いこと言われたとかいう背景には、そんな酷いことを言われるに至った出来事があって、それは語られてなかったりするもんだ。まぁ、しかし、フランス人の男はこんなんだ、結婚するべからず、みたいな意見がいっぱい書かれてて、確かにフランス男あるある、な一般的な習性は頷けるけるけど、かといってじゃぁ他の国の人とならうまくいくのかっていう話だ。

外出禁止で旦那が鬱陶しいと思ってるのは日本人女性だけじゃない。世界中で離婚が増えてるみたいだし。わたしはこの状況になって、夫がリュカでよかったと思った。他人に押し付けないひとりよがりの清潔好き、楽天的だけど、簡素な暮らしが好きで無闇に散財したりすることがないから貯金もある。今まで会ったラテン男はみんな本当に優しい気質の人ばかりだった。デート中はお姫様みたいに扱ってくれて、毎日キスと愛の言葉を絶え間なく浴びせてくれて、どこへ行っても花やお菓子を手に戻ってくる。デートしたことなくても、周囲は優しいラテン男ばかり。しかし、デートするだけなら甘ければそれでいいが、一緒に生活するとなると話は別。明日のことは明日にならないとわからないみたいな無計画なその日暮らし、明日やれることは今日はやらないみたいなのんびりペース、せっかちできっちり計画性を持って暮らしたいわたしは、大抵のラテン男とは暮らせそうにない。今みたいな危機的状況でもマスクしないでふらふらして、挙げ句の果に罰金課されたり、持ち金はヴァカンスで使い切ってきたから、仕事に1ヶ月行けないだけでひもじい暮らしをしなきゃいけなかったり。まぁ、日本人女性と離婚したりする外国人だって、デートしてる時は可愛くて奥ゆかしかったのに、結婚したらたちまちがみがみうるさく言う色気のない人になっちゃったって人沢山いるからね。恋してる時は盲目で、共同生活が平穏に送れるかなんてことは考えても、やっぱり駄目そうなところも乗り越えられちゃうような気がしてしまう。でもやっぱり、気持ちが落ち着いてきて、ましてや子供が出来たりすると、そこで歪がでてくるんだろうな。結婚相手は10個どうしても許せないことを挙げて、それをクリアできた人とするのがいいっていう。そんな打算的じゃなくて、「好き」っていう純粋な気持ちだけで結婚したいのっ、て思うのもわかる。でも、どうしても許せないところのない人なら一緒に暮らしていくうちに少しずついいところを知って(いいところがない人間なんていないのだから、必ず発見するから)、結局ある日それが大きな愛に変わってたりするものなんじゃないかな。

わたしは結婚というものに興味がなくて、だから理想というのも持ってなかった。理想を持ってなかったから、そんなもんなのかな?で丸く収まっちゃってることも多々あるのかもしれない。でも結婚してよかったな。結婚2年目の新米妻はそんなことを思う。


2020年04月02日(木) 春にんじんのファルファッレ

葉付きの春にんじんが出回り始めた。実家ではこの時期になると母が山でセリを摘んできて、セリご飯を作る。にんじん、しいたけ、筍、油揚げなんかを砂糖と醤油で炒め煮にして鰹節を少々、これを炊いたごはんに混ぜる。これがでるとみんな茶碗2杯は食べる。ここへ来て、葉付きにんじんを買って、葉を炒めてみたらなんとセリみたいな味じゃぁないか。調べてみたらにんじんってセリの家族だったのね。セリよりちょっとごわごわしてるけど、セリがないから、これでセリご飯気分を味わう。昨夜はあまり口に合わないのか、リュカが茶碗一杯で箸を置いたのをいいことに、わたしはボウルに残ってたのを全部平らげた。山盛り2杯くらいはあったな(前回の日記に少食心がけてるって書いたばっかりなのになっ)。

そしてこの春にんじんというのがまたエグみがなくて繊細な甘さがあって美味い。ストウブ(無水鍋)にバターとざっくり切ったにんじんとシナモンと塩を少々入れて蓋をして、中弱火でじっくりじっくり火を入れる。たまにかき混ぜて、少々焦げ目がつくまで蒸し炒める。30分以上かかったかな。ミキサーにかけて、水を足して延ばす。これでソースの出来上がり。ファルファッレ(蝶々っぽくて春のイメージにしたのだが、ソースかけたらわからなくなっちゃった)は全粒粉を20%くらい入れて打つ。最近イタリアでは健康にいいとして全粒粉パスタがブームらしくて、パスタ売り場では3割くらい全粒粉パスタが占めてる。でも、全粒粉パスタってちょっとソースが難しい。アルデンテにするとすごい不味いし。日本人は昔から玄米を食べてた。フランス人だって昔から全粒粉のパンを食べてた。どちらも美味しいもの。でもイタリア人はどんな貧しい地域の伝統料理とやらを見ても白いパスタを食べてるじゃない。もうとうの昔にイタリア人は全粒粉パスタは美味しくないと烙印を押したんじゃないのかな、と想像したり。ともあれ、豆乳のクリームソースなんかにはよく合うんで、このマイルドな味のにんじんソースとも合いそうな気がして、全粒粉を入れてみたのだけど、これは正解だった。茹でたファルファッレとソースを和えて、ひまわりの種とにんにくとオリーブオイルとにんじん葉をミキサーにかけてペストにして少しかけてみた。これは大成功。それはそれは美味しい一皿になったのだった。


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