My life as a cat
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2012年04月27日(金) Split the bill on the first date? - Part 2

以前"Split the bill on the first date?"というタイトルで初デートのお勘定についてあれこれと書いたのだが、アクセス解析を見ていると、これがよ〜くサーチエンジンで引っ掛けられているようなのだ。小さなことのようで実は相手の男女関係に対する精神が顕れる重要なところ、だからみんな悩むところなのでしょうね。

連休に入る前夜、アメリカに転勤することになった飲み仲間の同僚のお別れ会も兼ねて我が家で小さな会をひらいたのだが、そこである話をきっかけにこの話題となった。初デートでクーポンは使用してもいいのかとか(笑)、男が大目に払うのがいいのか、はたまた全額払うのがいいのかとか、経済的に苦しい時はどうすればいいのかなどという議題に対し、あらゆる意見がでて、男性も交えて議論したのでなかなか面白かった。ここで気付くのは、女性が非常にシビアにそういうところをチェックしてその後の関係を見いだしていたりするのだが、男性はそこまで気にしていなくて、あまりにも毎回自分だけが支払っているとちょっと経済的に厳しいなぁなどと思い始めるという程度のようなのだ。まぁこんなに大らかなのは給料をそのまま奥さんに渡してしまう文化のある日本人男性のことで、自分で給料管理をする欧米人となると、男にひたすら支払いをさせる女性はbitchだとか言い出しかねないけれど。

お金のことは現実問題で、関係が落ち着いて、ましてやコミットメントを諮れば逃げられない問題なのだからこそ、3回目のデートくらいまでは男も女も夢見心地でプリンスとプリンセスごっこに徹していればいいのですよ、きっとね。


2012年04月25日(水) Coffee Beans :)

疲れて帰宅してぐったりと腰をおろし、なにげなくつけたテレビ番組にテホ君という韓国人の男の子が出ていた。テホ君は5歳。愛らしい笑顔を見せるどこにでもいるような普通の男の子に見えるが、彼は生まれつき両腕がない。そして母親に捨てられて孤児院で育った。だが、テホ君は足を器用に使い、なんだって人並にこなす。それどころか、他の子が靴下を履くのを手伝ってあげたりまでしている。その姿は仕事で揉まれてささくれだったわたしの心にぐさりと突き刺さった。職場では"出来ない"ことばかりカウントされる。そんな職場ははっきりいって病んでいるといえよう。"出来ない"理由は各個人ではどうにもならないことばかり。それなのにいかに"出来ない"理由を自分ではない誰かになすりつけるか、またはいかにいざという時に責任逃れするかということに躍起になる人ばかり。それほどまでにプレッシャーをかけられ追い詰められているといえる。理屈ではそれは正しくないと解っていても"出来ない"ことばかり突かれ続けていると、あれも出来ない、これも出来ない、挙句の果てに自分は無能だという暗い気持ちに取り付かれて、妙に気持ちが沈み込んだりする。テホ君は腕を授からなかった代わりに優しい心を授かった。わたしは仕事を100パーセント期限内にデリバリーすることが出来ない代わりに、それを人のせいにしたり、立場の弱い下請け業者をなじったりしない強い精神を授かった。人間なんてみんな持っているものが違うのだ。自分の力ではどうにもならないことは、個性と受け止めて笑って生きた者勝ちだ。テホ君がそう教えてくれた。

思い立ってクッキーを焼いた。エスプレッソががつんと効いていて味も食感もとてもいいのだが、なんといってもコーヒービーンの形が愛おしい。どっと疲れた時もキッチンでちょこちょこと何かを作ると気持ちが和らぐ。


2012年04月20日(金) 未来を生きる君たちへ

友人から頂いたベーグルを朝ごはんに。冷蔵庫の中のあり合せで、とろけるチーズを乗せて焼き、アボカド、玉ねぎをサンドした。マリネードしたオリーブとかガーリックとハーブ入りのクリームチーズとか挟むのもいいかな。ベーグルはさすがパンのテイストが同じ友人のチョイスで、全粒粉の生地でハト麦がまぶしてあって、焼くと芳ばしい。歯ごたえがあって顎が折れそうになったが、やっぱりパンはこういうのがいいね。

さて、この友人はネットを通して知り合ってもう10年近くの付き合いになるのだが、日本人女性(当人は"自分は女じゃない"というような発言をしていたが(笑))にもこんなタイプの人がいるのかと誇らしくなるような逞しい人なのだ。彼女がず〜っと前に旦那さんとの結婚についてこんな発言をした。

「すごい苦労人で、なんでこの人はここまで苦労してるんだろう、この先わたしが幸せにしてやるって思った」

と。この発言を聞いた時は、ふ〜んとこれといった感想を持たなかったのだが、わたしの心が成長したのだろう、今頃になってその言葉が大きく響いてきたのだ。誰かに幸せにして欲しいという受身ではなく、誰かを幸せにしたいと思ったらそれは本物の愛だろう。

また、ちょっと飛躍してしまうが、先日"未来を生きる君たちへ"というヨーロッパの映画を観た。登場人物全員の表情があまりにも暗い上に淡々としていて、とても気の滅入るものだったが、暴力に暴力で答えていたら世界は滅茶苦茶になるではないか、じゃぁどうやって暴力に立ち向かうのだ、というようなテーマで考えさせられるものがあった。短い人生、痛み傷つくことも勉強のうちだけれど、不毛な憎しみに心を囚われて生きるのではあまりにも勿体無い。幸せになりたかったらまず自分が幸せの種をみんなに分けなければいけない。人類がみんなこんな姿勢で暮らせたらどれだけ世界は平和になるでしょう。

そんなことを考えながらベーグルを噛み締めた朝でした。


2012年04月15日(日) 隣の人






















土曜の夜は同僚のお別れ会だった。同期入社で、この3年間休日も海に山にパブにレストランと一緒に繰り出した仲である彼がインドに帰ることになったのだ。家にこもって重い腰をなかなかあげないわたしを"Come over!"と屈託なく誘って、半ば強引に連れ出してくれたことにとても感謝している。彼がいなければ出会えなかった人も沢山いる。いつものインド料理屋で国際色豊かな仲間達が20人集まった。オーストラリアにアメリカ、フランス、スウェーデン、韓国、職業だってばらばら。。。みんなで美味しい料理をほおばり、豪快に飲んで、何ヶ国語もが飛び交い、一夜で世界を旅した気分になる、こんな愉快な会を主催するのもやっぱり彼だった。こっそりと順番にまわってきた寄せ書きのカードには、
「いつかインドに訪ねていきます。案内してね。」
と書いた。いつか本当に行くつもりだ。

日曜は友人とピクニックへ。公園でワインを開けてお弁当やおつまみを広げて、遠くでざわめく子供達を眺めながら他愛ない会話を楽しんだ。これこそ正しい日曜の午後の過ごし方だろう。

すっかりリラックスして家に帰り、クロエちゃんにごはんをあげておもちゃで遊んだ。なんだか今日はいつもより楽しそうだ、と感じてはっとした。クロエちゃんが楽しそうに見える時はわたしが楽しい時、クロエちゃんが悲しそうに見える時はわたしが悲しい時なのだ。隣の人は鏡に映った自分だ。隣の人が好きな時は自分が好きな時、隣の人が嫌いな時は自分が嫌いな時。最近、近い友達の結婚や旅立ちが続いてなんだか少し落ち込んでいた。なんといってもわたしの上をいくワガママ人間のアレックスまで結婚してしまったのだ(笑)。わたしはといえば、一年くらい前から転職を考えはじめてこつこつと勉強しているのに前進が見られない。自分だけがずっと同じ場所で立ち往生して取り残されてしまったような淋しい気持ちになったりしていた。雰囲気は伝染する。クロエちゃんにはわたししかいないのだから、機嫌よく生活していかなければいけないな。


2012年04月12日(木) 憧れのカントリーマアム

ロバート・レッドフォードの"The Horse Whisperer(邦題:モンタナの風に抱かれて)"とかヴィム・ヴェンダースの"Don't Come Knocking(邦題:アメリカ、家族のいる風景)"とか、アメリカの田舎の風景を魅せたいという意図が読み取れるような映画に登場するソフトクッキー。日本にもカントリーマアム(Country ma'amの意味でしょ???)とネーミングされて売られているあれ、わたしが一番好きなソフトクッキーはSubway(日本では残念ながら売られてない)のホワイトチョコとマカダミアナッツのやつだけど、すごく憧れてついに自分でレシピを探して作ってみた。ぐるぐる混ぜるだけで簡単。

紅茶を入れて、どこまでも見渡せる広大な大地、一日の重労働を終えて帰宅するハズバンド、大鍋で豪快にスープを煮込む太っちょのマアム、やんちゃで怪我の耐えない3人の息子達。。。。そんな美しいアメリカの田舎の風景を思いながらいただきました。








2012年04月07日(土) チヂミのツナギ

北風がひんやり冷たかったが、良く晴れた気持ちの良い日だった。朝に用事を全て済ませて午後はゆっくり。ランチにチヂミを焼いた。かりっと焼く秘訣はつなぎを卵ではなくじゃがいもにすることだ。少しの水に小麦粉を溶いたら塩と胡椒で下味をつけて、好きな野菜と細めの千切りにしたじゃがいも(水にさらさない)を入れて、フライパンに押し付けながら焼く。いつも適当に冷蔵庫の野菜を入れるが今日の具はいつも以上に美味しかったので書いておこう。細ネギ、にんじん、丹波シメジ(初めて食べてみたのだが、粒か大きいというだけで味は普通のシメジのようだ)。タレは醤油、酢、ごま油、コチュジャンにすり胡麻、砂糖をひとつまみ(あったら長ネギも刻んで、気が向けばおろしニンニクも入れるともっと良い)。先日我が家で同僚と飲んだ時、このチヂミを作ったらみんな絶賛してくれた。

そして冬の洋服の洗濯やお手入れもちまちまとした。10年以上前にポールスミスで購入した黒いジャケットは今でも活躍している。ハンガーにかけた時に思わず胸がキュンとなる黒い表地とは裏腹の一面広がるお花畑のような明るい裏地がついていたり、ボタンホールがひとつだけピンク色の縁取りになっていたりと、基本は真面目、でもさりげなくお茶目なところにひとめぼれだった。このブランド、ちょっと値段が高めだが、あまり露骨に流行に乗ったデザインをしないから、一度買ったら何年でも飽きずに抵抗なく着られるのが好きだ。

さて、洗濯物をたたもうと思ったら、クロエちゃんがその上にどってりと寝ていて、まっすぐに伸ばして干したものがぐちゃぐちゃになっていた。そうか、ぐちゃぐちゃに置いてその上に寝られたらダメなのだ。ちゃんと平らに置いて、その上に乗ってもらえば体温と重さで皺が真っ直ぐ伸びるに違いない。節約主婦は電気代を浮かせるために猫を飼ってそれで暖を取って冬をしのいだりするらしいが(何を食べさせてるのか知らないが、餌代のほうが高いんじゃないか?)、それならわたしは生きたアイロンとして活躍してもらうことにしよう。


2012年04月06日(金) 悪口のこころ

職場での出来事がとてもストレスな週だった。わたしは聖人じゃないから、それによって一番損をするのは自分だと解っていながらも人の悪口だって言ってしまう。でも、「絶対」とただひとつ心に決めていることがある。それは集団悪口に加わらないことだ。大きな会社で働いて様々な人間模様を観察して気付いた集団心理の傾向。ある人は、あたかも自分の考えが確実に正当であるかのように大きな声で威圧的に意見を述べる。そして自分の気に入らない人がいれば、あたかも″みんながそう思っている″と思い込ませるような言い方でその人の悪口を言う。それを聞いた心のか弱い連中は”みんなが良く思っていないなら、そいつは相当悪いに違いない”というイメージを持って一緒になって悪口を言う。人の波に流されて生きることほど簡単で空虚なことはない。すべての人を好きになれたら立派だけれど、わたしはそこまで博愛主義じゃない。まずもって好かない人のことで気を揉んで時間を無駄にするのは嫌だ。でもせめて人を悪く思うならはっきりした自分の意思で思いたい。

しかし、悪口が多というのは哀れなことだ。人生が充実していれば、そんなことに割く時間はない。

わたしはそんなことにはしらりと背を向けて自分の好きなものにだけ無我夢中でいられる強い心が欲しい。人間は少なからず身を置いた環境に馴染んだり、影響を受けたりするものだからそう簡単じゃないけれど、しっかり心を鍛えていつでも自分の心の平穏を保っていたい。

(写真:そういった意味では″お楽しみ″の天才クロエちゃんはわたしの先生だねっ。)


2012年04月01日(日) あの子を探して

チャン・イーモウ監督の古い作品。この監督の作品はいくつか観たけれど、これといって心に残るものがない。ただひとつ覚えているのは、かつてボーイフレンドでベストフレンドだった男の子と前売りチケットを買って、「初恋のきた道」を観に映画館へ行くと、隣ではウォン・カーワイ監督の「花様年華」が上映されていた。そこが焦点ではないにしろ、不倫ものだ。"初恋"もいいけど、"不倫"も気になる。後ろ髪を惹かれながらも予定通り「初恋のきた道」を観た。終わった瞬間、顔を見合わせて、やっぱり"不倫"にすればよかったな、と同調したことだ(けっきょく後にDVDにて"不倫"を鑑賞。"初恋"と引き分けくらいだったのだが)。

でも、この映画「あの子を探して」思わず最後はほろりと泣いてしまった。出だしはあまりにも淡々としてて退屈。中国の僻地の貧しい村の学校に代理教師として送られてきたミンジはわずか13歳の女の子。村の学校の子供は小さな子からミンジとさほど変わらない子まで。ミンジの家もまた貧しく生活する為に働くしか選択肢がなかったのだろう。子供達と知能指数はほぼ変わらず、とても教育者のレベルではない。10歳を過ぎたような子供が日本でいう幼稚園並の教育を受けているのだからこの村が貧困のサークルから抜け出せるわけがない。教える意欲もないミンジと勉強熱心でもない子供達はただただのらりくらりと学校生活を送っていた。ところがある日、いたずら坊主でミンジを困らせていたホエクーがまだ11歳だというのに家が貧しいことを理由に街へ出稼ぎに送られてしまった。彼とひと悶着あった後だったせいなのか、ミンジは心配になり街へ彼を探しに行こうとするが、バス代がない。生徒達にお金を出してくれと頼むミンジ。それも日本ではありえない話だが、また生徒達も負けてはいない。ポケットに小銭があってもないと嘘をつく。家から持ってきて、とミンジが食い下がれば、生徒達もそんなお金あるわけないと言い返す。みんなでなんとかミンジのバス代を得ようとあれこれと知恵を振り絞る。ここで初めて彼ら全員の脳が活性化しはじめて、やっと授業らしくなってきた。みんなでレンガ運びをしたりしてなんとかバス代とジュースを2本買えるお金ができた。
「コーラを飲んでみたい!」
という生徒のリクエストでコーラを2本買ってみんなで一口ずつわけあう。なんという貧しさなのだろう。しかし、分け合うという行為が胸を打つ。可哀そうというよりも、純真で好奇心に満ち溢れた子供達が愛らしいと思えるシーンだった。コーラの感想は、「なんか変な味〜」だった。

結局バス乗り場まで行き、想定していたよりも高くてレンガ運びで稼いだ額では乗れないと分かった。次なる手はただ乗り。子供達の協力によりただ乗りは成功したものの、道中で切符がないと気付かれてバスから降ろされてしまう。ミンジは歩いて歩いて、最後はヒッチハイクしたトラクターに乗せられて街に辿り着き、ホエクーを探し始める。

この映画で面白いのは、街の人々の言動に中国人の感性がもろに顕れていることだ。ミンジが何かを訊ねれば、最後まで言い終わらないうちに言い返し始めるせっかちさ。ぶっきらぼうに「ア〜?」(日本語でいう、え?と同じらしいが)と聞き返すところとか。誰も彼もあかの他人のミンジを冷たくあしらう。しかし、ミンジもホエクーも案外食べ物は恵んでもらえたりしているのだ。やっぱり中国人にとって″食べること″ほど大事なことはないからなのだろうか。声が大きくがさつ。街に来ても、国際社会に通用するであろう洗練された人格を持っているのは、テレビ局の局長と美人アナウンサーだけであった。

僻地の貧困にあえぐ村とその教育問題をとりあげた実話ベースの映画らしいのだが、貧しいが故に″物を大切にする気持ち″がよく育つのだろう。貧困から学ぶことも多く、富裕と貧困のバランスというものをあらためて考えさせられる。


Michelina |MAIL