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午後3時。コート・ダジュールの市役所にて結婚した。背後に友人達と式場の後ろの壁に額縁に入れて飾られたわたしが"マカロン"と呼ぶ大統領の写真に見守られて、市長の前で宣誓した。市長はわたしの顔を見てにっこり笑い、
「さて、何語でやりましょうか」
などとジョークをとばす。
「日本語でお願いします!」
と答えてみんなどっと笑ったりとコート・ダジュールらしい緩い雰囲気で進んだのでカチカチに緊張したりせずに済んだ。結婚指輪というものを着用するのは嫌で、リュカも要らないというので交換しなかった。式は10分ほどで終わり、外に出た瞬間ライス・シャワーとクラッカーが飛んできた。式が始まる直前になって友人が米をくれ、という。お腹でも空いているのかと思ったら、ライス・シャワーをやるという。
「そんな、もったいない。どうせならおにぎりにして投げてくれる?そしたらキャッチして食べるから」
とリュカ。そんなやりとりを聞いていたのだが、どの場面でそれをやるのか知らなかったのでびっくりした。
その後、クリスティーヌの庭へ移動して、ちょっと早い晩餐会となった。結婚は日常を一緒に生きていくこと。だからそれを始めるのに派手なセレモニーは要らない。わたしもリュカもその考えは一致していた。だから当初は必須である市役所での結婚式だけ済ませればいいと考えていた。だけど、結局友人やリュカの親に証人や通訳を頼んで、忙しい中わざわざ出向いてもらわなければならず、それならば一緒に食事をしたいと小さな晩餐会を企画した。この辺りでは大きな土地を所有する人は珍しくなくて、あちこちから会場として庭を提供するという声が挙ったのは有難いことだった。結局は市役所からの移動を考えて一番近いクリスティーヌの庭を使わせてもらうことにした。会場は決まった。さて料理はどうする?外注するにも適当なところを知らない。この小さな町にある数軒のレストランは、みんな交流の場として飽き飽きするほど使っている。そうだ、手作りしよう。全部手作り。そう決めた。結婚とは全く関係ないクロエちゃんの顔のカードの招待状を手作りし、そこにわたし達が日頃食べている大好きなものばかりで構成されたメニューを記載した。
Apéritif dînatoire
Le 29 Juin 2018 à 17:00
Menu
Entrée
●Salade d'aubergines et pois chiches
●Salade de pommes de terre à l'orientale
●Poivrons grillés et marinés aux anchois
Plat
●Busiate a la mode de Trapani
●Pizza aux cinq fromages et citron
Dessert
●Tiramisu
●Gâteau au chocolat
●Macedonia
●Gâteau au fromage frais
3日前にパンやクラッカーは色んな種類を焼いてすぐに冷凍庫へ。打ったパスタも当日茹でるだけでいいように冷凍庫へ。翌日と翌々日はデザートとピッツァ生地作り。当日の朝サラダを作った。サラダ作りはリュカのお母さんが手伝ってくれた。息子を訪ねてきた日くらい家事を忘れてゆっくりして欲しいと最初は断ったのだが、いざ手伝ってもらうとそのあまりにもの手際良さに、あの、これもお願いできますか?などと頼んでしまう始末だった。"料理とか全然好きじゃなくて、うまくないの"というけど、家族のためにずっとやってきたのだろうな。うちのお母さんみたいだ。お喋りで、何でもすごく楽しそうで、すごく謙虚な人。妹さんはとびきりスタイルがよく綺麗でおっとりで無邪気な雰囲気。リュカはこういう女の人達と暮らしてきたのか、としみじみ考え、それでも新しい家族を作ってよかったと思ってもらえるように心がけようと思った。
バッフェ形式で各自好きなものを好きなだけ飲んで食べて、とゆっくり始まった。みんな美味しいとよく食べてくれた。イタリア人から、
「このパスタ超うまい!マンマの味だ」
とか、
「このティラミスはまぎれもなくイタリアの味だよ」
という"イタリア的最高峰"の賞賛の言葉をもらえたのは光栄だった。贈り物やカードもたくさん頂いた。"贈り物はそのうち姿形は消えてしまって記憶にだけ残るものが好き"、と言ったのを覚えてくれていたのか、花を沢山頂いた。驚いたのはリュカの同僚一同からの贈り物。なんとハネムーン。包装紙を開くと一見DVDのようなものがでてくる。パッケージを読むとフランスの地図あちこちに点が打たれていて、どこでも3日間宿泊できるというもの。"結婚のことが落ち着いたらエズ村にでも1泊してビーチでのんびり過ごそうか"などと話していたわたし達には思いがけないものだった。
22時を回ってやっと陽が沈みきった頃、リュカのお母さんが暗闇を指さして叫んだ。
「ホタル!」
庭の木の下でホタルが飛び回っていた。
「あぁ、木の下とか空気の澄んだところによくいるよ」
と、クリスティーヌが何事もなかったように言う。子供の頃、家の前で毎夏飛んでいたホタルはいつの間にか姿を消してめっきり現れなくなった。お母さんも都会暮らしだからなかなか見ないのだろう。冷ややかに座ってシャンパンを飲むクリスティーヌを尻目にみんなはしゃいだ。
リュカとリュカのお母さん(これからは"お義母さん"になるんだね)、妹とわたし、並んでゆっくりと家に歩く途中、わたし達が"猫通り"と呼ぶ猫が沢山寝転がっている(といってもみんな飼い猫)道でお義母さんが楽しそうに猫ちゃん、猫ちゃんと呼んでまわった。なんでもないのに妙に印象に残る場面だった。
いつもよりちょっとだけ良い服を着たわたしとリュカ。ジーンズやショート・パンツ姿のゲスト。日々食卓にのぼる飾らないけど美味しい料理。完全にオリジナルで、人から羨まれるようなものでなくとも、すごく幸せだった。家に帰って市役所でもらった立派なコート・ダジュールの家族手帳を眺めたらなんだかすごく嬉しくなって、いつかここがホームだと思えるような気がしてきた。
2018年06月19日(火) |
その無理、誰のため? |
"無理をする"時は誰のためにするのかとまず考えるべきだ、と思う。自分のためでないならばやめたほうがいい。誰かのためと言って自己犠牲の精神だけで続けていることは大して有難いと思われていない。人は人付きあいが、とか、友達だから、とかいうけど、人や友達は自分を苦しくさせるために存在しているわけではない。もしそうであればそんな人達のために自己犠牲を払う価値はあるのか、と考えたほうがいい。無理をしてでも人間関係を良好に保ちたいという人は、結局孤立したくないというだけで、一見自己犠牲に見える物事は彼ら自身のために行われていることである。
ひとりでニースへ買い物に出た。ちらほらと植えられたジャカランダが花を咲かせていた。西オーストラリア、パースでは11月の終わりごろ通り一面に花開いて、それが散る頃にクリスマスと本当の夏がやってくる。オゾン層の破壊された泣きたくなるような一点の曇りのない青いだけの空と薄紫のジャカランダ。痛いほどキレの良い空気感と共に今でも強烈に記憶に刻まれている。あまり好きでなかったこの街も、幾度となく歩き回るうちに、裏通りの素敵なお店や落ち着くカフェ、少しずつ好きなものが増えてきた。いつかこの街のこともどこかで皮膚に刻まれた記憶として蘇るのだろうか。
本年度のCours d'Anglaisが終了し、シメにとピクニックが催された。ピサラディエ、シュケット、タルト・オ・ポム、クレープ、ライス・サラダ・・・とみんなの手作り料理が並ぶ。わたしでも食べられて、どれもとても美味しい。こんな時ここはいいなと思う。オーストラリアではこういう催しものはバーベキューとなる。ホンモノのオージー・バーベキューは目も当てられないほど大きな肉の塊を焼いたりする。わたしはその光景が苦手でほとんど参加しなかった。フランス人はピクニックでもちゃんと順序を守って食べ進める。野菜やスナックからはじめ、チーズ、果物、デザート、そしてカフェという運び。今日はお腹を満たしたところでペタンク大会となった。こちらに来てこのペタンクというゲートボールを彷彿させる極めて地味なスポーツを老若男女みんな真剣に楽しんでいることに驚いた。的を投げて、その的に極めて近くボールを投げられた人が点を得るという極めてシンプルなもの。メジャーみたいなもので誰のボールが一番近いかなどと真剣に測ったりしている。このスポーツには世界大会なんかもあって、ちゃんと平らなフィールドでプレイしていれば技が試されるというものだが、こんなデコボコの空き地では技よりも運次第でどこにでも転がっていくというのに。フランス人達の真剣さが妙に滑稽に見えてにやにやと笑ってしまった。一見地味でも球が重いので腕が疲れてくる。こういうスポーツは体には良さそうだ。夏の南仏の長い午後はまったりと過ぎて行った。
帰り道、家の近くの道路に巣から落下したとみられる燕の雛が4羽車に踏まれてぺしゃんこになって干からびていた。一体どうして4羽も一緒にこうなってしまったのか。厚紙を使って拾い上げて、静かな空き地の木の根元に寝かせて落ち葉を被せてあげた。いつかは必ず失われる命だといっても何も生まれてすぐに失われなくたっていいのに。足を一本失っても歩き続けるカブトムシや尻尾を食いちぎられたトカゲ。みんな懸命に生きているのに、やっぱり永遠には生きられないということがすごく切ない。
2018年06月15日(金) |
Sac à baguettes |
フランスの魔訶不思議のうちのひとつ。買い物へ出る時はエコバッグやバスケットを持参するのが当たり前の彼らが、日に2、3度買いにでるバゲット専用のバッグを持っていないこと。毎度紙のバッグをもらっていたら1年でどれくらい紙を捨てるのか。わたしはここ数か月は一度もらった紙の袋を持参して買いに行っていたが、思い立ってバゲット専用のバッグを作ってみた。外側に柔らかいフェルト生地、内側はバゲットが滑って収まるようにつるりとしたプロヴァンス柄の綿の裏地を貼った。裁縫は得意なほうではないが、けっこううまく出来た。2本作ったので、結婚のことでお世話になりっぱなしのクリスティーヌの誕生日にかこつけてプレゼントしよう。嬉しくなって久々にバゲットを焼いた。新居のオーブンは大きくて、かなり高温まで設定できるから焼き物が本当にうまく出来る。
「君のバゲットは本当に美味い」
などとリュカが喜んでよく食べてくれるので、皮肉なことにバッグを作って以来一度もブーランジェリーへ行っていない。
勤めていた会社の元CEOが出版した料理の本。彼について知ることは、イタリア系アメリカ人だということだけ。アメリカの料理の本は単位がいまいちピンとこないということを除けば、家族のレシピを親元離れて暮らすようになった二人の娘のためにと書き溜めて出版したというだけあって、簡素で庶民的で使いやすい。今はイタリアとの国境付近に住んでいるからことさら。料理の合間に今まで軽く読み飛ばしていた彼のルーツに関する話をじっくりと読んでぎょっとする。
南イタリアで生まれ育ち、成績も良い真面目な子供だった・・・12歳でラテン語に打ちのめされるまでは。打ちのめされた少年は学校を辞める。"辞める"というのが可能なのか、とにかく通わなくなったということ。そして働き始める。若さだけが頼りの力仕事。給料は1週間で50セント。たまに映画を観るために5セント手元に残して家にお金を入れた。こうして彼の労働人生は12歳で始まったのだが、数年後転機が訪れる。両親に着いてアメリカに移住することになった。英語を学ばなければならなくなり、結局学生に戻った。そしてそのまま大学に進学する。両親は移民の身分で、朝から晩まで働き詰めだったから、勉学の傍ら年下の兄弟の面倒を見なければならなかった。料理はここで始まった・・・。
会社の幹部は、貴族出身みたいな人ばかりだったが、中にはこんな人もいるのだな。もっともこの人の時代では12歳で働いているとか普通だったのかもしれないが、やっぱり自分の生い立ちと比べればすごい、と思う。
イタリアといえば、先日わたしの焼いたケーキを食べたイタリア人からリュカ経由でこんな称賛の言葉をいただいた。
「ねぇ、彼女本当にどこかでイタリアの血入ってない?」
あっぱれ。イタリア人は気が抜けない。
隣人のマクシムが亡くなった。享年84歳。軽度のアルツハイマーを患っていたものの体は丈夫で、日に2度の犬の散歩と3度ブーランジェリーまでバゲットを買いに行くのが彼の仕事だった。家では妻のマリー・ルイーズがいかにもフランスというようなバターの香りを漂わせて料理していた。昨年末マリー・ルイーズがインフルエンザで倒れた時は彼が看病し、そのうち彼も倒れた。回復してからは、一時も離れたくないというように仲良く腕をくんで歩く夫婦の姿を見るようになった。春がやってきて、ふたりの愛犬が死んだ。年老いてワンともいわない気配の静かなチワワ。夫婦はこの犬がいつもいたカウチに代わりにチワワのぬいぐるみを置いた。数週間前、マクシムは膀胱の手術を受け、帰宅して処方された薬を飲んでいた。天気の良い昼下がりマリー・ルイーズは中庭にチェアを出して読書する。マクシムは隣に座って日光浴する。2週間前、薬が強すぎてマクシムは意識が朦朧として転倒し、脇腹の辺りを強く打った。それが化膿し、命取りとなった。
2週間前まで歩いていた人の魂は今日はもうこの世に存在しない。約半年前ここに越してきてから毎日見ていたそろりそろりと歩く老人と老犬は揃ってこの世からいなくなった。まったく想像していなかったから茫然とするしかない。この世に永遠に続くことはひとつとしてない。一時一時を大切に生きなければ。改めて痛感させられる出来事だった。
2018年06月01日(金) |
それでもわたしは世界一愛してるつもり |
新居に越してからクロエちゃんの朝の愉しみは、この今にも落ちるんじゃないかとハラハラするような窓辺の桟から下の通りを見下ろして飛ぶ鳥を眺めること。以前住んでいた家のバルコニーからは2度転落した。下が草むらだったこととさほど高さがなかったことが幸いし、ほんのちょっと爪を折り、肉球を擦りむいた程度で済んだ。しかしこの高さで落ちたら・・・死にはしなそうだが、骨折しそうだ。落下防止の板でも張ろうか。クロエちゃんが今まで通りここで下の通りと飛ぶ鳥を眺めていられるような背の低い板かなにか・・・。と調べていると、"脱走防止"とか"猫は完全室内飼いでなければ可哀そう"だのそういうことを強く主張する人々の意見が沢山出てくる。猫が交通事故にあって死んだら、怪我でもしたら、迷子になって帰ってこられなくなったら・・・。そうなったら、悲しいよ、わたしは、もちろん。でもそれって完全に思う側のこと。受けるほうの身の自由はどうなるのか。猫は本来土の上に寝転んだりするのが大好きだ。外にはいくらでも危険が潜んでる。でもその中で動物は危険を回避する技を学ぶ。ともあれ小さなアパートメントで飼われた猫が可哀そうだとは思わない。その世界しか知らなければそういうものだと思って育っていくだろう。それに外に出たがっても大抵はそう遠くへはいかない。子供が親がダメというものを欲しがるように、大人が隠されたものを見たがるように、猫も柵など張られたらその外側へ行ってみたいのだろう、と思う。わたしの父は野生育ちだから、子供は適当に海でも連れて行って泳がせとけば健康に育つだろうくらいなもの。文明の中で育った母はわたしが何をするにもどこへ行くにもめいいっぱい心配した。しかし、それを止めたことは一度もなかった。だからわたしは自分で全てを決めることができた。子供の頃は怪我がたえなかったし、失敗も沢山した。でも、その時々自分の決断で生きてきたことを誇りに思うし、何よりも自由に生きさせてくれた両親に感謝している。だから動物に対する考えも同じ。好きにさせておいた愛猫が車にはねられて無残な姿で死んだ時は、悲しくて悲しくて泣いてばかりいた。でも思い出すのは庭を走り回り、勢いつけて木や屋根によじ登っては滑稽な姿で落っこちてわたしを笑わせる自由な姿ばかり。家に閉じ込めておけばこんなことには・・・という後悔はしていない。わたしにできることは行動を阻むことではなく、じっと観察して本当に必要な時がきたら助けに行くことだけ、だと思う。
クロエちゃんは自分を猫とは思っていないようだ。人間と同じ時間に食べ物を欲しがり、昼は中庭でめいいっぱい遊び、夕方に帰宅し、野菜と魚を夕飯に食べ、わたしと一緒に床に就く。わたしの腕を枕に朝まで仰向けで寝ているし、寝言まで呟く。本人は人間のつもりで暮らしていて、わたしもそのような錯覚に陥る。だが、たまにハエを追いかけて口に入れてしまう姿を見て、あっ、やっぱり猫だった、と我にかえる。
動物が好きな人の中には"飼う"という行為がすでに可哀そうだという人もいる。自然には触れない、という愛情も納得する。わたしのように猫の本能を尊重しつつも、食事を与えて・・・というのは中途半端かもしれない。しかし、毎日保健所のガス室で息絶えるたくさんの小さな命を前に理論よりも感情が先に歩いていく。何が一番ただしいのか、結論はでない。
(写真:良い朝だ、陽の光をたっぷり浴びて・・・、で、なんか呼んだ?)