DiaryINDEX|
past|
will
家族・親戚が空き家になっている祖父の家に集合した。空き家といえども叔父の人柄の良さによるところだろう、近所の人々が散歩がてらにやってきて手入れをしてくれたりしているらしい。いつ行ってもきれいだ。本当に劣化したところだけをちょこちょこと都度新調してきたこの家は、そこに生活の根を張ってやがては昇天した人々の思いがあちこちに染みついているようだ。大切にされてきたという威風堂々たる佇まいで、空き家なのに人の温もりを感じる。
お経をあげにきたお坊さんが、世間話の中でこんなことを言っていた。わたしも常々考えていることだったが、日々宗教と密接に関わっている人の口から出ると、それは研ぎ澄まされた一層クリアな音で胸に響いた。
「仏教は他の宗教に比べて神の存在も曖昧で、信ずる人の信ずるものが正しいものであり、儀式の正しいたしなみかたも決してひとつではないんです。訪問する土地や家によって正しいやりかたは違うし、また時代や時世によっても変化していく。だからわたしはその時その家のやりかたに従うことにしてるんです。日本人は宗教に関してとても柔軟で、曖昧さも認めている。わたしはそれはこの国の平和維持に大きく寄与していると思います。出かける前に線香をあげて行くのはきちんと意味がある儀式ですけど、猫がいる家などは火事なども心配です。だからわたしはそういうことは正しいからといって勧めたりはしません」
他国で起こる争いごとや事件を見ていると、正しいものがひとつだと思うことは愚かなのではないかと思わずにいられない。パキスタンではこの夏ラマダンの最中を熱波が襲い700人以上の人が亡くなった。当人にとっては名誉でも残された人々はどうなるのだろう。
みんなで墓参りをして家に戻る途中、栗の木から実が落ちているのを見つけた。大人はさっさと家に戻り、昼下がりのビールを楽しむべく炭火焼の準備にかかっていたので、役目のない子供達3人は棒切れを持ってきて木をつつき、実を落としてポケットいっぱいに山栗を持ち帰った。
最近敷いたばかりの芝生の上で寛ぎ、ビール片手に秋刀魚を焼き、帆立を焼き、海老を焼き、肉を焼き、パンを焼いた。拾った栗に穴をあけて、これは直接炭の隣に置く。5分も待つと焼き栗の出来上がりだ。人の手の加えられていない山栗の味に勝るものなし。とても美味しかった。
家族・親戚が集まってみんなでわいわい言いながら美味しいものを食べる。みんな元気でみんな食欲旺盛だ。″当たり前″の風景は数々の幸運の積み重ねなのだと感謝できるくらいにわたしは年をとった。何をどうしたって永遠には続かない儚い幸福の時間をしみじみと噛みしめた。
先週の雨続きの日照不足で農園の野菜はもはやダメかと思われたが、水はけの良い土の特性で(だから夏などは乾きが激しいのだが)びくともせず逆に拍子抜けした。1年分はありそうかというくらいじゃがいもを収穫したので、祭りのごとく大量にニョッキを作って小分けにして冷凍保存した。じゃがいもは丸ごと茹でたら熱いうちにマッシュして、すっかり冷ましてからじゃがいもに対して1/3量ほどの強力粉と併せて練る。棒状にしてカットしたらフォークでソースが絡むように窪みをつけて出来上がり。この状態で冷凍しておいて、熱湯に凍ったままの状態で入れて茹でれば美味しく食べられる。
先日辻仁成さんがテレビで息子のために作っていた味噌バターニョッキがあまりにも美味しそうだったので真似してみた。フライパンに少量のバターを熱してガーリックとキノコ類を炒めて一旦取り出す(ここポイント)。もう一度多めのバターを入れたら茹でたニョッキをこんがり焼く(ちょっと焦げ目がつくくらいが美味しい)。キノコをフライパンに戻して味噌を直接入れて絡める。ハーブやら葱やらを散らして挽きたての胡椒を振って出来上がり。
これ最高に美味しいニョッキの食べ方だ。クリームソースやトマトソースよりもじゃがいもの味が活きる。
飼犬が警察に13発も拳銃で撃ちこまれて死んだというニュース。それまでも人を襲って物置小屋に繋がれていて、最後は飼い主が承諾したので警察が撃ったというのだった。どんな狂犬でも飼い主なのだよ。人間でも犬でも食べるため以外に人を襲ったりするのはどこか病んでいるのでしょう。治療にやる手はなかったのか。だいたい物置小屋に繋いでいたというけど、散歩とかストレス発散させてあげていたのだろうか。″Pet″という英語には″愛玩動物″ お気に入り″いい子、おりこうさん″という意味があるけど、一緒に暮らすからには″Family" でしょう? いい子でなくてもおりこうさんでなくても家族でしょう?
洪水で家の屋根に避難して取り残された家族が救出される映像がニュースで流れていた。そこには柴犬をしっかり抱いたお母さんがいた。やっぱり家族でしょう。