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最近はまっているトースト。パンにチャンキータイプのピーナッツバターを塗って、バナナを乗っけて、シナモンを振って焼くだけ。常夏の食材達がひとつのパンにどんっと乗っているのが魅力的。見た目もなんともラブリーなのだけど、何よりとろりとしたピーナッツバターとバナナが美味しい。口に入れた瞬間、常夏の溢れるような光が目の前に広がるような気分だ。
曽野綾子さんの「貧困の僻地」にわたしが日頃感じていることを"よく言ってくれた!"という記述を見つけた。以下抜粋。
女性たちは忙しいから、自分で調理をする暇がないという。しかし今の女性たちは、昔の主婦たちよりずっとたくさんの時間とお金を美容に使っている。年をとっても魅力的な人と言われるためだ。しかし外見の若さの基本は、新鮮で安全な食材を使った食事をすることだろう。人間の長寿や健康の元は、日々の栄養の摂取法の積み重ねの結果だ。
もう一つ若々しい魂を保つためには、精神の栄養が負けず劣らず必要だ。そのためにはたくさんの尊敬すべき人に会い、複雑な人生の機微に触れた会話に加わり、強烈な現世の限界の姿に触れる体験をし、何よりもたくさんの読書をしなければならない。しかしそういうことにはほとんど時間もお金も使わない人たちが、どうして若さと美貌を保てるのか、私は不思議でならないのである。本も読まず、冷凍食品で食事をし続けていたら、身心共に早く年老いることだけは明白だと思う。
これはあの数年前の冷凍餃子事件の話題の中で書かれたものだ。わたしがひとつ気付いたことは、わたしのような肉やインスタントフードを食べない人々には、この冷凍餃子事件だけでなく、狂牛病だのユッケの食中毒だの世の中の大抵の食品にまつわる騒動は別世界の話のようである。皆無ではないが、野菜や果物にはまずそういった騒動が起きない。市販の冷凍餃子にいたっては一度も食べたことがない。あまり神経質で疑い深くなるのはいやだけれど、実際、日々"食材"をこの目でちゃんと見てから手作りする癖をつけていると、農薬の強弱こそあれ、その他の添加物などの心配をする必要はない。市販の食品の原材料のところにあれやこれや手作りしたら入らない添加物の名前が書かれているのを見て気を揉む必用はない。そして世の中の本当に理解に苦しむことのひとつはランチにカップヌードルを啜っていたり、ファーストフードを頻繁に利用する女の人の手足の爪に綺麗にマニキュアがついていることだ。逆にマニキュアがついているから料理をしないのだろうか。ネイルやヘアケア、脱毛、美肌、高価な化粧品やらのためにせっせと時間とお金を注ぎ込んでも、体内の美しさには無頓着という人は本当に多い。逆に内側がしっかり綺麗に保たれていれば、そんなに時間をかけて外見を取繕う必要はなくなるのではないのかと思ったりもするが。また本や映画は本当に良い頭の栄養だ。そして自分の意思を持って、それをシェアしたりアイディアの交換をしたりできる人がいるということも若々しい魂の秘訣だろう。
2012年06月28日(木) |
The Bridges of Madison County |
邦題「マディソン郡の橋」を再び鑑賞した。最初に観たのは10代の時で、当時は勝手にストーリーの中の″大恋愛″という箇所にだけ焦点を当てていたようで、その記憶しかなかった。だいたい″大恋愛″と呼べるようなものを体験したことがなかったのだから、どちらかといえば夢物語のような印象だった。ところが今あらためて観ると、それはまったくの現実世界であった。片やアイオワの小さな田舎町の先祖代々続く小さな農場にイタリアから嫁いできて、それなりに良い家族を築いたものの、会話のないディナーとテレビと町の噂話だけが娯楽のような日常を淡々とやり過ごす主婦。そして片や、ナショナル・ジオグラフィックのカメラマンで世界を旅して"ホーム"を持たない浮雲のような男。メリル・ストリープ演じるフランチェスカがすぐにこのクリント・イーストウッド演じるロバートに熱をあげてしまったのは容易に理解できる。しかし、逆になぜロバートがフランチェスカにそこまでいれこんだのかはいまいち不可解だ。たしかに愛らしい女性ではあるけれど、絶対的な理由が見当たらない。しかし、このロバートみたいな男はわたしが好きになる男と精神のありかたがそっくりで、わたしには珍しくもなんともないと思った。フランチェスカがロバートに、
「今までいった場所で一番好きなところは?」
と尋ねた時、こんな男はそう聞くと"アフリカ"とか言うに決まってる、と思っていたら本当に、
「アフリカ」
と答えているので苦笑した。こういう男は文明人に言わせれば"コミットメントフォビア"と呼ばれて、結婚とか家族とかそういう約束や責任を恐れる都会の仕事大好き人間にありがちな人種ということになりそうだが、実際は彼らの頭の中にはアフリカの弱肉強食の自然界があり、自分がそのパートだという意識であるから、無邪気に求愛し、甘い言葉を囁き(そしてそれは恐らく本心なのだ)、しばらくしたら女はその場に置いたまま食料を求めて旅に出るなんてことは動物として極めて自然であるなどと考えている"プレイボーイ"と呼ばれる人種よりも、ある意味ではたちの悪い人種である。なんでこんなに力説してるかって?(笑) だって"ひとめぼれ君"はロバートにそっくりなのだ。彼もロバートみたいに自分の人生が他人と共にあるところなど、恐らく想像すらしていないだろう。
話は戻って、たった4日間濃密な時間を過ごして、余生をこの思い出に捧げてしまった二人なのだが、たった4日間だからこそ大いに盛り上がってお互いに悪い面を見せ合わず、美しい思い出として心の中で燃え続けるのであって、そのまま余生を一緒に過ごしていたら、フランチェスカを魅了した自由で経験豊富なロバートは、おなかを満たしたファミリーガイのようになり下がり(個人的には"下がる"とは思わないが)、ロバートを魅了した貞淑で愛らしい人妻のフランチェスカは家族を捨てて男と駆け落ちする悪妻になり下がって、生活が落ち着いた瞬間にふっと熱が冷めてしまっていたんじゃないかな。なによりも非凡はそのうち平凡に変わってしまったことでしょう。
しかし、この映画切なくてほろりと泣いてしまった。子供の頃に見た夢をときどき思い出しては"こんなはずじゃなかった"と思う人が世の中大半でしょう。そして、だからってすぐに荷物をまとめて違う世界に出かけられるほど身軽じゃない。アメリカの広大な田舎の風景の中にある人間ドラマは、その風景と裏腹な出口のないような閉鎖的な空気があって、それだけで胸にせまりくるものがある。
2012年06月24日(日) |
ネガティブな過去の取扱い方 |
この年で独身だと、さすがに言い寄ってくる男性がバツイチだったりというパターンもでてくる。結婚は一生に一度でありたいと願うあまりに、相手選びに力が入りすぎて、一度どころか未婚で人生終わるかもしれないというありさまではあるにしろ、一人の人間と関係を保っていく難しさは経験から知っている。内館牧子さんが、
″結婚して一生添い遂げることができるなんて人はエリートよ″
と言ったが、わたしは相当なエリートか相当無頓着な人にしか出来ない技だと思っている。ともあれわたしに結婚歴がないので相手もそのほうがベターだと思いながらも、バツイチは絶対に嫌だというわけではない。しかし!わたしはそういう男性にアプローチされたら、すぐに離婚した理由を聞いてみる。その答えをあたかも相手だけに問題があったように答える人はもう見込みがないと見なしてしまう。自分が選んで誓った相手という自覚が全くないのだ。
またこんな人もいた。以前出合ったこの男性、若くして奥さんに先立たれた男やもめ。イギリス人で背も高くてルックスもなかなか。悪い人ではなさそう。でも、奥さんを亡くしたくらいまでは、あぁかわいそうにと思って聞いていたわたしも、それに続いて、子供の頃母を亡くし、3年前に父を亡くし、1年前に犬を亡くし。。。なんて聞いてドンビキ。わたしもこの人とつきあったら死んじゃうんじゃないかという悪い予感すらしてきてそれ以来会わなかった。
この出来事でわたしが学んだことは、
「ネガティブな過去の話は初対面でするべからず」
ということ。そういう話を初対面で持ち出す人はマジメで誠実な人が多いのだと思う。だからこそ、相手に今の自分を形成する材料だった過去の話までちゃんと伝えようとするのかもしれないけれど、聞く相手がその人のイメージというものをまだ掴んでいない段階で聞けば、その人の第一印象は″暗い過去を背負った人″のような陰鬱なものになってしまいかねない。だから最初は明るくて楽しいことばかり話したほうがいいでしょう。それでぐんと距離が近くなって充分楽しい時間を過ごしてから、どうしても相手に過去から自分を知って欲しいのであれば、打ち明けてもいいでしょう。わたしもマジメで誠実だから(笑)、こういう傾向はあるんだよな。気をつけようと我が身につまされた。
あっ、でも離婚歴とかを最初のデートで伝えない人はただの不誠実だと思うな。
(写真:きっちりレシピに沿ってきのこリゾットを作ったら美味しかった〜。ちなみにこのワインはフランスでよく売れてるらしいけど、あっさりしすぎでタイプじゃないなぁ。。。)
最近のお気に入りは紫陽花を眺めながらのハイキング。6月のどんより曇ったグレイの空にこのちょっとくすんだ水色や赤紫のよく似合うことよ。くすんだ色なのに大ぶりだから淋しくならないのもいい。紫陽花は大好きな花のひとつだ。
そしてもうひとつのお気に入りは、しとしと雨の休日にピアノの音を聴きながらコーヒーを啜る時間だ。最近買ったのはフジコ・ヘミングの″奇蹟のカンパネラ″。酷評も多々読んだが、わたしは、夕飯の支度をしている時に近所の子供が練習しているのであろうピアノの音を聴くだけでも気持ちがよくなってしまうという幸せものなので、フジコのピアノに文句などあろうはずもない。しかし、その道に精通している人が、″彼女のピアノが耳にひっかかる″という感覚が解らないでもない。わたしはワイン好きといいながらも精通しているわけではないが、それでも喉にひっかかる味というのがあるのだ。しかし世の中は知り過ぎないほうが幸せなことで溢れているのかもしれないともしみじみ思う。
どんなに酔っていようと、いい大人が食べ物を粗末にして悪ふざけするということがわたしには絶対に受け入れられない。わたしも妹も子供の頃から食べ物を投げたりして遊んだことは一度もないけれど、もしそんなことをしたら母は絶対に叱りつけたでしょう。昨夜、乗り気のしない社内の飲み会へほんの一杯愛想のつもりで顔を出したら、すでに酔っていた同僚の数人が食べ物をビールの中に入れて一揆飲みしたりという悪ふざけをしていたのだ。そしてもっとショックを受けたのはそれを見ているオーディエンスが全く不快な顔をしていないことだった。ひとりひとりの顔をまじまじと見てしまった。みんなただ笑って見ていた。わたしの勤務する会社は世間的には名の通ったそこそこの地位を保っていて、彼らはそこの社員だ。ちゃんとした学歴があって、ちゃんとした職があって、自分を自分で、あるいは家族をも養える人々だ。それが、誰ひとりとしてこのあまりにも行儀の悪い幼稚園児のような立ち振る舞いを不快に思わないのだろうか。中には子供のいる人もいる。子供にはどんな教育をしているのだろうか。この国の食料自給率の低さとかそういった理論で話しているのではない。実際はわたし達がどんなに食料を大切にしようと感謝しようと、飢えて死んでいく人々を救えるわけではない。けれど、食料がなければ生きてはいけないのだ。もっとおなかを満たせる尊さを知るべきでしょう。わたしは本当に文字通り″一杯″ウーロン茶を飲み干してその場を去った。
表に出ると飲み仲間の他所の部の部長とその仲間と出くわして誘われたので、また一杯つきあうことにした。こちらはみんな部長連中。カウンターに座ってゆっくりとトークをしながら1時間かけて焼酎の水割りを一杯飲み、明日があるからまた次回、とさっさときりあげた。出だしで憤慨していただけに気持ちを救われて家路についた。
2012年06月15日(金) |
チーズを使わないチーズケーキ |
最近はめっきり料理本を買うことがなくなった。ネット上で面白いレシピを見つけてはプリントアウトして作ってみる。そして気に入ったらスクラップブックにファイルしておく。スクラップブックは二冊用意して、一冊はパンとお菓子、もう一冊は食事系で主役の野菜の旬ごとに春夏秋冬でインデックスで分けている。ずっと前から本当に不思議に思っていたことは、日本で出版されている料理のレシピ本は平らに開いたまま置いておけないこと。こんな使いにくいのはない。誰もが不便に思うところでしょう?かといってオーストラリアなどで売られているレシピ本(アメリカやヨーロッパで出版されているものが多い)は開いておいておけるものの、重すぎて買うのを躊躇する。それにレシピが日本人には桁違いのような分量(例えばバター1kg,小麦粉1kgみたいな。。。業務用かいっ!というような)でそれも不便。この自家製スクラップブックの便利なことよ。不便と思った点を全てカバーしているし、自分の気に入ったレシピしかスクラップしないから、そこにあるのは全て大好きなレシピ。ホームパーティを開く時などは何を作ろうかな〜とその季節のインデックスから料理をチョイスして旬の料理をふるまったり。一番良く見るのはやっぱりCook.pad。人気があるのはやっぱり一般人が一般家庭で一般的なスーパーで手に入る材料で簡単に作れておいしいレシピばかりだから、さっとレシピを見て分量と手順を暗記したら難なく作れるようなものばかりでとても重宝する。各家庭の味をシェアできるのも面白い。
さて、今日はチーズを使わないチーズケーキを焼いてみた。ホットケーキミックスとヨーグルトで作るチーズケーキ(風)。味はやっぱりチーズのコクがないという感じではあるけれど、食感はチーズケーキ。もちもちっとしたヨーグルトブレッドといったところだろうか。さっぱりしていて朝食に食べるのもいい。初回はプレーンで作ったが、次回はレーズンを混ぜ込もうと思っている。
2012年06月13日(水) |
WHAT A CUNNING HARE! |
恋愛相談にのってあげていた同僚は、失恋気味のようだ。幸か不幸か見た目がよく、女の子を好き勝手もて遊び続けてここまできただけあって、いざ恋に落ちた時にまったく相手の気持ちが解らないようで、相手もいやになったのかもね。どうしたらいいのか、と聞かれたので答えたら、その足で席に戻ってさっそくメールを打ち始めている。弱った背中にすかさずとどめをさしてやった。
「そうやって勤務時間中にせっせとメールしてくるような男はきちんと生活しているまともな大人の女性だったらまず相手にしないでしょうね」
え?ぽかんと口をあけて振り返る同僚。どうだ、まいったか!(笑)だっていつもこうやってわたしの100倍怠けてるくせに、わたしの100倍パフォーマンスを良く見せる技を見につけているのだ。のろまなカメがウサギを追い越した瞬間だ。いや、働きもののアリがキリギリスに後悔の涙を流させた瞬間とも言えよう。
「彼女は僕のそういうところがいやになったのかな」
その時ばかりはしょんぼり落ち込んでいたのだが、それも束の間、すぐにこの″Bugs bunny"よりズル賢いウサギは勤務時間中にドラフトを作り、夜に送信する技を見いだしたのであった。ジゴロにつけるクスリなし。。。
2012年06月11日(月) |
I miss you already... |
金曜の夜、霧雨の中傘をさして駅へ向かう。仕事を終えたら真っ先に新幹線に乗って会いにきてくれるというひとめぼれ君を出迎えるため。駅の近くの交差点で向かいの通りにトレードマークのカウボーイハットをかぶった長身の男の影を見つけた。信じられない。3ヶ月半ぶりに、本当に再会したのだね。おしゃべりなわたし達は家に着くまでにすでにぺらぺらと色んなことを報告しあった。
築地市場に合羽橋道具街に銀座、浅草。土曜は雨の中、東京案内。しかしオタクなひとめぼれ君は思いも寄らないところ・・・鉄道模型屋とか中古のカメラ屋で立ち止まってはウインドウにへばりついてそのうちひょいひょいと中に入っていってしまい、夢中でわたしに説明して聞かせるのだ。結局わたしが案内したところよりそっちのほうがよほど楽しかったらしい。
この日の夜は早くベッドに入り、夜中の3時にアラームをセット。EURO CUPのドイツ−ポルトガル戦を見るため。もちろんわたしの趣味ではないがつきあった。
日曜はゆっくり起きて、近所の港の周りを散歩して公園でごろごろと午後を過ごして、家で一緒に夕飯を作った。
そして今日の朝、駅でお別れ。お互いの生活に戻った。
べったりと一緒に過ごした週末はとびっきり楽しく、それゆえにこうしてまたお互いの生活に戻るということがわたしには耐え難い。彼は今回の日本滞在を終えたら今度はヨーロッパで暮らし始めると聞いてもう気が遠のいている。駅で何度も何度も手を振りながら、スーっともうこれでおしまいにしておいたほうがいいのかもという考えが頭を過ぎった。
2012年06月07日(木) |
You are what you choose |
自分の働いている会社はすなわち自分のレベルであるし、自分の交際相手はすなわち自分のレベルである。だからそれに対してたくさん愚痴があるということはすなわち自分に対してたくさん愚痴があるということだ。だから本来そういうことを口にすることは自分を貶める恥ずかしい行為だと心得たほうがいい。心得た上でごく親しい人に時々ぼやくくらいにとどめたほうがいい。
なんでこんなことを言ってるかって?会社で背後に座っている男性がなにやら一日中いらいらと人を批判しているのを聞いてそう思ったから。彼は良い大学を出て、仕事も良くできる。だから自分より出来ない人の批判なんてしなければ間違いなくもっと尊敬されるだろうに、人に怒鳴ったり、半分イジメではないのかというくらい若い男の子にきつくあたったりしているから、結局"うるさくていやね"、という評価しかない。あいつもダメ、こいつもダメというけど、あいつもこいつもダメな会社に就職を決めたのは自分でしょう?
高島弟の離婚裁判のニュースも、あぁこりゃ、ひどいね、悪い女にひっかかっちゃったね、と同情するけど、結局相手を選んだのは自分ですから。″死ね″という側にも問題があるにしても、″死ね"と言われる側に全く問題がないなんてことは、ありえないでしょう。あったとしたら、どこか精神がおかしいのでしょう。彼が沈黙に徹している理由のひとつには羞恥心というものがあるんじゃないのかなんて想像したりする。
自分の置かれた状況は自分がしてきた選択の集大成なのだから、文句があるならまず自分の心に言ってみたらいいだろう。
You are what you eatというのはわたしの信条だが、
You are what you chooseも然りである。
2012年06月02日(土) |
やがては消えてしまう時間 |
毎日あけてもくれても新玉ねぎ、というくらいあちこちから沢山いただいた。煮て、焼いて、蒸してあれこれやって食べているから毎日食べても毎日うまい。休日のブランチはオニオングラタンスープ。玉ねぎを飴色に炒め尽くすのに時間を食うから休日じゃないと出来ないな。コツはないけど、シンプルで美味しい。
母の日と父の誕生日のお祝いを兼ねて、会社の忘年会などでよく行く、ワインのソムリエのいるちょっと粋な蕎麦屋へ家族で外食に出かけた。家族4人が揃うのは正月以来。一緒に暮らしていればうんざりするような代わり映えなく刺激のない家族の会話も、ひとりで暮らすようになってからはかけがえのない大事なものに思える。妹は結婚式に行くのにあのバッグ(と指定した)を貸せと言い(わたしは妹の持ち物など全く興味がなく覚えていないのに、あちらはわたしの持ち物を目ざとく把握していて、飽きたらもらおうとか、貸してもらおうなどとたくらんでいるのだ。妹気質ってこんなんなのだろうか?)、両親は半径5kmの生活圏内で起きた他愛ない小さな出来事をいかにも壮絶なドラマのように話す。一見あいかわらずだ。しかし、両親の体は小さくなって、微妙に会話が噛み合っていないことに気付く。
先日、近所のスタバで10歳年下の従兄弟と話す機会を得た。妹と彼は5歳違いで子供の頃から仲良くしていたらしいが、10歳違うわたしは共通の話題も見つけられず、殆ど会話を持ったことがなかった。もっとも会う機会にも恵まれなかったのだが。しかし時が経ち、彼も成長し(ちなみに速水もこみちという青年にそっくりだ!!)、普通の世間話のひとつも出来るようになっていた。ピザはやっぱりウッドベイクだとか、生活がかかったブラジルのサッカーは違うだとか。
成長する者と老いる者、一見代わり映えのない緩やかな日常においても、時間は確実に流れていて、生きている限り永遠に続くものなどないのだと思い知らされたふたつの出来事だった。