My life as a cat
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2016年02月28日(日) ベルベルオムレツ

快晴。朝のコーヒーを飲んだら、バルコニーで猫ともども甲羅干し。たっぷり日光を浴びると気持ちがいいね。優雅な朝のひとときだった。

朝食に最近買ったモロッコ料理の本にあったベルベルオムレツというのを作ってみた。モロッコ人なら誰でも作れるすごくありふれた家庭料理なんだそうだ。タジン鍋はないので土鍋で代用。オリーブオイル、すりおろしたにんにく、みじん切りの玉ねぎ、塩、パプリカパウダー、クミンパウダー、トマトピューレとトマトケチャップ(本当は生のトマトとトマトペーストだがなかったので代用した)を全部鍋に入れて蓋をして、弱火で水けがなくなるまで煮込む。10分くらいするとスパイスのとにんにくの良い香りが漂ってくる。美味しい予感がすでにむんむん。そして溶いた卵を入れてぐるりと混ぜたらまた蓋をして数分。パセリを振って出来上がり。

これ、とても美味しい!ごはん大盛り食べてしまった。この後は野良仕事へ。朝食が美味しいとパワーがでるね。農園の除草はいっきに片付いた。来週はグリーンピース育成にとりかかる予定。

(写真:あぁ〜なんていい天気なんだ。あの鳥のように空を飛べたらなぁ by クロエ)


2016年02月27日(土) 毎日春菊

職場で悪い事件が重なり、ざわざわと噂で持ち切りで一週間が過ぎて行った。とはいえ、わたしの視界には農園とクロエちゃんの景色が広がっていてただただ平穏だった。

春菊をたんまり頂いた。胡麻和えにして、チヂミにして、餃子にして、最後は生でサラダに。春菊とリンゴのツナサラダを作ってみた。春菊って生で食べても美味しいのだね。リンゴの甘みと春菊の苦味が口の中で混じりあって、絶妙。しかもオリーブオイルと相性抜群、と種の原産地を見たらイタリアと書かれてるじゃありませんか。どうりでね。






2016年02月19日(金) 自分の時間

仕事が終わってからとある用事で少々遠出した。朝にクロエちゃんを置いて出たきり夜遅くまで帰宅できないのは心細くて仕方がなかった。用事が済んで自宅の駅まで来たら1日の心身の疲労と安堵で泣きそうになった。いや、空腹のせいもあるのだろう。コンビニへ寄ったら、おにぎりがひとつもない。わたしが途方に暮れて立ち寄るような時間には絶対おにぎりがないのだから、わたしにとって″コンビニ″はインコンビニエントだ。仕方なく手ぶらで帰宅した。パスタを茹でる気力もない時の救世主クスクスがあったのを思い出した。熱湯で5分蒸らして、数日前に作ったプッタネスカソースと和えたら、立派な夜食となった。クロエちゃんは金曜日は大好物の″蒸しカツオの日″と決まっている。喉をゴロゴロ鳴らしつつも飢えた野生動物の顔でむしゃぶりついていた。

NHKでちょっとおもしろい番組をやっていた。72時間特定のベンチに密着して、そこに座る人にインタビューする。場所は大阪。″普通の人々″にはかわりないないが、東京ではなかなか見ないタイプの個性を持った人ばかりだ。水商売で独り身。寂しいのが嫌いだからと服も持ち物もピンクずくめであちこちに猫だのキティちゃんだのがついている60代くらいの女性。男同志の性行為でHIVに感染したガードマンは、1年前居酒屋で知り合い意気投合した身体障害者の友人と仕事帰りにベンチに腰をおろす。生まれてすぐに下半身が不自由になって病気と70年もつきあってきた車椅子の男性と40代の介護士女性。カフェはなにかと車椅子で入りにくかったりするので、男性が二人分のコーヒーを淹れ、ポットに入れてそのベンチで行き交う人々を見ながら飲むのが日課だという。ふたりは10年以上の付き合いで友達同士のように楽しそうだった。

朝5時。ベンチでイビキをかいて寝ている60代男性。きれいな白髪で品の良い紳士。仕事は建築業で今はホテルを建設中。毎朝始発で会社へ行き、終電で帰宅する。始発にも早すぎる時間に駅についてしまったからベンチで寝て待っていたのだという。

「自分の仕事がちゃんと形として残るのがいいですよ。物作りは本当に楽しいですね」

と目を輝かせて話す。あぁ、こういう仕事してみたい。先日友人と話した「自分の時間」の概念について。彼のような人にとって仕事は完全に「自分の時間」だ。育児に忙殺されたお母さんが「もっと自分の時間を」と口走るのは、本来の気持ちを忘却してうっかり言葉を間違えただけなのだろうな。世の中の大抵のお母さんは子供が大好きで子育てをしているのでしょう?「人の時間を生きてる」なんていう感覚は持たずに暮らしていきたいものだ。


2016年02月06日(土) 編み物男子

夕方コンサートへ出かけ、帰り道大勢でわいわいと駅前の雑居ビルの中のヴェトナム料理屋で夜食を摂った。フランス人のジョゼフの知ってる店と聞き、かなり疑っていたのだが(だって外国人に″Great!″と称賛される店が本当にそうだった試しがないのよ)、意外に良いお店だった。この会は長々管を巻く習慣のない人ばかりで、自分の食べたいものを頼んで、ぐいっと呑んで、スルっと食べて、さっくりと会話が盛り上がったと思ったら、次の瞬間には上着を羽織って散っている。そうであるからこそ気軽にいつでも参加できるのだろう。

前に座っていたジョゼフは、日本で挙げるカトリック式結婚式の準備に忙しいとか、ベッキーがあそこまで攻められるのはひどいとか話し、タレントのモノマネをして見せたりもしていた。ロバート・デ・ニーロの顔真似は瓜二つだった。

私が頼んだ海老トーストとコンデンスミルクたっぷりのベトナムコーヒーは腹八分を満たして、1350円なり。

店の外へでて、カシミヤのコートはいいなどとジョゼフとわたしが話していると、彼の妻が、

「カシミヤなんて寒いじゃない。ダウン着たら、もう手放せない」

と、ダウンの襟を立てて、首筋にピタリとくつけた。ジョゼフが不満気に言う。

「彼女はオレが編んだマフラー使ってくれないんだ!」

「でもキャップは愛用してるじゃん」

妻の頭は太い毛糸でザクザクと編んだキャップに包まれていた。聞けば、1時間近くかかる通勤電車の中、黙々と編んでいたという。一目ごとに愛情も一緒に編み込まれているのだろう。弁当男子もいいけど、編み物男子っていうのも素敵ね。彼らが知り合う前、わたしがフランス語を勉強しはじめたばかりの頃、女友達との間でこんな会話がなされた。

「フランス人のボーイフレンドでもいればもっと上達も速かろうね」

「ジョゼフとかどう?」

「タイプとは違うけど、彼は付き合う女の子には本当にマジメで優しいと思うよ」

それから1年後くらいに、突然彼が彼女を連れてきて、数カ月ごとに会う度に一緒に暮らし始めた、結婚した、お互いの両親に挨拶をしに行ったと、あれよあれよというまに進行した。彼の愛妻家ぶりは微笑ましい限りだ。わたしは競馬で駿馬を言い当てたような妙に誇らしい気持ちになり、今はもう地方の田舎に帰ってしまった女友達に報告したくなった。


2016年02月02日(火) Babettes gæstebud

料理の腕があがったと思うのは冷蔵庫の余りもので適当に作ったものが美味しかった時だ。炒めた玉ねぎ、キャベツ、じゃがいも、にんじんを野菜の屑で取ったスープで煮て、牛乳を足したら美味しいスープの出来上がり。リンゴの芯から起こした天然酵母で焼いたミルクブレッドを添えたら立派な朝食の完成。そして自分が幸せ者だと思うのは、自分の作った料理がこの世でいちばん美味しいと思っていることだ。自分の舌に好みを伺って作るのだから当然といえば当然だが。野菜の栽培、買い出し、調理すべての過程をこの目で見ているという安心感もあって美味しく食べられるというのもおおいにあるが。

″Babettes gæstebud(邦題:バベットの晩餐会)″という映画を観た。静かで清らかで心洗われるような映画だった。何もかもが過剰で、うっかりしていると永遠にもっともっとと競争の渦に呑まれてしまいそうな社会に生きていると、欲のない世界が眩しく思える時がある。こんな地味な映画が傑作と賞されるのは、デンマークという国が福祉国家である所以だろうか。パリから来たオペラ歌手のパパンとフィリッパの歌のレッスンで、モーツァルトの″ドン・ジョバンニ″の掛け合いのシーンはうらぶられた海辺の村一面に一斉に花が開くように甘美だった。二人の心のリズムがぴたりと通じあったかのように見えた。それなのに、フィリッパが思いとどまり、神のみに仕えることを選んでパパンに別れを告げたのは酷く残念だった。神とパパンの両方に仕えちゃダメなの!?全てがストイックなプロテスタントの村に嵐のごとくやってくる飲めや歌えや愛せや(マンジャーレ!カンターレ!アモーレ!だね)のカトリック教徒達はちょっと能天気な感じに見えて可笑しかった。人はこの世で与えたものしかあの世に持っていくことができないそうだ。

しかし、いつも不思議に思うのは、スカンジナビアと呼ばれる場所は何をとっても歴史や生活の染みついた感じがしない。北欧雑貨は日本でも人気があって、それなりにいいと思うが、どこか永遠に手に馴染まないように感じる。風景や家屋はのっぺりと見えて、全て映画のセットのような違和感を漂わせる。この映画の中の風景も、どこか不自然に見えて、″Wallace and Gromit″の粘土細工を思い出させた。


Michelina |MAIL