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昨日のぐずついた空と打って変わって今日は朝から快晴。ランチの約束の前にと早起きして、一揆に滞っていた家事を片付け、気まぐれに買い集めた花を寄せ鉢にした。土を盛るたびにクロエちゃんがたよりなく軽々しい手でぽんぽんっと押してくれる。最初は、クロちゃんは何でもお手伝いしてくれるいいコだねぇ、などと喜んでいたが、ふと気付くと手も足も泥んこになって、その体で磨いたばかりのフローリングの上をぺたぺたと足跡をつけて歩いていた。やれやれ。。。寄せ鉢の花はみんな違う顔と違う背丈で、それでも仲良く微笑んでいるようで、窓際がぱっと明るくなった。
銀座でランチを食べて、日比谷公園で日向ぼっこをして、陽が傾きかける頃、映画館に入った。ヒューマン・トラスト・シネマは初めてだったが、入場した瞬間そのスクリーンの小ささに驚き、失敗したと思った。コーエン・ブラザーズの"True Grid"を選んだダミアンを制して、ソフィア・コッポラの"Somewhere"を選んだのはわたしだった。追い討ちをかけるように、出始めの閑散としたサーキットをスポーツカーがひたすら空虚な音を立て廻っているシーンなど、このまま二度と終わりがこないのではないかというくらい長く、もうがっかりしきっているダミアンの淀んだ心臓の音が伝わってくるようだった。結果的に、そう悪くはなかったとわたしは思う。セレブの空虚と言葉の通じない場所での孤独と気楽さを描いたところなど"Lost in translation"とよく似ていた。そしてソフィア・コッポラの映画のひとつの大きな見どころは決まって"Girls"。"Girls"は大人だろうが子供だろうが、いつも決まってイノセントな表情をして愛らしいドレスに身を包んで、淡いピンクのふわふわの綿菓子の上に寝転んでいるような甘い空気を漂わせる。この映画でもたった11歳の娘のクレオは他の作品の"Girls"に引けをとらなかった。ホテルで暮らし、酒びたりで女にもだらしないハリウッド・スターである父の荒廃しきって灰色にくすんだ私生活の中で、クレオのおろしたてのような美しさと透明な感性だけが眩しく光を放っていた。甲斐甲斐しく朝ごはんを作り、とびきりの笑顔を見せる娘だけが父の心に静かな幸福を与えていた。手作りの料理の温もりを知った父が、娘が去った後、不器用に大量のパスタを茹でて無心で食べる姿は胸に堪えた。
2011年04月22日(金) |
春夜の風とロッゲンミッシュブロート |
テレビでGWの予定を街角インタビューしていた。"自粛"の言葉ばかりが飛び出していた。こんな大変な時に自分だけ楽しむなんて被災地の方々に申し訳ない、とかそんな理由。つくづくこの国の人々は合理性よりも"情"なのだと思う。そんな心理が全く理解できないでもないが、実質そんな情は被災地の人々の心を救わないし、この国に新たな職を失う被災者を生み出すだけだろう。だいたい自分が被災した立場だったら、遠くの他人にも自分がこんな状態なのだから、一緒にじっと悲しんで欲しいなどと思うのだろうか。国をあげて暗いムードに包まれても解決には結びつかない。遊ぶお金があったら募金したい、などと言う人もいる。しかし、遊ぶことも関節的に被災者支援となるのではなかろうか。先日、同僚がいつもは観光客で賑わっている温泉街である故郷に戻ったら、人っ子一人歩いていなかったと話していた。観光収入が主な財源であるその町の人々はどうなってしまうのか。わたしは"消費は美徳"などと考える世代ではないから、日頃から倹しく生活しているつもりだけれど、"自粛"などという陰湿な匂いのする言葉は好きになれない。
ダミアンがヨーロッパの石畳を彷彿させるずっしり重くて固いロッゲンミッシュブロートを抱えてやってきた。袋に顔をつっこんで、思いっきり鼻で空気を吸い込んでみた。食欲をそそる香ばしい匂いに生唾を呑みながら、せかせかとマリネードフェタチーズとオリーブや卵と胡瓜をマヨネーズで和えたサラダを用意した。ミッシュブロートをゆっくりゆっくり口に運び味わう。これ以外のパンはホンモノじゃないと言いたくなるくらい香ばしくてしっかりライ麦と小麦粉の味がする。サワーなのもオイルの入ったおつまみをひきたてる。そして窓から差し込む春の夜のきりりと澄んだ風はしっかり冷やした白ワインを一際ひきたてる。仕事疲れも吹き飛ぶご機嫌な夜となった。
2011年04月16日(土) |
Ya Kun Kaya Toast |
都内在住のシンガポーリアンの友人に案内されて訪れて以来密かに気に入って、たまに近くまで来るとふらりと一人で立ち寄っていた豊洲のららぽーとのヤクン・カヤ・トースト。パンダンの葉とココナッツミルクなどを煮たカヤジャムと冷たいバターを、薄く薄くスライスしたトーストに挟んであるだけのシンプルな食べ物。シンガポールでは半熟卵と一緒に朝食として、単品でおやつとして食べられているようだ。喉にへばりつくような甘っとろいトーストとコンデンスミルクたっぷりのコピは東南アジアのうだるような午後の暑さによく合った。手に持った本も頭に入っているのかいないのか、野良犬のごとく暑さにうなだれて朦朧とする脳みそでたらたらと飲み食いするのがもっとも良い(シンガポールはどこも冷房がきついから、ここはひときわ衛生状態の怪しげなフードコートの一角などのお話)。なにはともあれ、先日シンガポールの話題になり、ダミアンがトライしてみたいというのでやってきた。
豊洲のららぽーとはロケーションも雰囲気も良いのに何故こんなにガラガラに空いているのか。両親の住む田舎でも次々と巨大なショッピングモールが建てられていくけれど、巨大なだけで内容が薄弱でまったく使えないようなガラクタばかり売っていて客入りが悪い。出来て数ヶ月もするともうつぶれそうな怪しい雰囲気が漂ってくる。ともあれ、わたしはどんな価値の高いものでも並んだりもみくちゃにされて買うのでは価値半減と思っているから、空いていればそれだけでよしとする。
ショックなことに、以前は中庭に面していて、晴れた日にはテラス席で日向ぼっこをしながら食べることができた店舗は、三階のフードコートのほんの片隅に追いやられ小さな看板を出していた。日本人には知名度が低いのか、人気がないのか。来る途中電車の中でばったり会った同僚(シンガポールに3年住んでいた)もそんな食べ物は知らないと言っていた。しかし、ダミアンは美味しい!と喜び、カヤジャムも購入した。節電で照明を落とされた暗いテーブル席で夜のレインボーブリッジに点された灯りを眺めながら、この先一週間は砂糖抜きでいきたいくらい甘い甘い夜を過ごし、ここは静かでいいね、また来ようね、と約束した。
2011年04月15日(金) |
桜は儚く散って。。。 |
6月末までに終わらせなければならないプロジェクトに巻き込まれ、非常に緊迫した日々が続いている。仕事も家事もちゃんとこなしている自分にほんの少し満足している。けれど、そこに他人の評価が伴わないのが少し不満だ。仕事に関していえば、求められるものが無謀なだけに、その要求に100%応えられていないことで叩かれることはあっても褒められることはない。疲れも虚しさも美味しいものと睡眠こそが全てを癒してくれる。。。。。。今週はダミアンがわたしの大好物のMaison Kayserのクイニーアマンを買ってきてくれた。わたしはこのシンプルなバターと砂糖のお菓子が好きで、安いのから高いのまで、小さいのから大きいのまで、ソフトなやつからハードなやつまであらゆるのを試したけれど、ここのやつがサイズも価格も味も硬さもパーフェクトだと思う。そしてスーパーマーケットで見つけた感動的に美味しいもの。それはヒタチヤ本舗という会社の江戸麦茶。鍋で沸かす時の香ばしい麦の香りもたまらない。もう他の麦茶は飲めない。美味しいものはいつも手元にあるが、ここ数日はクロエちゃんが発情期に入り、夜鳴きしどおしで睡眠がままならない。そろそろ避妊手術をさせなければいけない。本当はクロエちゃんだって、どこかの雄猫と恋に落ちて子供を産むはずだった。それが自然で一番幸せだろう。それを出来ないようにしてしまうのは心が痛む。しかし、沢山の猫が毎日保健所で殺処分されているのがこの国の現状で、もっと沢山の猫を飼える環境にあるならそんな猫達を助けたい。ごめんね、ごめんね、と背中を撫でながら、獣医に電話をいれた。
「甘苦い人生もポコアポコ(少しずつ)」
こんな言葉ひとつの響きすら、頑張り過ぎず、なんとかなるさと人生をてくてくと歩いていくグアテマラの人々の雰囲気を浮かび上がらせるようだ。この本は、片桐はいりさんに語られる、南米グアテマラに辿りついて、そのままグアテマラ人になってしまった弟を軸にした旅と家族についてのエッセイだ。長い長い話をいつもたった一行に凝縮してしまう口数の少ない弟、「美味しいごはんさえ作れれば、人生たいていの問題は解決できる」と母親に教わり、料理にだけは手を抜かない義妹、家事にあけくれいつも体を動かして働いていないと気の済まない気質の母親、そして、骨壺に収まってから初めてグアテマラへの旅行を果たした父親、決して「家族の固い絆」なんていうものを前面に押し出したりしていないのに、自然と描かれた家族の話はパズルのようにポコポコときれいに噛み合ってしまう。家族ってそんなもの。どこへいても、何年会わなくても、何かのきっかけでまた近づいたり離れたり、家族との赤い糸はどんなにか細くなっても決してプツリと切れてしまうものではない。飾り気なく気張らない文章がスーっと心に馴染んで、読んだ後は楽しかった旅と家族の記憶を呼び起こされて、じわりとあたたかくなるような本だった。
すっかり春めいた午後は朝からカチャカチャと作ったちらし寿司やら生春巻き、ケーキや果物を三段重に詰めて、ダミアンと桜の下でつついた。桜の木はどんな災難に見舞われようと毎年必ず花を咲かせる。なんて健気で忠実なんだろう。
4月に入り、今年もまた新入社員達が忙しく挨拶をしにオフィスを訪れ、出遅れている中庭の桜に変わり、オフィスに花を咲かせている。スーツも髪も呼ばれた時の返事も何もかもがピッカピカで、自分まで全てを新調したような気になる。
会社命令で一度は母国に帰っていったインディアン・ガイは、たまりにたまった仕事を放ってじっとしていることができず、親に顔を見せたらすぐさま再びヨーロッパに飛んで仕事の続きをこなし日本に帰ってきた。いつからか立派な日本人になったようだ。そしてこんな大惨事に見舞われた時の日本人の強さや冷静さ、協調性はみごとだ、こんなにうまくやれる国は他にないだろう、と賞賛した。その意見には賛成だ。しかし、今はまだほんのはじまりに過ぎない。本当の勝負はこれからだ。阪神・淡路大震災の時、避難所でみんなで肩を寄せ合い、悲しみを共有していた時はまだよかった、避難所から各仮設住宅に移って暮らしはじめた時、孤独死する人が後をたたなかったという。被災した人は家も仕事も家族も心も建て直していかなければならないし、被災しなかった人も忘れ去ってはならない。これから長期にわたって日本全体で考えて、ひとつづつクリアしていかなければならない問題だ。
朝、津波に呑まれ、残った屋根の上で漂流していて救助された犬と飼い主の3週間ぶりの再会の映像がニュースで放送されていた。わたしの人生はいつでも動物との友情に支えられていたから、こんな映像を見せられては、反射的に自分と彼らとの別れなどを思ってすぐに涙があふれてきてしまう。おんおん泣いてから、ふと疑問がわいた。飼い主は助かっているのに、何故犬だけ津波に流されたのか。避難時に犬を置いて逃げたのか。そんなことを想像してしまったら心にスーッと隙間風が吹いた。
今年も毎年恒例、会社の同僚達がお花見を計画している。お花見は自粛するように、などとも呼びかけられているけれど、そんなことに意味はあるのか。"桜の下でのバカ騒ぎはやめるように"と訂正してはどうだろうか。日本経済だって大変なダメージがでているのだ。こんな時こそみんな外にでて元気に遊べばいい。
(写真:コブシの花)
2011年04月02日(土) |
Buon apetite! |
ガレットを食べようとダミアンと表参道で落ち合った。外国人がぱったりと姿を消した東京でダミアンはとても目立つ。観光客が戻ってくるのはいつになるだろうか。小さな路地裏の小さなお店に入ると気分はたちまち小人にでもなった気分だが、実際はでかいままなので、ダミアンは肩を縮ませて前のめりのような格好になっているのが滑稽だった。フランス人らしき店員さんが"Buon apetite!"とにっこり笑い、料理を置いていく。わたしはブルーチーズとポテトと胡桃のを、ダミアンはチーズとトマトとアンチョビとオリーブのをいただいた。フランスで初めて飲んで、滞在中はずっとはまっていた"シードル"も楽しみにしていたが、残念なことに地震で割れて再入荷が遅れているらしかった。
食後のコーヒーはすぐ裏のスターバックスで飲むことにした。夜になって空気も冷たい。わたしもダミアンも春の夜のこんなひんやりした空気が好きで、外の席に腰掛けて手足を延ばした。
「ミディアムサイズのコーヒーを。」
とオーダーしたら、
「スモールとトールとグランデです。」
と返された。アメリカンなスタバもアメリカンっぽいのが嫌なのか、マクドナルドのような店と差別化を図りたいに違いないなどと勝手な想像をして苦笑した。
「それにしてもモスバーガーのRとLのサイズ表示はやめて欲しいな、日本人は発音の区別がないから答える時に緊張しちゃうよ。」
とダミアン(笑)。日本人が大・中・小にしないのはトイレと差別化を図りたいかからなのか、とか、まったくくだらない会話で夜は更けていった。