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2013年01月26日(土) |
LA BETTLAのアーリオ・オーリオ |
落合シェフの「ちゃんと作れる基本のイタリアン」という本のアーリオ・オーリオを試してみた。こういうシンプルなものほどちょっと何か変えると仕上がりがすごく違うものになるから、ちゃんとオイルの量まで計って、レシピに忠実に作った。他のレシピと大きく異なるところはないが、しいていえばにんにくを皮ごとつぶして、そのまま使うことか。あまりにもシンプルだから、パスタは小豆島の手延べオリーブパスタというのを使った。180gで400円するのだ。オリーブの味はそう感じないが、もちもちして乾麺なのに生麺のような食感だ。
できあがりは、さすがです!目分量で適当に作ったのより美味しい。日ごろは体を思って、なるべく油控えめの料理にしているが、やっぱりアーリオ・オーリオはオイルを惜しみなく使うのが美味しくするコツのようだ。
固唾を呑んで見守っていたアルジェリアの人質事件は30人以上もの死者を出して鎮圧された。まだ事件の全貌がはっきりしないところはあるにせよ、報復であるということには変わりないのだろう。標的となったのは、勤勉に働く善良な市民だったのだろう技術派遣員達だった。テレビに映るテロリストを、夕飯を口に運びながら眺める先進国のわたし達。恨み骨髄に徹して生きる人生など面白いのだろうか、武器など捨てて、もっと楽して笑って生きていくことができないのだろうか、と溜息がでてしまう。中東やアフリカなどは民族間の諍いとか、領土問題とか、宗教のこととか、あらゆる問題が複雑に絡み合って起こる摩擦による抗争が耐えない。イスラム圏を旅行してきた友人が、本屋で売っていた子供向けの絵本を写真に撮ってきてみせてくれたことがあった。それは一見動物などがでてくる普通の絵本で英語で書かれていたが、その文章を読むと、明らかに子供に他の宗教が邪悪だということを叩き込むような内容だった。たった一冊の本じゃないかという人もいるだろうけれど、わたしにはこんな教育があらゆる抗争に至る過程での一つの材料になっているのではないかと考えると合点がいくように思えた。
こんな大変なニュースがあっても、この国では、ニュース番組でさえ、どこかから持ってきたグルメな食べ物をスタジオで食べて、うまいのまずいの言ってる時間のほうが長い。うんざりしてしまうが、裏を返せば、人々が政治に無関心で生きていけるような国に生まれたことに感謝するべきである、とも思う。政情の不安定な国では、5歳の子供にマイクを向けても、一端な政治思想を語るのである。こんな小さな子供がただ鼻を垂らして、お歌をうたっていては生きられないことに泣けてくる。
"Black Hawk Down"というアメリカ映画があった。1993年にソマリアのモガディシュで起きたゲリラと多国籍軍の戦闘を描いたもので、ほぼ最初から最後まで戦闘シーンの映画だった。多国籍軍とはアメリカ軍であり、その映画の中の若い兵士達は正義のために戦うと息巻いていた。しかし、結果として、多くのゲリラのメンバーを倒したのと同時に、多くのアメリカ兵もまた命を落としたのである。本当にこの若きコマを動かす人々はゲリラをただ撃ち殺していけばいつか平和になると信じているのだろうか。この映画の中でゲリラのひとりが言った。
「俺達を殺したって平和にはならない。誰かが必ず報復する。俺達はこの戦争をやめることはない。勝つまでやるんだ」
つい先日、兵役に就いてタリバンを撃ち殺したヘンリー王子を「英雄」などと報道しいているの見て、気持ち悪さに襲われた。本当に平和を願っている人は相手を撃ち殺すことで平和に一歩近付いたなどと思わないだろう。じゃぁ、どうすれば?と言われたら、答えに窮するのだが、暴力に暴力で立ち向かうことが根本的な解決に繋がりそうもないということだけは確かでしょう?
幼馴染の新築祝いに招かれた。家族ぐるみのつきあいで、子供の頃は海に山にと一緒に繰り出したが、今では親同士だけが交流を続けていて、わたしと彼女は実に10年ぶりの再会だった。お互いを見合って、変わらないね〜、と声をかけあったものの、本当に変わっていないのはわたし自身と彼女の容姿だけで、1歳だった長女は長身で美しい中学1年生になっていて、さらに小学校4年生の次女と2歳の三女が騒々しく走り回っていた。新しい家はさすがに汚れにくく、掃除がしやすく、省エネでいて快適によく出来ている。彼女の子供達はのびのびしていて天真爛漫で人懐っこい。子供と接する機会など滅多にないから、どんな会話をすればいいのか戸惑っていると、長女も次女もカレシが、元カレが、ふったのふられたの、ウワキしただのと話すのでおったまげた。よくよく話を聞いてみると、カレシ=ふたりで公園にいくような仲、ウワキ=他の女の子と仲よさげに話すことのようだ。あぁ、よかった(笑)。
この一家はどん底というものを経験している。どん底の中で、大人になることなく失ったひとつの命もある。その命が失われた時が本当のどん底の底だっただろう。その日からきっとこつこつとひとつひとつ暮らしを立て直していったのだろう。今では新築の家があって、三人の子供が走り回って、孫達を目を細めて眺める彼女の両親の背中はすっかり丸くなっている。年のせいだけでなく、もう昔のように肩をいからせて生きる必要がなくなったせいもあるのかもしれない。懸命に生きていれば明けない闇などないのだとつくづく思う。この立派な家にはそんな家族のひとつひとつの努力が宿っているのでしょう。家族みんながただただ幸せそうで、わたしは胸がいっぱいになった。
2013年01月16日(水) |
Cantare! Mangiare! |
昨年の功績を讃えてCEOが来日して祝杯をあげることになった。ちょっと夜景の素敵なホテルでビュッフェスタイルの立食・・・は一見普通のパーティであるが、どんな経緯でそうなったのか、ステージでは歌や芸が披露され、とても面白い会となった。わたしの部署はふだんはおとなしくて、おだやかで、まじめな男性ばかりだが、彼らのいいところは、こういう時にはずかしげもなく一発芸などを披露して笑いをとれるところだ。女性は何も頼まれなかったので、ただただ食べて飲んでステージを眺めていたのだが、わたしもこんな時に披露できる芸のひとつも持っておきたいものだ。たまたま今シンガポールから来ているトレイニーの男の子のひとりと話したら、UWA(ウェスタンオーストラリアの名門大学)を卒業した、シティーに住んで、スワンリバーの強風を受けながら自転車で通った、などと言うではないか。同郷の人に会ったような嬉しさに思わずワインもすすむ。
"美味しいワインね。でもマーガレットリバーの澄んだ青空の下で飲むのには叶わないね"
顔を見合わせてニンマリ笑った。
昨年もよく働いた。明日の朝になれば、またカツカツと悪戦苦闘しているのだろう。しかし、こんな夜のワインが美味しいのはそういった日々の積み重ねがあってこそなのでしょう。
一度観てみたいと申し込んだお能のペアチケットが当たった。しかし、連絡が来たのが水曜日。焦って同行してくれる人を探して、中国人の元同僚のシュウ君になんとかつきあってもらえることになった。
二人とも知識なし。事前にちょっとお勉強をして臨んだ。4部のプログラムからなる5時間の舞台。一部目の「翁」が始まって30分であくびがでてきた。隣のおじさんもあくびしてる。そうして約1時間が過ぎて次のプログラムに移ろうという時に、前列座席の人々が去っていって、妙に見晴らしがよくなった。二部は狂言。これは初心者にも解るようなストーリーがあるので面白い。しかし、シュウ君にはやはりちょっと難しい。休憩時間になると、周囲から"解らんなぁ"というような声がちらほらと聞こえてくる。三部の名作といわれる"東北"が始まるころにはもっと座席が空いた。始まって15分。やはり解らないわたし達。おなかが空いたので切り上げることにした。こうして初のお能鑑賞は幕を閉じた。着物を着て、楽しそうに観ているご婦人方もいるくらいで、観る人が観ればすごく面白いものらしいのだが、初心者のわたし達は、予習したこと、("あのお面が姥だ""あのお面が、若女だ"、"やっぱり舞台の背景は松と竹だ"とか)がそのまま出てきたのがほんの少し嬉しかっただけであった。
シュウ君と会うのは実に2年ぶり。イタリアンレストランでパスタを頬張りながら、おしゃべりを楽しんだ。彼が出張でよく行く"観光地でない東南アジア"の話などすごく面白い。ムスリムが多いところなんかはもう会社内に小さなモスクがあって、就業中でも時間になるとお祈りに行っちゃうそうだ。空港までのタクシーを拾う。フライトの時間までギリギリだから急いで欲しいと告げる。しかし、ドライバーはお祈りの時間だからとガソリンスタンドのモスクに寄って、彼はひやひや時計と睨めっこしながらタクシーの中で待たされたとか・・・想像するとコミカルで笑える。
彼は英語圏に一度も行ったことがないのに、まったくアクセントのないアメリカ英語を流暢に話し、日本語はほぼ1年で会社で働けるくらいのレベルまでマスターした。そんな彼に、新しい語学を習得するコツについて聞いてみた。
「とにかくニュースをよく観た。吐きそうになるまでね」
ということだ。彼が特別能力が長けてると片付けてはいけないね。その裏にはやはり血の滲むような努力があるということですな。
2013年01月11日(金) |
皇帝ペンギンな暮らし |
こんなにゆっくりと正月を過ごしたのは何年ぶりか。昨年購入したこたつには猫がぬくぬくしていて、飼い主はDVDとお菓子をテーブルに広げて、足の裏で猫を撫でまわしながら、もはや二度と社会復帰しないのではないかというくらいのパーフェクトな寝正月を過ごした。
しかし、ついに動き出す時がやってきた。出社してメールボックスをあけ、夢から覚めた。意外にフットワークは軽い。正月太りとはよく言うものだが、スカートもすんなりと入る。なぜこんな寝正月で太らなかったのか、理由はおそらくこうだ。
昨年、"La Marche de l'empereur(邦題;皇帝ペンギン)"という映画を観た。極寒の南極の冬。皇帝ペンギン達は来る日も来る日も体を寄せ合って、ただただ一途に秋に求愛のダンスをして生み出された卵を寒さから守る。なんていたいけな姿だろうか。それにひきかえ、人間というのはなんて傲慢なのだろう。暑さも寒さも我慢できない。地球温暖化は氷河期などと同じような単なる自然現象だという意見もある。誰も正解を知らないし、ましてやわたしは科学者じゃないから知る術もない。しかし、人工的にエネルギーを作り出してはぼんぼん消費する環境が、全く地球を温めないとは考えにくい。人間が傲慢に暮らすことで被害を被るのは、南極や北極で健気に暮らす動物達だ。なによりも、我慢のない生活は脂肪だらけのようで美しくない。皇帝ペンギンのように、強く、逞しく、愛らしく生きたい。そんな憧れを胸に秘めながらも、文明社会に生れ落ちた人間だから0度の部屋で凍えながら、ただ猫と身を寄せ合って暮らすわけにはいかない、と、中途半端だが、家では暖房器具は最低限のこたつと湯たんぽだけの使用にしている。
冷え性を治して代謝を上げたければ、下半身を温めて、上半身は薄着がいいというが、わたしは10年前にそれを知って、冷え性は克服した。こたつはこれと同じだ。足の裏が温かいから体温は落ちない。上半身が寒いから体はどんどんエネルギーを燃やして温めようとする。寝正月で太らなかった理由はここにありだろう。
(写真:簡単にささっと作れる折り紙小鉢。デスクに転がってる細々したものの整理にいいね)
そば粉があったので作ってみた。材料はとても覚えやすい。そば粉150g、シードル300ml、卵1個、塩小さじ1/4。これを全部混ぜて24時間以上寝かして焼く。シードルがなかったので、KIRINのAWAというリンゴ味の炭酸で代用した。具はチーズとポテトとキノコ。フライパンのせいか、油の量のせいか、きれいな焼き色がつかなかったが、味はパリののみの市の屋台で食べたのよりは美味しく、レストランのには劣るといったところだろうか。こんなシンプルな食べ物なのに、どこで差がつくのだろうか。まぁシンプルだから差がわかるんだろうな。二枚目はヌテラで。フランスではヌテラのやつはどこにでもあった。なんだか子供の頃を思い出すな。小学校の授業ではじめて習った食べ物はクレープだった。生クリームとかバナナとかチョコレートとか好きなものわんさかはさんで、みんな何枚も何枚も焼いて頬張ってたっけね。その次はトリュフ(もちろんチョコの)で、これまたみんな鼻血がでるまで食べてたっていう、ハッピーな思い出だ。
2013年01月04日(金) |
赤い糸より確かなもの |
正月のマーケットの鮮魚コーナーは赤くした蛸ばっかりで、クロエちゃんのエビを久々に手に入れることができた。身は白菜と茹でて、クロエちゃんのごはんに、殻で出汁を取った味噌汁はネギをたっぷり入れてわたしのごはんとなる。温っまる〜。わたしの味噌汁の出汁はいつもクロエちゃんのあまりもんだ。
いつも美容院で眺める雑誌に、田辺聖子さんの"まいにち ごきげんさん"というコラムが連載されている。髪を切りに行くと楽しみに読んでいるのだが、"赤い糸より確かなもの"というタイトルで書かれた今月号の話はとても素敵だった。田辺さんがおっちゃん(旦那さん)に会った時の話。おっちゃんは男やもめで4人の子供がいて、田辺さんは独身で小説家を目指していた。4人の子供付きの男と家事を放って売れるか解らない小説を書き続けるのだろう女。条件の悪い者同士だ。しかし、おっちゃんの亡き妻も小説家になるのが夢だった。子育てが一段落したら小説を書こうと思っていた。そしてさて、これから書こうという時に亡くなってしまった。だからおっちゃんは、なにか田辺さんに運命を感じたのだろう。家事はそこそこにして小説を書いててもいいよ、と言ってくれた。田辺さんもその時代にそんな男性は他にいなかったから、この人は神さんだ、と思ったのだそうだ。そしてちょうどその頃、田辺さんの弟もお見合いをするもことごとくふられ続けていた。なぜなら、長男で結婚すれば母親と小説家を目指して実家で暮らす姉が付いてくるからだ。しかし、その中でもひとりだけ、それでもいいと言ってくれた女性がいた。田辺さんの結婚式には弟とその女性が婚約者として出席してくれたという話。
- 結婚の条件なんて、だからあてにならない。人は「なんでそんなに大変な人と?」と言うかもしれない。でも自分にとっては神さんみたいに素敵な人。一生懸命生きていれば、そういう人と出会えた時にちゃんとわかると思う。(本文より) -
条件なんて一時のもので長い人生の中でそれは変わっていく。だから世間一般的な好条件の結婚にありついたからといって、うまくいく保障などどこにもない。田辺さんのように自分の欲しいものが明確で、自分の選んだ道をまっすぐ信じていける自信のある人こそが結婚で幸せを手に入れることができる人なのでしょうね。
2013年01月02日(水) |
The sound of music |
昨日観た"Once"にはブーイングしたので(世評に反して期待を裏切られたというだけで、そう悪い映画ではないとは思うけど)、お口直しに不朽の名作"The sound of music"を。音楽で流れていく物語という点では同じだ。戦争の影が忍び寄るオーストリアにあっても、アルプスに見守られているかのようなザツブルグの町と、そこに響き渡る天真爛漫な修道女と子供達の賑やかな歌声があまりにも美しい。古い古い作品だというのに、この映画の良くできたところは、登場人物がみんな善人か悪人かと括れない生身の人間であること。そこにいるだけでたちまち場を明るくしてしまう才能のあるマリアは、お転婆で遅刻魔だし(食事の時間以外はなんでも遅刻するんだって。わたしのことかと思ったわっ(笑))、男爵夫人は、冗談も通じる、粋な会話をで楽しめる大人の女なんだけど、たまに嫉妬で意地悪なことを言ってしまったり(しかし、大佐に別れを切り出した時に相手をまず褒めたところに大人の女の度量を感じた)。みんな基本的には善人だけど、どこか完璧じゃないからいい。それでまたトラップ大佐が素敵なんだなぁ。見た目だけでうっとりだが、あれで"Edelweiss"歌っちゃうんだもの。気絶するわぁ。 Edelweiss, Edelweiss every morning you greet me, small and white, clean and bright, you look happy to meet me, Blossom of snow, may you bloom and grow, bloom and grow forever, Edelweiss Edelweiss, bless my homeland forever.......
こんな美しい映画には心を洗われる。こういうのを観た後は、バルコニーへ出て、澄んだ星空へ向かって思いっきり大きな声で歌いたい気分になってしまうね。まぁ、間違いなく近所を巡回してる警察官に注意されるでしょうね。
カウントダウンはいつも夢の中だったが、今年はバスルームでシャワーを浴びながら迎えた。いつもは夜は静まり返るこの町も今日は和太鼓の音が鳴り響いて、賑やかだった。
デパートは元旦から開いているというので、行ってみた。元旦に買い物に出るなんて初めてだ。すごく賑やかだ。世間は元旦から買い物をするものなのだね。
夜に正月恒例のぜんざいを煮て(ちゃんと煮こぼしたりして、丁寧に丁寧に作るから本当に美味しい)、"Once" という映画を観た。アカデミー賞も取って、とても評判の良い映画らしいのだが、わたしにはその良さがよく解らなかった。だって、この女のほうは、ストリートミュージシャンの男にしつこく話しかけて、ランチとか誘って、男の恋愛話まで聞いて、淋しい心情を解っていながら部屋まで着いて行って、″泊まっていけば?″って言われたら急に軽蔑して逃げるように帰るんですよ。これが10代のバージンの女の子なら理解できるけど、蓋を開けてみれば自分は別居中で子供もいる身なのよ。男の恋愛話は土足で踏み込む癖に、自分が結婚してることは最後のほうまで言わないで、なんか信用できないね、こういう女は。で、男のほうも別れた女に未練たらたらでその女を思って歌を作ったりしてるって。。。それもプロじゃないミュージシャンがやるとキモイだけだと思ったりして。で、その歌がまたね、やたら裏声を使うの。日頃ルチアーノ・パバロッティのオーソーレミーオ〜♪なんていう逞しい歌声に聞きほれてるわたしとしては、こんな裏声男はオカマに思えちゃう。それは仕方ないね。で、女に"一緒にロンドンに行こうよ、子供も一緒にさぁ、I'm serious"とか言っておいて、″じゃぁ母も一緒でいい?″って返されたら、それはちょっとぉ。。。みたいなあの反応はなんだったの???母と娘とその娘と3人で暮らしてるんですよ。お母さんだけ置いていくつもりだったわけ?
元旦からこんなに映画に文句をつけられるのだから、今年も1年きっと不死身で元気に過ごせることでしょう。